自警団の腕章

 ヘミスは地獄だ。
 一文字一句違わず夥しい人々が言う言葉。それを私は、どこか他人事のように聞いている。
 終わらぬ冬の中で、降り頻る雪のように噂を聞く。地球教の長老と巫女達が盛大な祈りを捧げて、母なる地球が救いの手を差し伸べてくださる。いや、ごく一部の信徒だけが、銀河に逃れることができる。不公平だと声を上げた一部が、疫病は全てに分け隔てなく降り注ぎこの苦しみから解き放ってくれると熱狂的なカルト集会を開いている、とか。病院はワクチン制作に成功して、収束の兆しが見えてきた。いや、ワクチンではなく、特効薬が開発されたんだと言う言葉が脇から上がる。軍は疫病を瞬時に見分けるセンサーを搭載しているとか、疫病罹患者を殺してくれる救世主だとか、殺しを正当化している声も聞かれた。無茶苦茶だ。これを他人事ではなく真摯に聞いていたら、気が狂ってしまいそうだと思う自分がいた。
 大都市ヘミス。この世界の中心と言える大都市で、地球教総本山のお膝元だ。大人の身長の倍はありそうなフェンスの上には、錆び付いた有刺鉄線が未だに巻きついている。その向こうの光景は雪に霞んで見えない。
 それでも風に乗って鼻先を摩る匂いには、不吉なものしか感じなかった記憶がべっとりとこびり付いている。消毒用のアルコールの匂いがした頃はまだ良かった。顔を顰めたくなるほどの嫌な匂いは、死者の匂いか、病人の匂いか。そのどちらでも大差ない疫病が醸す匂いは、身震いするほど恐ろしかった。
 誰も振り返らなかった。恐ろしいモノから逃げるように、足早に南へ歩いていく。そして熱に浮かされたように、呟くのだ。
 ヘミスは、地獄だ。と
「狼が出るから、猟銃で武装しなきゃならないんだ。今だって地獄だ」
 そう、傍に立つ男は猟銃を手に周囲を警戒しながら言う。どこかで見覚えがあり、その顔を、その声を、酷く懐かしく思う。南にあるマルクスのロケット工場の者だそうだ。しかし、それが誰だったか結びつける事はできない。私は、私が何者なのかを覚えていないからだ。
 自分が何者なのか分からなくとも、分かることがある。私はまっさらな純白に陰りがあるのを見つける。
『獣の足跡のようだな』
「見えてる。群れているみたいだな」
 じわりと恐れが男から滲んでいるのが分かった。ヨハンと名乗った男は、体格の良さに防寒着で着膨れた熊のような男だった。その大柄な体格から不利と感じるのか、獣達はおいそれとは襲ってこないらしい。この終わらぬ冬の世界を我が物顔で闊歩する獣達が避けてくれるのは、尊き地球の御加護を受けていると思ってしまうくらいだ。
 それでも、群れであれば襲われる可能性は増す。ヨハンもそれを察しているのか、猟銃を握る手に力が籠る。
 深々と雪が降り、ありとあらゆる音が消失した世界にヨハンの足音だけが響く。雪に潰された野外テントの間をすり抜け、外壁の崩れつつあるビルの間を目指す。野外テントは臨時の検疫所だったものだ。疫病が蔓延し病院のベッドは瞬く間に満床になり、廊下にあった待合のソファーが埋まると、机の上にも病人が寝ていたという。最終的にはスポーツを行うドーム、体育館、雨風が凌げれば大きな施設そのものが病院となった。人が入り切らぬ程に詰め込まれた場所に検疫する場所などなく、野外に検疫所が設けられた。あの検疫所で感染していないことが証明されれば、ヘミスを出ることができたのだ。
 だが、ヘミスの感染は想像以上に早く蔓延した。感染していない証明書は偽造され、もはや感染していようがいまいがヘミスを出ることは叶わなくなる。密集して漂っていた魂に触れずに通過する事は不可能で、家族を出してくれと叫ぶ声が私をも貫いて響いた。苛立ちが舌打ちに変換されて、空気を打った。
 ヨハンの苛立ちに刺激されたのか、低く唸る音が聞こえる。まだ距離はあるが行手を遮るように獣の黒々とした影が、白い雪の上を歩いている。ヨハンも覚悟していたのか大きな動揺もなく、周囲に素早く目を走らせる。
『近くの建物に逃げる暇はなさそうだ。壁を背にしよう』
 建物の隙間に坂のように積もった雪の上から、ゆっくりと獣達が姿を現す。真っ白い雪の上では、灰色ですら黒々と濃く淀む。黒の中に滑る銀から滴る唾液が絹糸のように光沢を帯び、ぎらぎらと黄金のような虹彩の瞳が結びつけられたように見つめてくる。ぐるぐると唸る声は一つ二つと増えていき、ヨハンが建物を背に彼らを見据えた時には5匹ほどの群れがそこにいた。
 ヨハンが微かに震えている。こんなに多くの獣に取り囲まれることは、そう起きることではない。殺意が獣の形をして襲いくる恐怖に、寒さからではない震えがヨハンの全身に広がっている。歯が噛み合わぬガチガチと響く音と振動が脳髄を揺さぶり、カチカチと猟銃のなる音が酷くなる。
 私はヨハンに寄り添う。背を優しくさすり、落ち着かせるように声を掛ける。
『大丈夫だ、ヨハン。落ち着け。お前は銃を持っている。お前が驚きと動揺で、引き金を引くまでの順序を全て忘れたとしても、私が教えてやる。お前を殺させやしない』
 深呼吸を。そう声を掛ければ、ヨハンは胸いっぱいに凍えそうな空気を吸い込んだ。体の内側から急速に冷えていくが、体が防衛本能に燃えているので丁度良かろう。普通ならパニックになって駆け出しても良いだろうに、素晴らしい度胸に感心する。
 猟銃を構えさせる。猟銃と空包を与えた時練習させたが、手を添えて構え方を思い出させる。
『当てる必要はない。だが君が脅威であることを判らせなければならない』
 気象コントロールセンターがその機能を失い、長い長い終わらぬ冬が続いた時、獣は人の脅威となった。私はヘミスから逃れる人々を眺めつつ、住んでいる街に忍び寄る獣達を排除するのが仕事となりつつあった。飢えた獣は人を襲う。老人が、子供が、女が、真っ白い雪の上に鮮血を残して、森の闇に引き摺り込まれる跡を残して、消えていくことは凍死と変わらぬ頻度であった。
 殺めるのは難しい。追い払うのがせいぜいだ。
 だから我々は武装した。空包を放ち獣達を追い払う。大きい音ばかりで死ぬことはないと悟った賢い奴らは、空包を恐れなくなる。人が死ぬ。ここは、もう、安全ではない。
『安全装置を外し、狙いを定めるんだ。引き金は軽くなっている、決して銃身を自分に向けてはいけない。衝撃で暴発する可能性もある。狼や獣から身を守るための防御に猟銃を使ってはいけない』
 覚えている。私は己のことを忘れているというのに、銃の扱いを事細かに覚えていることに苦笑した。ヨハンの集中力が恐怖を薄れさせ、鮮明になった世界で獣達の殺意が見て取れる。ヨハンを殺して食おうと、自分達の命の糧にしようと、唾液の滴る音が空腹を訴える腹と歌う。
 殺される。一度ならず二度までも。ヨハンの恐怖が私に伝わって、死の恐怖を共有する。
 いや、あの時とは違う。
 私は甘んじて殺されたんだ。私が死ねば、奴らの望む通り殺されてやれば、守るべき人々が安全に南へ下る事が出来ると思ったのだ。死んだ今では、見渡す限りの人類が死んだ世界では、命を賭けて守ろうとした人は死んだとわかる。それでも、少しは穏やかな最後を迎えられただろうか? どんなに祈っても願っても、変えられぬ過去になってしまった。
 だが、過去ではないものがここにある。
 今、守るべき者。
 ヨハン、私は君を守りたい。誰かを守ることが、私の存在意義だった。
 狼の動きが私を殺そうとした兵士と重なる。むき出しの殺意は、ここにいると、攻撃すると宣言するようなものだった。雪の上にあった黒が飛んだ。しなやかに四肢を繰り、寒さに膨らんだ毛皮が無風の世界に暴風に嬲られたように乱れる。大きく開かれた顎から、白く濁って尖った凶器がずらりと並び、待ちきれんばかりに膨らんだ舌がヨハンに伸ばされる。
 真っ直ぐ、ヨハンを目指す。喉笛にかぶり付き、組み伏し、腑を引きずり出そうとする。
『ヨハン!』
 手が動く。銃口が素早くそちらを向いた。寒さだけでは無い震えが、照準を小刻みに揺らしている。
『撃て!』
 私の声に一拍遅れた銃声。それは謀らずとも、絶妙なタイミングとなった。
 真っ直ぐヨハンに向かった獣は、銃口に飛びつくような具合になった。獣の眼前にあった発射口が閃光を放てば、轟音と共に衝撃が獣に放たれる。獣の顔が何か大きな壁に当たったかのように歪む。その歪みは大きく、大きくなって、肉体を保つことができないほどに歪んで引き千切って駆け抜ける。口の中に飛び込んだ衝撃は、獣の体の中を蹂躙した。目玉が飛び出し、体が風船のように膨らんで毛皮の内側にあった真紅が食い破るように真っ白い世界に飛び出していく。臓腑が撒き散らされる。
 べしゃり。
 生暖かいものが降り注ぎ、すぐさま冷えた。ヨハンがびくりと体を硬らせた。
『至近距離ならば致命傷も与えられる。空砲だからと軽んじてはいけない』
「最悪だ」
 ヨハンが泣きそうな顔で己の体を見下ろした。獣達が恐れをなして逃げていき、一人雪原に立つヨハンは怪物ような出で立ちだ。狼の血飛沫を全身に浴びてしまって血塗れてしまっている。むせ返るような生臭さに吐き気に襲われているようだが、吐けそうなものは腹にないらしい。
「たかが、たかがロケットを打ち上げるだけなのに、どうして俺は…」
 ヨハンの独り言を聞く。
 自分の存在は何の為にあるのか。何の為に生きているのか。皆、答えを求めた。疫病に苦しみ、絶望に追い詰められ、理不尽に嬲られて、最終的には死んでも答えは見つからぬ者ばかりだ。
 私も殺されたあの時に、永遠に手に入れることは叶わないと諦めていた。私は名も知らぬ魂になる。銀河に還っても、家族や友人に出会えないのではないか? 永遠に名を知らず、生きてきた時の縁と巡り合えないことが、不安で不安で堪らなくとも、どこかで諦めていた。
 そんな中、ロケットが打ちあがる。
 この近辺なら知らぬ者はいない、マルクスタウンの工場がロケットを打ち上げているのだ。未だに銀河に届いてはいないけれど、その試みは全ての魂にかつてない希望を与えているだろう。私もそうだ。銀河に還れる。それはとても喜ばしいことだ。
 だからこそ、名もなき魂と成り果てる未来が現実味を帯びる。しかし、どう足掻いても何も思い出せない。家も思い出せず、殺された場所も覚えていない。私が自分自身の過去を探すことは、ホワイトアウトの中を彷徨うようなものだった。
 それでも、私は覚えている。かつての私は、自警団の腕章を着けていた。
『行こう、ヨハン』
 何者であるか思い出せなくても、私は守るべき者の為に生きていこうと決めた。
 今は、それがヨハンだ。この疫病で全てが死んでしまった絶望の世界に生きる彼のために、私は出来る限りのことをしたい。例え名も無き魂となって銀河に還ったとしても、私はヨハンを守りきったなら、それを誇りに生きていける。今度こそ、守り抜きたいのだ。
 尊き地球よ。私が自警団の責務を全うする機会を与えてくださったことを、心から感謝する。