動き出した腕時計

 終わらぬ冬の空は厚く垂れ込めた雲が覆っていたが、降り頻る雪や積もった雪の白さに照り返されて薄明るかった。そんな空が赤く染まることは度々あり、夕焼けを覚えていない俺は随分と怯えたものだ。新マルクス採掘場の大火災は爆発の揺れがマルクスタウンを揺らしたので、真っ赤に照らされた空は火災だと誰もが分かった。
 しかし北の空を数日赤く染め上げた光は、世界の終わりと住民を一頻り不安にさせた後に真相を知った。
 バールで凍りついた扉をこじ開けるのは、もう手慣れたものだった。強引に捻じ込まれ弾けた衝撃を感じれば、動かなかった重い金属の扉は、力一杯押せば開けられるようになる。断末魔の叫びのような恐ろしい音で世界を切り裂きながら、俺は溢れ出た光に潜り込む。脛まで積もった雪を踏分け、粉雪の中から遮るように立ち並ぶ黒い柵を目指す。雪が乗った錆びついた柵に手袋に包まれた手を載せると、視線を遠くに投げた。
 粉雪に霞んだ見える限りの全てが、ヘミスシティだ。OPUS工場が建つ丘の上から見るマルクスタウンなんか、比べ物にならない程に広い大都市。大きな川を挟んだ向こうにも、黒々とそびえ立つ高層ビル群の影が見える。視線を下ろせばスラム街だ。新マルクス採掘場の北に広がるあの混沌とした住宅街よりも、ごちゃごちゃと複雑怪奇な世界が底無しの大穴のように落ち窪んでいる。
『幹線道路は全く使えそうにないな』
 傍に漂う魂の言葉の通り、ヘミスの大きな道は折り重なるように潰れた車に溢れていた。金属の車体は凍り付いて雪を被り、さらに俺の倍以上の高さに積み上がっていれば登ってみようなんて気にはなれない。
「迂回路を探すしかないな」
 ヘミスに向かう道すがら同行するようになった男の魂には、不本意ながらも助けられた。元々ヘミスシティとマルクスタウンの間にある街の自警団の団員だったらしく、自警団の詰所にあった猟銃と空包を貰うことができた。銃の使い方も教えてもらえたし、お節介なのか面倒見が良いのか同行している。穏やかな魂で不快にならない距離を保ってくれるし、狼に囲まれた時は存在自体が心強かった。
 憎いとすら思っている魂に、助けられる日がくるとは思わなかったな。俺は男の魂に話しかけながら、白い息が流れていくのを見る。魂が眼下へ意識を向けるのを感じた。
『狼の群れに遭遇したことから、深い森に飲まれつつある空港側は避けるべきだろう。老朽化と火災で脆くなっているだろうが、スラム街を抜けた方が良いと思う』
 魂はどうやら俺に触れている間は、俺の見ているもの感じているものを共有するらしい。俺の同意を魂も認識する。踵を返し、金切り声を上げる扉を閉め、階段を降りる足音を闇が吸い込んでいく。
 ヘミスシティ郊外の南側に広がるスラム街一帯が、大火災で焼失したのは疫病が蔓延して暫くのことだった。
 いや、ヘミスシティで疫病が一番最初に蔓延したのがスラム街だった。
 ヘミスシティでも最も貧困に喘ぐ人々が集まって暮らす無法地帯で、どうやって疫病をコントロールできただろうか? マスクを買う金も、手を洗う水を流す水道も、健康保険にも加入しておらず医者に診てもらう権限すら与えられていない人々に、真っ先に疫病は襲い掛かった。最初期の疫病の新規発生者の殆どがスラム街の人間で、軍はスラム街を閉鎖したという。鉄板でスラム街をぐるりと囲み閉じ込めた。
 その鉄板の壁の内側が、突如火に呑まれた。
 スラム街の住人の火の不始末とも、火葬の火が建物に飛び火したとも、軍がスラム街に爆撃して燃やしただとか様々な噂が流れた。だがどんな噂だろうが結果は一つだ。スラム街は燃え、住民のほぼ全員が焼死した。ヘミスの空は赤く染まり続け、燃える火が新聞の一面を飾り続けたのを、幼心に恐ろしく思ったものだ。
 かつてスラム街だったものは真っ黒になっている。隔離するための鉄板は溶けてしまっているのか見分けがつかず、ただただ黒い影が雑然と目の前に積み上がっているような気がする。方向的には正解のはずなのだが、深い森に続く道のように進むべき道が呑み込まれている。
 うん? 同行している魂が困惑したように身動いだ。
 目の前が真っ赤に染まった。熱い。一瞬列車の時のように、魂達が記憶に呑み込まれたかと体が強張る。スラム街の大火災の記憶なら、炎に巻かれると思うんだ。だが体が焼かれる痛みはない。視界の赤は赤い光を放つ魂が、周囲にたくさんいる…!
 驚きに身を竦めている場合じゃない。俺は慌てて駆け出した。赤い光を放つ魂は悪意を持って攻撃してくる。一つでも触れれば頭の中に手を突っ込まれて脳を掻き回されるような激痛で気を失いそうになる。複数に触れて無事でいられるとは思えない。この極寒の世界で気を失うのは死ぬことと同意義だ。
 逃げろ! どこへ? 逃げ場なんてどこにもない! 声が迫ってくる。
 スラム街はもう真っ黒ではなかった。赤い光を放つ魂に溢れかえっていて、ぶつからずに通過するなんて不可能だ。
 熱い。熱いよ。どうして、燃えているんだ?
 地面に積もる雪の上に、幾人もの人影を見る。ヘミスシティという大都市に暮らしているとは思えない、薄汚れた服装の人々だ。終わらぬ冬のために防寒着の配給だってあったはずなのに、倒れていたり逃げ惑う人々は驚くほどに薄着だった。白い服は灰色と黒の斑模様になり、擦り切れて穴が開いているものばかり。人間の髪なのかと疑いたくなるような、まるで綿を捻ったような脂っ気のない髪をしている。
 彼らは逃げる。逃げようとしているが、その方向はてんでバラバラだった。俺と同じ方向を目指す者もいれば、流れにぶつかってまで反対方向へ進もうとする者もいる。もう死んでいるのか動かぬ者もいるし、諦めて傍で酒を煽っている者までいた。
 軍が俺達を皆殺しにしようとしているんだ。いや、スラム街をヘミスの汚物と罵る、富裕層の人間共だ。煙草好きの連中が、火をちゃんと始末しなかったんじゃないのか? 火葬場の連中はもう気が触れちまってる、そこらに転がってる死体に火をつけちまったんだ。
 すれ違い触れる魂達の言葉が聞こえてくる。酷い混乱は全ての五感を掻き回し、俺は全てが焼け死んだはずのスラム街にいるのか、これから全てが燃え落ちようとしているスラム街にいるのかすら曖昧になっていく。周囲が赤い。見上げれば火の粉のように魂の赤い光が見える。いや、あれは火の粉なのかもしれない。
 ごうっと音が横殴ってくる。熱気が頬を炙り、足が縺れて慌てて手を伸ばして体を支える。
 視線を向ける。炎が建物を舐めるように膨れ上がっている。炎の中から黒々とした人影が何人も飛び出しては、死に物狂いで俺をすり抜けて駆け抜ける。熱い。熱い。どうしてこんなことに。そう痛みと苦しさから逃げようと走っている。逃げられなかった者は人の呻き声にはとても聞こえない恐ろしい音を立て、やがて真っ黒い塊に成り果てる。恐ろしくて、喉の奥に悲鳴が突っかかって窒息しそうだ。
『ヨハン、落ち着け。道を離れるんだ。ここは人が多すぎる』
 傍に立っていた男の落ち着いた声色が耳に染み込んでくる。肩を大きな手が掴んで、こっちへ来いと押してくる。真っ暗な暗がりに押し込まれると、ようやく魂達の感情が流れ込まなくなる。俺は穴という穴から出た水分が凍ったものが剥がれ落ちる痛みを感じながら、地面に倒れ込んだ。頭が痛くて弾け飛んでしまいそうだった。
『大丈夫か? そんなにキツいのだな』
 労わるように触れてくる。薄目を開けると、しっかりとした厚手の防寒コートに身を包んだ中年に差し掛かりそうな男が覗き込んでいる。真面目で人の良さそうな温和な顔の男は、その顔の印象通りに髪を整え髭を剃っている。腕には腕章が付いていたが、疲労困憊で霞んだ視界ではよく見えない。
『これでは、スラム街を抜け道としては使えまい。引き返して、別のルートを模索しよう』
 腕章をつけた男の視線の先では、逃げ惑う人々の影と喚き散らす声が忙しなく行き交っている。赤い光は鮮明で、本物の炎のようにちらちらと揺らめいている。
 奇跡的に乱立する居住空間の隙間らしい場所には、ガラクタで作った竈が雪に埋れつつある。もう逃げることも諦めた人々が、建物の壁に背を預けて静かに降り注ぐ赤い光を見上げていた。
 もう、恐れなくて良くなる。一人が囁いた声に、一人一人と声が続く。
 病気になって死ぬ心配はしなくていいんだ。病気になっていないか、他人を疑わなくて良いんだ。病気に罹っていると、閉じ込められることはない。病気になって苦しむ必要はない。手に入らないマスク、酷い匂いのする下水道、救ってもらえないと突きつけられる現実はもう要らない。親しい者も親しくない者も死んでいくのを、見なくて良い。誰も助けてくれない。どこにも、逃げられない。なら、自分達で死に様を選んで良いじゃないか。
 歌のようだった。最悪なまでに希望のない内容なのに、声は安堵のあまりに美しくすらある。
 あぁ、幸せだ。この最悪な日々がもうじき終わる。死んで、全てから救われる。ロケットが打ち上がれば、銀河に還れる。還って、幸せになろう。地上で生きる苦しみなんか些細なことと切り捨てるまでに美しい、あの星々のようにありたい。
 願いが湧き上がり、慕わしげに空へ向けられる。美しかった。魂は希望に思いを馳せて、残酷なまで美しく光る。
「やめてくれ」
 俺は呻く。耳を塞いで雪に額を押し付け蹲る。
「ロケットを上げるなんて、無理だ。失敗して失敗して失敗ばかりで、とてもじゃないが打ち上がるなんて想像できない。フェイは、巫女は、次は大丈夫だって言う。次が大丈夫になるよう、俺に部品を集めろと言う。だけど、本当に部品が集まれば上がるのか? 俺にはとても、そうは思えない」
 俺は絞り出すように魂達に言う。いや、伝わった試しがない。どいつもこいつも、銀河に還りたいだ、ロケットはいつ打ちあがるんだとか、はやくしろだとか、自分の都合ばっかり言う。沢山だ。もう、沢山だ。俺は睫毛が凍っては溶けていくのを繰り返し感じていた。
「頼む。銀河に還るだなんて望まないでくれ。俺にロケットを打ち上げろと、頼まないでくれ…」
 ヨハン…。あの腕章をつけた男の声がする。優しく、悲しい声で、俺の名を呼んだ。
 なぁ、若いの。
 嗄れた老人のような男の声がする。
 言うだけは無料なんだよ。この貧しい人々は何も持っていないし、何も出来ることはない。もう、生きていくことすら許容されない。こんな最悪な世界で我々が出来ることは、こうやって愚痴やら他愛ない願いを言うことくらいなんだ。どうか、許しておくれ。
 ここは火災が起きた日で止まっている。火災が全てを飲み込んだことは、我々にとって命を奪われる最悪なことではあっただろう。でも、最悪な中でも比較的幸せだったんじゃないかって思うよ。我々を殺したのは、火だった。そう、どんな発端であろうと、火だったんだよ。
 雪を溶かして沈んでいく手が、何か地面でも石でもない物に触れる。平たい、滑らかな人工物。掴んでみると小さくてコインのようだった。顔を上げて手の中を見る。
 時計だ。人工革のバンドは焦げ付いて一つは取れていたが、もう一つは辛うじて時計本体に繋がっている。雪に錆びつきはしているが、凍える寒さの中では水の浸食に晒されなかった文字盤は見易かった。火災が起きた時間とされる時刻で止まっている時計は、ひび割れていたが状態は良さそうだ。
 俺はそれを拾い上げて、しげしげと見た。世界が異様に静かだ。誰もが息を殺して、俺と時計を見下ろしているような気がする。この火災が起きた時刻で止まった時計に、何かを求めているような気がした。
 何を、求めているのだろう? 俺はひび割れた硝子を指の腹で撫でた。
 動くのだろうか。なぜか、そう思った。