木の葉診療所の看板

 覆い被さるような高いビル群から吹き下ろす強風が、多重事故で折り重なる車の間を吹き抜けて轟々と音を立てる。ビル風のお陰で雪は深く積もる事はなく、頑丈な建物には拠点として使えそうな場所が多く残っていた。食料も自家発電機も銃弾ですら、探せばマルクスよりも簡単に手に入る。新マルクス採掘場を探索するよりも、ヘミスシティは生き延びやすい場所だった。
 それでも、当然良い事ばかりじゃない。
 ヘミスには何処よりも多くの魂が留まっている。有刺鉄線を巻きつけたフェンスにへばり付く魂達で、ヘミスを閉鎖する壁は輝いて見えた。魂の状態なのだからフェンスをすり抜けれるはずなのに、出して、通して、と恨めしげに繰り返す。生きている時に逃げられなかった認識が、魂を縛り付けているんだろうとフェイは言っていた。
 道を行けば誰かを探す魂とすれ違い、検疫所には自分は疫病ではないと主張する魂で溢れている。人の住処だろう部屋には、ここで一人死ぬと横たわる魂も多い。家族であったり仲の良い魂達が集まって、静かに時が流れるに身を任す。『自分は感染者だ』と、飛び跳ねるように動き回る活発な魂までいる。大都市だからか、見たこともないタイプの魂は多かった。
 橋を渡った北側は高層ビル群が連なる居住区だったが、バリケードが張り巡らされている。バリケードを越えようとする魂と、それを妨害する魂で激しい争いが起きていて近寄るのも危険だ。幸い、フェイが欲しがる材料があるだろう施設は南側に集まっていたので、遠巻きに見るだけで済んでいる。
 その中で一番の脅威が、夜には炎のように浮かび上がる。
 地球教総本山の前は真っ赤に染まっている。重く伸し掛かる雪雲すら仄かに赤く照らし出す程に、良い感情を持たぬ魂達が集まっているようだった。激しい明滅は魂とは思えぬ攻撃的な意思を感じて、石を投げつけられたように体が強張った。近づかぬ方が良いと親切に言ってくれる魂もいたが、言われなくても近づく事はないだろう。
 どこもかしこも魂で溢れたヘミスを今日も行く。
 チェーンカッターで封鎖する為の鎖を切断し、金属のスライド式の門を押し開けようとする。大きな車が余裕ですれ違える幅を塞ぐ門は、下に車輪がついていたが雪や風に錆び付いて動かないのだろう。薄くて軽いフェンスなら押し開けれるが、これほど重量感のある金属の門では諦めるしかない。俺は自分の背丈より少し低い門をよじ登り、乗り越えた。
『ごめんなさい。ヨハン。狼や寒さで危険な場所なのに、わがままを言ってしまって…』
 後を追って門をすり抜ける魂に手を差し出す。手に触れた魂が申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。ナンシー先生が、工場の皆を診てくれたの覚えてるから」
 マルクスで唯一の診療所の医師である、ナンシー先生が工場に来て言うのだ。ヘミス中央病院に行きたい。その願いにフェイが二つ返事で引き受けた。『ヨハンの命の恩人なんだから、先生と行ってきなさい!』ってさ。そんな命令口調で言われなくとも、先生の頼みなら俺は断らない。
 ヘミスシティで最も大きな病院だ。まだテレビが放送されていた頃によく映っていた建物だと、既視感に納得する。芝生に植えられた木々の根に押し上げられた波打つコンクリートの上を進むと、硝子が破られ板で補強された玄関にたどり着いた。バールで板を引き剥がすと、懐中電灯のスイッチを入れて内部を照らす。
 マルクスの小さな診療所しか知らない俺ですら、これは異様だと思う光景だ。人一人通れる間隔を空けて、ぎっしりとベッドが並んでいる。それが、見渡す限りの全部。会計を待つ為のエントランスも、診察室に向かう為の細い廊下も、当然病室も、床でベッドが置けるスペースがあるならば、そこにはベッドが必ずある。足の踏み場もないほどに、リネンや点滴台や管が床に散乱している。鼻を突くような薬品の匂いに、俺はマフラーを鼻の上まで持ち上げた。
 密集と表現してもあまりある程に、沢山の魂がそこにいた。この病院の中に押し込まれているようで、苦しげな呼吸音が肌の下を這いずり回るようだ。
『へミス中央病院は中核病院だったわ。最初から最後まで、ヘミスで最も悲惨な地獄だった場所でしょうね』
 ナンシー先生が先を行くのを追う。
 動き回る魂達は看護師なのだろう。心肺停止のアラームが、鳴り止まず耳にこびり付く。遺体を収める袋に無理矢理押し込む、まだ生暖かい体。死にたくないと涙ながらに訴えた者に、大丈夫助かると励ます罪悪感。空いたベッドは整える間もなく次の患者が乗せられる。終わりがない。絶望が心の中を土足で歩き回り、掻き回して狂ってしまいそうなのを使命感で留めている。感染して『ようやく死ねる』と笑った看護師を、狂っていると眉を顰めるものは誰もいない。隔離も尽く貫通し、見渡す限りに蔓延する疫病。親しい人と別れを惜しむ暇もなく、独り死ぬ。
『疫病は私達医療従事者の生活を一変させた』
 呼吸が出来なくなった体が、はっと息を吐く。
 そうだ。俺は生きている。死んでいった奴らに引きずられてはいけない。触れるだけで記憶が頭の中に満ちてくる。俺は魂達の間を抜ける間に、何年もの月日を過ごした気分になった。
『私達は患者達が増え始めたのを、季節性の風邪が流行っているのかと思った。季節性の風邪で高齢者や重症化しやすい持病を持った者は、毎年少なからぬ人数が死ぬの。決して珍しいケースじゃないわ。しかし、全く病気のしたことのない健康な若者が多い気がしたの』
 そう、アレックスさんのようにね。ナンシー先生は言う。
『医師達の中で新型のインフルエンザという単語が、呟かれるようになったわ。そんな不吉や不安を、私達人間は避けたがる。そんな訳がない。気のせいだろう。そう可能性を頭を振って追い出して、目の前の患者を診ることに専念したの。誰もが、ね』
 魂達が少ない方へ向かっていく。ナースステーションを通り過ぎ、病室を抜け、暗い暗い廊下を奥へ奥へと向かっていく。途中で救命救急センターに足を踏み込むと、戦場のような魂達の坩堝がそこにある。気が立っているのか赤い光を放つ魂を見かけて、俺は足早にナンシー先生を追い越す。
『急患が増える。ベッドが瞬く間に埋まり、患者の数が垂直に伸びていく。昨日の倍。今日はその二乗。理解し難いくらいにゼロが連なる。もう季節性の風邪の流行なんて思う医者はいなかったでしょう』
 感染症。傍に漂った魂が呻く。
 とても感染力が強く、死亡率の高い。すれ違った魂が囁く。
 薬が効かない。誰も助からない。私だって…! 追い抜いていった魂が叫ぶ。
 魂達の立たされている地獄の果てこそ、この無人の病院。人一人生き残れなかった大都市。感染したら確実に死ぬ病を前に、人は逃げることしかできなかった。だが、ここに残った医療関係者達は、助けを求める声を振り払えない。共に地獄の底まで転がり落ちていく。
 もう、周囲にはナンシー先生以外の魂はいなかった。
『尊き地球から宇宙へ繰り出した我々の先祖の技術力は、子孫に多くの恩恵を齎してくれた。天候を操り、安定した食糧供給を実現し、ありとあらゆる病を遺伝子のレベルから根絶した。この先が、その研究の最前線だったの』
 自動扉なのだろうが、電気が通っていないのでただの壁だ。俺は横の窓硝子をバールで叩いて割った。そして外から回り込んで、研究所らしい建物の窓から侵入しようとする。かなり強固な硝子は嵌め込み式で、力尽くで壊す事はすぐにやめる。小さく穴を空けてバールの先端を差し込み、窓枠の縁に引っ掛けて梃子の原理で力を込めて全面にヒビを走らせた。ヒビが入れば、叩くだけで氷を砕くように壊れていく。
 入り込んだ先は広々とした研究所だった。乱雑に散らばった資料で足の踏み場もなかったが、魂は殆ど机の前から動かない。どの部屋も同じものを研究していたのだろう。色褪せた写真には歪で荒く掠れた線で描かれたような丸が写っている。きっと疫病の病原体なんだろう。『RN78/インフルエンザウイルスRN74の突発性変異体』と書き添えられている写真もあった。
『ジョージ。もう、ワクチンを作ろうとしなくても良いの』
 ナンシー先生が机の前の椅子の上に漂う魂に寄り添っている。
『私達は銀河に還れるのよ。準備をしましょう。この大地にお別れを告げる準備を…』
 その机の前には、木の葉の形の看板が掛けられていた。マルクスタウンの診療所の看板と同じだが、診療日と時間が俺の知っている診療所よりも多い。『ナンシー先生の旦那さんは、ヘミス中央病院のお医者さんなのよ』母さんの言葉が蘇る。
 男の咽び泣く声に謝罪が混ざる。堰を切ったような懺悔を、先生は労るように聞いていた。
 ワクチンは出来なかった。奇跡は、起きなかったのだ。
 それを、俺は誰よりも良く知っている。