ロケットペンダント

 不満は溜まれば溜まるほど、大きく爆発する。そう言ったのは、奥さんに引っ叩かれ左頬をパンパンに腫らせた先輩だったな。昨日、銃撃戦で死んで遺体を引き渡した時、奥さんは『ごめんなさい』って泣きながら繰り返していて辛かった。
 もう、不満で不自由に満ちた日々が日常になりつつあった。
 気候コントロールが出来なくなって、厚い雲が垂れ込めた寒々しい日々は陰鬱だ。金の価値が崩壊して必要物品は配給制となり、美味しくもない冷たい缶を開けて食わねばならない。食事が冷たいのは堪える。しかし、暖を取ることはこの世界で最高の贅沢だ。燃料はなく、木を薪にする労力は人々には残っていない。政府は防寒性の高い衣類を配給したが、色味の似たような服は死に装束みたいなものだ。
 移動制限を示すリストバンドは、手錠か足枷か。違反者は予告なく射殺されるし、僕も数え切れないほどに銃弾を浴びせてしまった。そう命じられたから。命令違反者は、僕が銃弾を打ち込んで物言わぬ塊になってしまった。幼い子供連れの一家も、例外はない。
 フェンスの向こうに押し寄せる罪もない住人達。彼らの主張は何だったろう? 外出制限の時間を増やして欲しいとか、移動制限の一部解除とか、そんな内容だったろうか。それとも、制限によって分断された家族や知人に会いたいとか。別に彼らは国家転覆を狙ったり、治安維持として銃の携帯を許された兵士の命を脅かすような恐ろしい要求や行動はしなかった。ただ、彼らの小さい願いが集まって集まって、津波のように押し寄せたのだ。
 僕達は、命じられた。だから、銃で撃ったのだ。
 沢山の無抵抗な人々を。後ろから流れ込む圧で死んでいる人にすら、鉛玉を撃ち込んだ。
 誰一人通すな。そう、命じられたから。
 どうして、こうなってしまったのか。左頬の腫れ上がった先輩の顔が浮かぶ。
 デイリーへミスで卵の価格が40倍になった頃が、僕にとっては始まりだったかも知れない。僕は母さんの焼いてくれた卵焼きが好きだった。甘めで、コーンが入ってるんだ。『卵が手に入ったら作ってあげますからね』優しい笑顔と声を思い浮かべると、無性に家に帰りたくなる。
 パンデミックが宣言されてから、親の顔を見ていない。
 首から下げていたロケットペンダントは、いつの間にか歪んで開かなくなっていた。でも、椅子に座った母を囲むように、僕と父が並んでいる絵はありありと思い描けた。入隊祝いと称して、家から出て行く僕が寂しくないようにと画家に描いてもらった肖像画。何時間も立っていて、写真で良いじゃないかと言う僕に、父が絵だから良いんだよと笑ったのを思い出す。絵はいい。どんなに記憶が曖昧でも、絵はふんわりと記憶の中に居てくれる。
 前から破滅がやってくる。
 決起集会を開いていた過激派組織が、地球教総本山に向かっているのだ。赤い炎のように、強烈な悪意を持って迫ってくる。地球教を偽善と罵り、巫女を殺して白い衣を赤く染めろと叫ぶ。足音は地鳴りのように足の裏から響いてくる。
 恐ろしい。銃を持つ手が震える。今まで何人もの人間を撃ち殺してきたくせに、自分が死ぬとなると恐ろしい。僕はなんて自己中心的な人間なのだろうと、失笑する。
 警告が響き渡る。これ以上接近すれば、射殺する。
 今更、警告など何の意味があるのだろう。我々はお前達のような過激派組織とは違うと、大きな声で言い訳をしているような気がした。今まで殺してきた屍を踏んで立っている僕は、迫る危機が復讐に思えた。理不尽な全てに対する復讐が最初に狙うは、命令を下されて実行する僕ら。
 撃て! 命令が響く。銃を構えて、発砲する。
 反発が両手で構えた腕を伝う。しかし、鼓膜が破れているのだろう。耳をつん裂く発砲音は聞こえず、無音の中に火薬が爆ぜる光が閃く。火炎瓶からこぼれ落ちた燃料を伝って火が地面を舐め、銃を構えた僕達と武器を振りかざす脅威を浮かび上がらせる。反動がひとつ腕を走る度にこちらに向かってくる脅威が、一つ一つと倒れる映像がまるで映画のように他人事に見えた。暑い。火の熱が重装備の中に篭り、体温と合わさって燃えているようだった。
 前へ! 前へ! 投げつけられる声が、フェイスシールドに当たる。
 死と疫病を救いとする過激派組織。彼らは死を恐れない。目の前で誰かが撃ち殺されても、その屍を踏み越えて進んでくる。我々を救済してやろうと、爆薬を投げ込んで来る者、鉄パイプで殴りかかって来る者と様々だ。兵士と過激派組織が入り乱れ、混ざり合う中で次々と人が倒れていく。狂った人々に呑まれて、救済されていく。
 逃げたい。逃げて、父と母がいる家に帰りたい。
 今すぐ脅威から背を向けて、駆け出したい。
 もう、疫病でみんな死ぬんだ。何処で死ぬか選べるなら、僕は家で死にたい!
『頑張れ、ヨハン! 立ち止まったら、死ぬぞ!』
 背後に人の気配がした。理由を得て嬉々として振り返れば、厚着をしすぎて熊みたいな男と、コートを着た中肉中背の男が介抱するように寄り添っている。どこかの自警団なのだろうか、腕章は民間組織らしい擦り切れた文字の刺繍が施されていた。男の必死な顔が、僕を見つけた。
『君はへミスの兵士か。頼む、この男を助けてくれ』
 助ける? 首を傾げた僕に、男は蹲った同伴者を指差す。
『そうだ。彼はこの暴動には何の関係もない一般市民なんだ。君は彼を守る義務がある』
 言葉が理解できない。僕は固まったように、目の前で助けを求める男達を見ている。命乞いはわかる。『助けてくれ』という言葉は沢山聞いた。リストバンドに示された制限区外に居た人間は、警告無しで射殺するよう命じられている。鉛玉が食い込んで赤い血を流すありとあらゆる人間は、ほぼ漏れなく涙を流しながら『助けてくれ』と言った。意味は二分される。疫病で苦しみたくないから今ここで殺してくれという意味と、見逃してくれという意味だ。後者が多かったが、どちらでも引き金を何回か引かねばならないことに変わりはない。
 守る。意味がわからなかった。どうすれば、守ることになるのか分からなかった。
 だから、僕は銃口を向ける。指先に力を込め引き金を引き、慣れた衝撃が腕を走る。助けを求めた男が弾かれる。死んではいない。着膨れたコートの下に、防弾ベストを着込んでいたようだ。男の目が変わり、僕に掴みかかった。
『へミスは地獄だ。こんな地獄の中にいては、狂ってしまうのも仕方がない』
 引き金を引く。かちんと乾いた音が響いた。男は僕に害を及ぼせる力がないと分かったのか、僕を押し退け苦しそうな同伴者に叫んだ。
『走れ! 行くぞ! ヨハン!』
 男が過激派組織の波を掻き分けていく。狂気に赤く染まった世界を、コートを旗のように翻しながら切り開いていく。なんて愚かなんだ。男が狂気に揉まれ、壊されていく。ナイフが刺さり、銃弾が降り注ぎ、爆風が周囲もろとも薙ぎ払う。それでも、男は止まらない。
『銀河に、行くんだ! 家族と再び会う為に…!』
 家族。その言葉が、耳に飛び込んで脳に染み込んだ。
 父さんも母さんも、どうしているんだろう? もう、疫病によって死んでしまっただろうか? それとも、あの懐かしく居心地の良い家で静かに暮らしているのだろうか?
 あぁ、あの二人だけは守りたい。
 守る。苦しみから遠ざけてやって、穏やかに、幸せに生きて欲しい。これが、守るという意味。人の命を守る為に、誰かの役に立つ為に兵士になったつもりだったのに、やってきたのは反対のことじゃないか。
 僕は熊のような体格の男を引いて、過激派組織の狂気の海に飛び込んだ。
 赤い。赤い色の狂気。疫病の副作用は深く深く精神を壊した。疫病で死んだ方がマシなんじゃないかってくらい、人を壊していく。当たり前の幸せが壊れ、未来の希望が失われ、守りたい親しい存在が苦しむ様を見せつけられて神に縋っても死を待つばかり。己が捩じ狂っていく。疫病の死は現実だった。神よりも、そこにある目に見えた脅威。だから、恐れ、畏れ、己を委ねてしまう。
 先ほどまで津波のような絶望的な圧を持っていた過激派組織が、まるでネオンの光のようだ。赤い光を掻き分け、僕は熊のような男を連れて駆ける。前へ。前へ。過激派組織の進む方向に逆行したが、不思議と何の障害もないかのように進んでいく。
 抜けた。かつて全面閉鎖に反発した市民と激しく激突した、へミス大橋の北側は人影が全くなかった。フェンスの向こうに気配は感じたが、何もかもが雪に覆われて隠れている。力尽きたのか倒れ込んだ男は、暫くして徐に僕を見た。
「一緒にいた人は…」
 大分時間が経つが、こちらに向かってくる者は誰もいない。あの狂気の海を越えられたのは、奇跡のようなものだと思う。どうして、あんな壁のような圧迫感を超えられたのか自分でも分からなかった。
 僕が向けた視線の先を、男も追った。そして、迷子の子供が親を探すような心細い表情が顔に浮かんだ。別れを理解した物分かりの良い歳の男は、表情を消して死んだような目を閉じた。
 彼は、この人を守りたかったのだ。守れたことを、僕は自分のことのように誇らしく思う。
 この疫病で死に絶え、狂ったモノしか居ない世界で、善いことが出来た。銀河で両親に自慢できるし、誇らしく思ってくれると思うと嬉しかった。
『ありがとう。この絶望した時代に、誰かの為に在れた事は尊き地球の思し召しだったんだ』
 男は雪に突いた手を見下ろした。何かを拾い上げると、雪から銀色の輝きがするりと引き抜かれる。あぁ、懐かしい。僕が肌身離さず付けていた、僕の守りたかった全てが詰まったもの。
 ここで、僕は死んだ。
 僕が守った命は、ロケットペンダントを柔らかい布に包んでポケットに収めた。大事にしてくれる。そんな確信が僕を満たしてくれた。