フェイのドライバー

 顎を上げて見上げると、うっすらと開いた口の隙間から真っ白い息が流れた。粉雪が降って白く烟る世界に、ヨハンが雪を降ろす音だけが響いている。屋根から落ちた大きな塊が、地面に積もった雪に落ちてずぼっとぐぐもった音を立てて沈む。
 雪雲は常に頭上を覆い、粉雪から吹雪まで様々な雪を大地に降ろす。地面に降り積もった雪の照り返しで、眩しいくらいの白い空が頭を押さえつけるように広がっていた。
 気象コントロールセンターが機能を停止し、始まった終わらない冬。年を経るごとに寒さは厳しさを増し、南が暖かいという根拠のない理由に人々は動かされた。最近、雪が降らない日はない。ヨハンはもう、吹雪いていなければ材料探しに出かけてしまう程だった。
 ロケットは風が強かったり雪の降りが激しければ、打ち上げることはできない。ロケットが打ち上げられる穏やかな天候が、月に一度あれば良いと思える程度になっていた。
 雪の上は多くの魂が集まっていて、日の光を受けて輝いているようだった。このロケット工場が宇宙葬を行おうとロケット製作をしているというのが、魂達に伝わって集まってきたのだ。希望が、期待が、魂の光を強く輝かせている。
 フェイ。
 声が掛けられる。『私達を銀河へ…』と続く魂の声ではない。人の、空気を震わせて伝わる声。ヨハンが屋根から降りてきて、熊のように大きな背を丸めて私を見ている。口元を覆うように巻いたマフラーを緩めて、白い息を吐きながら私に言う。
「降りが激しくなってきた。中に入ろう」
 雪は牡丹雪になりつつあった。雪かきを終えたヨハンを追って、私も扉を小さく開けて滑り込む。
 納屋には様々なものが雑然と置かれていた。ヨハンが材料探しに遠くへ出かける際の、防寒コートやスノーシューズ、テントや電気ヒータといった装備一式。猟銃も壁に掛けられている。ストーブに焼べる為に切って積み上げ乾燥させている薪の山。食料の缶が詰め込まれた箱。まだ使えそうな日用品まで、二人が生きていくには十二分な量が置かれている。
 一足先に納谷に入っていたヨハンは、外着用の防寒コートを脱いで雪を落とし、室内用のコートに着替えていた。払われて溶けた雪が、三和土の上に点々と濃い色となって落ちている。
 工具を置き厚手の手袋を外していた私に、ヨハンが何気なく声を掛けてくる。
「フェイ。まだ、ロケット作るつもりなのか?」
 世間話のように切り出された言葉は、いつかはヨハンから言われるだろう言葉だった。叩きつけるような厳しい言葉でもないのに、体が思わず硬って私自身を守ろうとする。
 私は一瞬止まった手で工具を片付け続けながら、乾いた笑いを上げた。まるで『雪かきで疲れてるんじゃない?』って軽く流すように、彼の言葉を何ら重要にも思っていないように、私は努めて明るい声で答えた。
「ヨハンったら、何を言ってるの? 私達は宇宙葬を成功させる使命があるのよ。止めるなんて選択肢はないわ」
「前回のロケットも、打ち上がらなかった」
 冷えた声が覆い被さってくる。雪のように重く、体温を容赦無く奪っていく。
「その前も、その前の前も、もっと前のロケットも、今まで作ったロケットは一つも宇宙に届かないじゃないか。宇宙に届くロケット、そんなもの、本当は出来ないんじゃないのか?」
 やめて。私は思わず耳を塞ぎたくなるのを、ぐっと堪えた。
 ロケット製作が頓挫しているのは、誰よりも私がわかってる。
 エンジンの出力を上げて高く舞い上げることは出来ても、大気圏を突破することは難しかった。バランスを失って墜落するもの、システムが上手く機能せずエンジンすら点火できなかったもの、空中で爆発したものまでありとあらゆる種類の失敗を繰り返した。
 最初は原始的な材料の有り合わせだからと、成功に導くための失敗と言い聞かせていたわ。
 だって、車のエンジン改造した程度でロケットが打ち上がるなら、誰だってロケットが作れるわ。精密で出力が求められて技術が必要なの。OPUS工場のように熱意のある民間企業や、資金と人材のある大企業、そして受け継がれた技術を持つ地球教の巫女達という限られた存在だけが作れたもの。
 出来なくない。きちんと、昔は作れて、宇宙に届いた。
 頑張れば、絶対、作れるはずなのよ。
「大丈夫、次は絶対…」
 大きな音が響いて、思わず体が跳ねた。棚の上に置かれたチェーンカッターが、三和土の上に落ちて刃が外れて飛んだ。割れて三和土の上に揺れる刃が、ぐわんぐわんと音を立てやがてペタリと静かになった。
 薄暗い納屋の中にヨハンの荒い息遣いが聞こえてくる。ぎりっと歯を食いしばる音がした。
「次! 次! そんな言葉を繰り返して、成功しないじゃないか!」
 怖い。なんて恐ろしい声なんだろう。ただの言葉が、容赦無く私の魂を切りつけてくる。
 そこら辺にいる、何も出来ない魂達の声なら何も思わなかった。ヨハンだから。この言葉を投げつけてくるのがヨハンだから、私は驚きのあまりに目を見開いて相手を見た。
 いつもの死んだような目ではない。魂達に追い詰められ発狂した時のような鮮烈な感情が、炎のように燃えている。
「俺達は力を尽くした。やることは、やれることは全部やった! そうだろう?」
 そう、私達は頑張っている。この疫病で人が死に絶えた世界で、宇宙葬をしようとロケットを作っている。一人では絶対になし得ないことだった。私が継承した技術が、OPUS工場という環境が、そしてヨハンという素材を調達してくれる存在が揃って初めて挑戦することが許された難題。
 特にヨハンは命を賭ける程に、危険なことを頼んでいる。
 雪が支配する極寒の世界を渡り歩き、野生の狼達の脅威に晒されながら、材料を探し出して持ち帰るのだ。彼はあの死者の国になったへミスの隅々を捜索して、貴重なパーツを見つけ出してくれた。彼は、言葉の通りやれることを全部やってくれたのだ。
 それでも、ロケットは打ち上がらない。それは私の責任だ。
「フェイ、そんなに宇宙葬は大事なのか? フェイの人生よりも大事なのか?」
 私は強く唇を引き結んだ。言葉が、喉元に競り上がってくる。
「もう、うんざりなんだ! 巫女が責任を負うものは、巫女自身の事だけで良いじゃないか!」
 涙が出そうで熱い視界の中で、ヨハンは頭を掻き毟った腕を勢いよく振り下ろした。
「疫病から25年なんだぞ。全部やめて、平凡に生きていくんじゃ駄目なのか?」
 同じことを私に囁いた存在がいた。私と同じ顔で、疲れ切った顔で、言うのよ。
 もう、ロケット作りなんかしなくて良いじゃない。って。
 死を迎える瞬間まで、ここで穏やかに生きているだけで良いじゃない。って。
 幻だと思うわ。それでも、私はそんなことを言う同じ顔の幻にしたことを、ヨハンにもした。思いっきり、頬を引っ叩いたのだ。
「ヨハンの馬鹿!」
 私は納屋を飛び出し、発射台を通り過ぎ、製作中のロケットの横を駆けて自分の部屋に飛び込んだ。硬い寝台に飛び込んで痛かったけれど、涙が出るのは別の理由だ。手に残った、ヨハンの頬を打った感触が痺れるように残っている。その手を握りしめ胸に押し付けて、ベッドの上で丸くなる。
「宇宙葬すら出来ないで…」
 ダメなのよ。ダメなのよ、ヨハン。
 私は46代目巫女リン=フェイ。次の黄金の百年を担うべく、コールドスリープを施された希望。宇宙葬でもって、疫病で死に絶えた人々を救済する使命を背負った唯一の巫女。
 宇宙葬を成し遂げなければ、私は先に進むことが出来ない。
 ベッドの横には、付箋の貼り付けられた手帳が置かれている。コールドスリープから目覚めた時、するべき服薬手順とリハビリの内容が書かれている。付箋には達筆だったが懐かしい文字が書き連ねられていた。
『すまない、フェイ。一人残す事になってしまって。知っているだろうが、皆、お前を愛しているぞ。アマデウス=ヤン』
 我々を銀河へ…。眠りにつく直前、長老がそう言ったのが聞こえていた。あの時は長老がお爺ちゃんだから、目覚める前に死んでしまうから言ったと思っていた。でも、きっと分かっていたんだ。疫病が生きとし生けるものを全て飲み込む勢いで蔓延すること。己も疫病で死ぬだろうことを。
 長老が贈ってくれたドライバーを握る。飴色の木の握りに、地球教の紋章が施された特注品だ。巫女達が最初に与えられる工具は、丁寧に磨かれて錆びひとつない。眠っている間、誰かが丁寧に磨いて、錆びつかないようコーティングして、ケースにしまってくれた。
 このドライバーを手にした時から、私は巫女としてロケット技術を本格的に学び出した。ロケットを作るのが大好きだった、幸せな記憶の詰まった宝物。私の手の形に木の形が変わっていて、吸い付くようだった。
 足りないものがなんなのか、分かっている。
 ヨハンがへミス中を探し歩いても見つからなかったもの。それがどこにあるのか、私は知っていた。とても危険な場所だ。ヨハンが行ったように、今度は、私が行くの。
「ヨハンの馬鹿。私は、皆を銀河に送り出さなくちゃいけないのよ」
 染みだらけメモ帳に、鉛筆を走らせる。馬鹿。馬鹿。ヨハンの馬鹿。私のことを想って言ったつもりなんでしょうけど、ちっとも私ことを分かっていないわ。そんな言葉が頭の中に木霊する。それでも、メモの上に留まった言葉は全然違って、私はその言葉を胸に抱いて祈る。
「尊き地球よ、ヨハンに出会わせてくれて、ありがとうございます」
 隣のロケットを製作する部屋に入ると、吊り上げられたロケットが闇の中で鈍色に光っている。どのロケットも今の私の技術の全てを出し切った物だったが、このロケットは今までで一番打ち上がる可能性を持ったものだ。ヨハンが見つけてくれた疫病前の最高の部品達が組み込まれたことで出来上がった、最高の出来のもの。
 これを絶対に宇宙に上げる。今までの『大丈夫、次は必ず打ち上がる』という言葉の中で、最も強い気持ちがあった。
 メモを机の上に置き、私は踏み出した。
 私も、命を賭ける。
 踏み出した最初の一歩は、この疫病によって滅んだ世界に踏み出した時のように独りで恐ろしい。それでも、道はある。ヨハンが切り開いた道が、途中まで続いている。行くのだ。独りでも。
 ヨハンと出会い、共に暮らして二年になろうとしていた。