子供達の寄せ書き

 ねぇ、ヨハン! 遊ぼうよ!
 聞き覚えのある子供の声が、俺を誘う。ぼんやりと声の方を向くと、子供らしい小柄な姿が霞んで見えた。皆、寒さに着膨れているのに、その子供は半ズボンだった。小粒なくるぶしが並んで、マフラーを巻いた首元の上に楽しそうな笑みが見える。
 疲れていた。いつもなら追い払うのに、その手は頬に触れていた。
 髭のざらざらした感触の奥に、引っ叩かれた衝撃が残っている。涙をいっぱいに溜めて、堪え切れずに流れたそれが空中を舞っている間に凍った。こんこんと三和土の上に落ちて、転がったそれを追いかけている間に乱暴に扉が開け放たれて雪と寒さが舞い込んだ。
 俺はフェイを追いかけなかった。
 翌日フェイの部屋を覗き込んだら もぬけの殻で、納屋の探索道具一式も消えていた。フェイのスノーブーツも、厚手の防寒具も、電気ヒーターやテントが詰め込まれたリュックサックもない。猟銃まで持って行ったようだった。工場の外に行ったのは分かった。何をしに行ったのかは知らないが、拠点は今やどこにでもあるし、リュックの中には地図もある。一週間ほど戻らなくても生きていくことは出来るし、探索道具は全て生き残るための手段だ。死にに行くなら手ぶらで出かけるべきだから、生きて戻ってくるつもりなのだろう。
 それでも、心がそわそわする。いつ帰ってくるのか、どこへ行ったのか、気になって仕方がない。眠れなかったり、雪に転んだり、ご飯の味も良くわからない。
『ねぇ、ヨハンったら! 遊ぼうよ! かくれんぼが良いな!』
 子供がそう言って、ふっと消えた。
 かくれんぼ、か。疫病が流行る前、雪が降っていない時はそうやって遊んでいたな。マルクス南側の旧採掘場跡の工場はまだ稼働していて、隠れては大人達によく叱られた。変電所に入り込んで隠れていたのをなかなか見つけられなくて、見つけたら泣いて抱きつかれたのを覚えてる。あれは、誰だったろう。疫病が流行って直ぐに遠くに行くと、マルクスを去ってしまった子だったな。
 外は久々に雪が降っていない。俺はそのままロケットを製作する工場に入ると、外観はすでに完成しているロケットが吊り下げられている。少し前から形は完成したの見た目は変わらないが、中に積むものが増えた。最初は車のエンジンと燃料を入れるタンクくらいだったが、今では制御系統の機械が同じくらいの幅を利かしている。
 何一つ音を立てるものもなく、耳が痛いほどの静寂の中で作りかけのロケットを見上げると、先程の子供らしい気配が横に立った。
『隠れてたけど出てきちゃった。ねぇ、ヨハン凄いね! ロケットだよ! 宇宙に行けるの?』
「これは、まだ飛べない」
 俺の答えに、子供は『そうなんだぁ』と残念そうに言った。
 まだ。まだ、か。俺はこのロケットが飛ぶことを期待してるんだ。
 フェイは持ち帰ってきた部品に目を輝かせて喜んだ。車のエンジンをバラしたり、風力発電の羽を外したり、遠くから燃料を運ぶのに何往復しただろう。へミスに到着すれば、複雑な電子機器から何に使うのか分からない金属の板まで様々なものを持ち帰った。フェイは俺の持ち帰った物に、とても感動していた。毎回、部品を前に地球に祈りを捧げて、ちょっと、引く。
 俺は出来る限りのことをした。
 へミスにある立派な建物の、一番奥まった部屋にある、大事に保管されたものを持ち帰る。何なのか傍の魂に尋ねても、難しくてよく分からない説明ばかりで、これは俺には理解できないが凄い物なのだろうというのは分かった。
 これを持ち帰れば、ロケットは打ち上がる。俺だってそう思って集めていた。
『流石、工場の子。よく知ってるね!』
 工場の子。懐かしいな。思い返せる昔で一番古い頃の記憶では、俺はそう呼ばれていた。
『僕ね、ヨハンの工場のロケットで、宇宙に行くの楽しみにしてるの!』
 ちくりと、思い出が痛む。ロケットが嫌いだった。確かに、大嫌いなんだ。それでも、ずっと、ずっと昔は好きだった。工場のロケットが打ち上がったのを友達と楽しそうに話して、友達はヨハンの工場のロケットにいつか乗るって笑っていた。
 いつからだ。いつから、俺はロケットが嫌いになったんだろう?
 ロケットを前に考え込むフェイの背に、大きな男の丸まった背中が重なった。アレックスが死んで、疫病が流行り出して、父親はロケットを上げようと必死だった。宇宙に届くロケットを作ったことがあるのに、なぜか、ロケットは出来なかったのだ。
 何が、何が駄目なんだ。
 そんな言葉が、布団の中で寒さに耐えていた俺の耳に聞こえていた。そんなに苦しそうに言うなら、やめてしまって良いじゃないかって思った。怖い顔でロケットを作り、失敗しても諦めない父親を、工場の人達は恐々と見ていたからだ。幼心にそれは分かった。
 疫病で死んでいった人、疫病の為に実家に戻って行ってそれっきりの人、閉鎖した工場に頭を下げて去っていく背中。どんどん、どんどん、去っていく。あんなに人が沢山いた工場は、もう父と母と叔父といった血の繋がった家族しかいなかった。それも、最後は俺一人。
 ロケットの材料をへミスの大企業から提供してもらう為に、父親はへミスに行き帰ってこなかった。母親はそんな父親を探して、戻ってこなかった。
 両親はロケットに殺されたんだ。
 ロケットを打ち上げるのを諦めていれば、へミスに行って戻ってこないなんてことにはならなかった。まだ生きていた叔父と生きていたかもしれない両親とで南に行って、きっと疫病で死ねた。それは、今の状況を思えば幸せな死に方だったんじゃないかって思える。
 ロケットさえなければ、俺は、幸せだった。
 幸せだった? この疫病に満ち溢れた世界で、たくさんの魂が見せてきた最後は、俺が選ぶかもしれない幸せだったのか? どれもこれも、最悪だ。誰一人、幸せになんかなれない。
『僕はヨハンが見つけてくれるまで、怖かったんだ。見つからないから、皆帰っちゃったんじゃないかとか、夜になっても誰も僕を見つけてくれないんじゃないかって。でも、かくれんぼだから出ていけないじゃん。だから、膝を抱えてじっと泣いてたの』
 子供がフェイが作業台に使っている机の前に移動する。『あ』と声を上げる。
 作業台に雑然と広げられた設計図の中に、随分と拙い文字が見えた。持ち上げると複数の子供達が寄せ書きした色紙で、『えきびょう には まけません』とか書いてある。重ねられた葉書には『ヨハンの こうじょうの ロケットで うちゅうにいくの たのしみなんだ』って書いてある。
 これを、フェイは見ながら作業していたのか。
 あんなに自信たっぷりだったくせに、こんな子供の文字に励まされてたのか。
『そしたら、ヨハンが見つけてくれた。僕は、すっごくすっごく嬉しかったんだ』
 ヨハン。フェイが振り返って、俺の名前を呼ぶ。それが、無性に恋しかった。顔を合わせれば俺の名前を呼んでくれるんじゃないかって思うと、今すぐフェイを探しに行きたかった。
 だが、探しに行ってどうする。俺は、何も悪いことを言ってない。フェイが悪いんじゃないか。
 『ヨハンへ』そう書かれたフェイの文字が見えた。黄ばんだメモ帳に、まだ真新しそうな黒いインクが文字の形になっている。俺はそれを持ち上げた。
 『一緒に宇宙葬に向けて、頑張りましょう』そう書いてある後ろに、舌を出したフェイの顔らしき落書きがある。
「あいつは…」
 もう、なんて言ったら良いんだろう。諦めないし、俺を放っておくなんてしない。なんてフェイらしいんだ。
『ヨハンが見つけてくれたら、女の子はきっと喜ぶよ』
 喜ぶ。本当に? でも、そんなことは、どうでも良い。
 俺は納屋に駆け込んで、残った装備を確認し始めた。駄目になった時用に予備もあるし、拠点に置いてある備蓄品で補充しながら追いかけられるはずだ。
 とにかく、フェイを見つけるんだ。そうしないと、落ち着かない。