フェイの櫛

 無理矢理、腕が捩じ上げられる痛みが胸を横断した。あんまりにも痛くても声を上げて痛みの原因を振り払う力もなく、俺はただ呻いて薄く目を開けた。吹雪が顔に吹き付けて、瞳に目掛けて雪が飛び込んでくる。
「ヨハン、起きたの? あぁ、尊き地球よ、感謝します!」
 寒いを通り越して痛い空気が、肺の中に流れ込んだ。
 引っ張り上げられる痛みの向こうは、じんわりと暖かい。脇の下に入り込んで、背中で持ち上げようとする小柄な体は厚手の防寒具で膨れ上がっていた。魂ではない、生きている人間は俺の知る限り一人しかいない。
「…フェイ?」
「熊かと思って撃とうと思ったら、ばったり倒れるんだもん。驚かせないで!」
 ぼんやりとした頭の中を振り返れば、俺がフェイを追いかけてここまで来たことを思い出す。ヘミスの方角へ行っただろうと拠点を虱潰しに探し、使った形跡を見つけたまでは良かった。この聖山に最も近い拠点から先は、どこも使われた形跡が見つからない。フェイが地球教の聖山に登ったのだと確信するまで時間がかかってしまった。
 さらに聖山は高い。烟る雪や重く垂れ込めた雪雲に、山の途中から呑まれているような山だ。そんな山は平地と違って天気が荒れやすく、俺は何度も登ろうとして引き返していた。
 それが何日も続けば、フェイが持って行ける食料が尽きてしまうと思った。登山を強行して、あまりの雪の酷さに力尽きたんだ。意識を失う前は両親の幻を見ていた気がする。
「吹雪が強くなってきたわ。もう、下山は無理。教会に戻りましょう」
 ニット帽と鼻まで覆ったマフラーの隙間から、黒々とした瞳が空を見上げた。横殴りの吹雪が地面に降り積もった雪を掻き上げて、世界を泡立てている。俺が登ってきた時よりも酷くなった吹雪は、行くか戻るかを考えている弱い俺達を嘲笑うかのようだ。
 俺も気力を取り戻し、互いに支えるように進む。
 雪崩の跡があって横の細道を行く。鬱蒼とした森の中でも、雪は深く、横殴りの風が容赦無く俺達を揺さぶる。凄まじい疲労感で、寒さが甘い声で眠りへ誘ってくる。
 フェイの体に力が入っていなくって、支えなければ崩れ落ちてしまいそうだ。やはり、持ち込んだ食料が尽きてしまったから、吹雪の中でも無理して下山しようとしたんだろう。体を抱え直すと、フェイも背中に回した手に力を込めた。手袋の奥にある、小さい手が脇腹にくっきりと感じられる。
「ヨハン。私、ヨハンにありがとうって言わなきゃって思ったの」
 不思議だった。吹雪に煽られて木々はぐらぐらと揺れ、力を込めて足を持ち上げて膝下まで埋まる雪深い世界。体が燃えるように暑くって、息苦しさから喘ぐように息をして、心臓が喉から出そうなくらい激しく動いているのに、どの音も聞こえない。フェイの声だけが、はっきりと聞こえてくる。
「ありがとう。二年前、工場で出会うまで生きていてくれて」
 初めて出会った時、俺はフェイを猟銃で撃とうとした。魂達の声が聞こえ初めて現実と幻覚すらも曖昧になって、猟銃はとっくに魂に向けて撃ち尽くしていた。近づいてくる人影に腰を抜かし、触れられたことに悲鳴を上げた。頭を抱えて震える俺を、フェイは抱きしめたな。
 ごめんなさい。驚かせて。そう言うなら、消えてくれって思ってた。
「ありがとう。魂達を導いてくれて」
 導いた。良くわからない。
 あんなに嫌な魂達。触れれば、関われば、生きていた頃の姿が見えてくる。生きていた。生きていたんだ。知れば知るほどに、俺の世界に魂が満ちていく。頭の中は俺のものなのか、俺以外のたくさんの魂のものなのか、もう分からなかった。
「ありがとう。私と、銀河への架け橋を作ってくれて…」
 そんな中で明確に道があった。フェイが引っ張るんだ。ロケットを作ろうと、次は上がるからと、俺を励まし続けた。『ロケットは橋なんだ』と、誰かが言っていた気がする。
「やめろ。やめろ。俺はまだ、皆と、フェイと、永遠に別れる勇気は持ってない…」
 吹雪は酷くなる。体力は限界をとっくに超えていた。立ち止まれば、諦めれば、俺達は雪に埋もれて冷たくなって死んでしまう。
 ロケットを打ち上げるんじゃなかったのか? いや。俺は頭を振った。
「ロケットなんて、どうでも良いんだ。フェイに、会って…会って…」
 会って、どうするつもりだったのか。それでも、会った先を俺は望んでいた。フェイと、共に生きていく未来が欲しかった。
「どうでも良くなんかない。万が一の時は、ヨハンが歴代唯一の『男巫』に…」
「眠すぎて、痛すぎるぞ。『おとこ』って、俺は元々 男だ」
 フェイの体がいよいよ重くなる。吹雪のせいで、全く前に進めない。振り返れば俺が倒れていた場所が、まだ見えるんじゃないか? フェイが目指した教会はまだ見えなくて、鬱蒼とした森の隙間から憎らしい程に吹雪が雪を注いでくれる。
 フェイが顔を上げた。マフラーを下げて、白い息が勢いよく吐き出された。黒く大きな瞳がくっきりと見える白い顔は、巫女の顔だった。
「尊き地球よ、この荒涼とした大地で得た全ての縁に感謝します」
 だめだ。だめだ、フェイ。俺は力を込めて抱え直す。そして、前を向いた。
 え。
 それは、俺の声だったろうか。フェイの声だったろか。
 俺達は闇の中に浮かんでいた。様々な色を溶かした闇は、照らされるとこの世界に存在するありとあらゆる色に変わった。ライトで照らさなければならないような深い泥のような緑、光を通さない人工物で囲われた錆びつき過ぎた鈍色、俺が見てきたどの闇とも違う。それは、夜空。幼い頃、疫病が流行る前に見ることができた空の色。
 無数の星が浮かんでいる。いや、それは星じゃない。魂だ。それが集まって川のように見え、果てしない輪を作って踊っている。瞬く。声は歌声のように重なり、俺達に降り注ぐ。
「これは…銀…河? 架け橋の…対岸?」
 見える。繋がった魂達が、俺に銀河の果てまで見せてくれる。大勢が見送った旅立ちを、小さな惑星の幸せな日常を、望遠鏡に目を凝らす小さい缶みたいなロボット、大きな爆発と死んでいくたくさんの命、誕生する星、全てを飲み込む黒。大きい星雲を、一際輝く惑星を、戦いの跡らしい残骸が漂う場所を、宇宙を漂う宇宙船を。そして、尊き地球を。
 俺はこの銀河の全てを知った。今まで起きたことも、これから起きることも、全てが溶けて一つになる。暖かい布団で眠るような心地よさだった。このままこの銀河の一部になってしまいたい気持ちで、いっぱいになる。
 たくさんの声が聞こえていた。
 その中の一つが、俺に語りかけた。
『良く分からないよ。どうして、橋を渡るの? ここにいちゃ、ダメなの?』
 子供の声だ。純粋に疑問を口にする声が、生意気に思えた。
『人はね、いつか必ず、離れなくてはいけないのよ。皆で一緒にロケットで送るの。賑やかで、楽しくて、一緒にロケットに乗った人をお見送りするの。君は、宇宙葬が好き?』
『好き!』
 俺はそう答えた。今、俺が答えたんじゃない。この銀河の一部になった、小さい子供がそう答えたんだ。
『その気持ち、忘れないでね。ヨハン』
 ヨハン。そう俺はヨハン=メイソン。銀河の一部になりかけていた俺が、俺を覗き込む顔をしっかりと見返した。幼さの残る若い巫女。白い巫女の装束から見えた、黒い瞳を白い肌を、その顔の一つ一つを見間違える事はない。俺は驚いて巫女の名前を呼んだ。子供だったら知り得ない巫女の名前は、リン=フェイ。
 フェイが大きく黒い目を見開いた。銀河を写し込んで、星空を覗き込んでいるようで、とても綺麗だ。俺はフェイの手を握って、引いた。巫女の白い装束がふわりと広がった。
「フェイ。子供の俺に言っただろう。私達と一緒に、銀河へ還る人にお別れを言いましょうって」
 思い出した訳じゃない。忘れていただろう。でも、銀河のどこかにあったんだ。フェイが教えてくれた、フェイの幸せ。
 光が一つの方向に向かって集まっていく。大きく、大きく膨らんで、星が生まれ命が育まれ人が訪れ歴史が紡がれ、疫病が大流行して全てが失われていく。光の一つ一つが、その星に留まっている魂が、星を作る。俺達に帰ってこいと、ロケットを上げろと言っている。
「ロケットを上げよう。俺達なら、銀河に届けられる。二人でお別れを言うんだ」
「ヨハン…」
 フェイは俺を見上げて、嬉しそうに笑った。
 そんなふうに笑ってくれて、心が満たされる。
「そうだね。私達なら、大丈夫」
 俺達は手を取り合って光に向かって歩く。たくさんの魂が集まる流れに乗って、俺達は光に飛び込んだ!
 光が扉になって、闇が俺達を出迎えた。まだ、焚き火が抱き抱えていた熱が、切り裂くほどに冷え切った空気を緩めている。助かった。吹雪を渡り切ったんだ。俺はあまりの安堵に蹲った。
 からんと、タイルの上に胸にしまっていた物が落ちた。綺麗な木製の櫛。所々修理されて違う木が継ぎ足されているが、丁寧に磨かれて油を染み込ませて、宝石のような艶を持っている。
「櫛…。欠けてたはず…」
 フェイに櫛を返す。大事にしていたようだから、直して返すつもりだったんだ。
「工場に帰って、そのボサボサの髪を梳かせよ」
 うん。櫛を胸に抱き、フェイは泣いていた。
 なぜだか、俺も涙が止まらない。さっきまで、大事な何かを思い出した気がしたのに、もうどこかへ行ってしまった。でも、どこへ行ったのかは分かっている。銀河だ。いずれ、還る場所には、何もかもあることだけは分かっていた。

 19号目のロケットが打ち上がる。
 たくさんの魂を引き連れて、まるで彗星のように輝きながら星空を目指していく。あんなに賑やかな魂達が旅立ってしまったから、地上は寂しさを感じるほどに静かだ。風の音も、葉が擦れる音も、獣の鳴く声も、聞こえない。静寂が魂達を悼んで送り出す。
 見送るもう一人と繋がった手は、優しく互いの温もりを分け合う。
 さようなら。
 さようなら。
 魂達の声が雨のように光のカケラになって降り注ぐ。見送る人もまた、さようならと返し、いつまでもいつまでも見送っている。ロケットが宇宙へ到達して、銀河の星の一つになるまで。

 尊き地球よ
 全ての魂に
 安らぎあれ
 
 The End.