勝利を約束された復帰戦!

 ランフェスバイナとアーゼの戦い歴史は、神話の時代にまで遡る。その発端はこの世界を作り上げたランフェスバイナの神と、アーゼの獣が対立したとされる。神話の戦いは長く続き、互いに引き分けとなりそれぞれの名を冠した国に眠る形で幕を閉じる。
 次に歴史として残されているのは、アーゼの獣が魔王として蘇ったことだろう。ランフェスバイナの神に祝福された勇者がアーゼの魔王を打ち倒す、子供達が眠る時に親に必ず強請った物語だ。不思議なことに、この伝説が生まれた時代に大いに栄えたアーゼ王国は崩壊した。そしてアーゼ王国はいくつかの自治領に分かれ、現在はアーゼ自治連合という同盟関係で存続している。
 長らく不可侵の距離感を保っていた両国であったが、アーゼに竜将軍が現れてから戦いが激化した。俺の前世が竜将軍を止めていなければ、おそらく王国はアーゼに敗れていただろう。迫った敗北を回避することはできたが、まだ油断することはできない。
 アーゼはファルナンが転生し、再び戻ったことはまだ知られていない。竜将軍が油断しているこのタイミングでの奇襲作戦。心が躍る。絶対に成功するという確信があった。
 高槻 守として生きていても、修練を怠らなかったことが奇襲作戦早期決行に繋がった。ファルナンとしての剣術の腕も戦いの勘も、決して鈍ってはいなかった。むしろ、様々な部活を掛け持ちし、様々な運動を極めてきた為に技量が増した気すらする。
 それが表情に出ていたのだろう。マシェンがこつりと俺の肩を叩いた。
「嬉しそうだな」
「嬉しいさ」
 俺は無邪気な笑みを浮かべる。ファルナンよりも若々しい、しかしファルナンが持っていた自信に輝く笑みだろう。
 転生してから手を差し伸べることすらできない前世に想いを馳せてきた。ファルナンであることを忘れられたらどれだけ楽だろうと、何度思ったか。記憶が鮮明であればある程に、ファルナンとしての俺と高槻 守としての俺の心は引き裂かれる思いだった。
 だが、こうして肩を並べ仲間と共にある。これほど嬉しいことはない。信頼できる精鋭達が7名で、夜の森を駆ける。敵は油断しきっているのだろう。見張りすら立っていない。遠くに聞こえる狼の遠吠えが、近くを横切る獣の影が唯一俺達を縄張りに侵入する異物と認識している。まだ夜行性の獣も多く行動する時間帯であるがゆえに、俺達の踏み締めた木の葉が砕ける音もかき消してくれる。
 闇の奥に光が灯っているのが見えた。香ばしい肉の焼ける匂いや、美味しそうな料理の香りが鼻先を撫でていく。時折聞こえる笑い声が、風に乗って耳を掠めた。こちらが気取られている雰囲気は一切ない。
 アーゼの野営を草葉の陰から覗き見る。人数は十数名。おそらく、ファルナンを討ち取ったが故に大部隊を撤退させたのだろう。ほぼ全員で焚き火を囲んでいて、遠巻きからは黒々とした影が光の中に浮かんでいる。杯を交え肩を組み楽しそうな一時を過ごしている影を、俺は指差した。
 ミアリアークが小さく頷く。懐から本を取り出すと、その本が輝きを放つ。
 一瞬。
 まさに一瞬のことであった。
 焚き火の炎すら氷の中に閉じ込められた一瞬で、目の前の何もかもが氷の刃に貫かれた。巨大な魔法であればある程に必要となる膨大な詠唱や準備の時間を、ミアリアークは本の中に封じ込めることに成功した。彼女が高らかに魔法の発言を宣言するだけで、視界の全てを一変させる暴力が敵に反応する暇も与えずに発動するのだ。
「やったか?」
「最大出力です。全員死んだと見て良いでしょう」
 ミアリアークが感情のない声で返す。目の前の屈強な敵兵を殺しておきながら、眉一つ動かぬ横顔は女神のような人成らざる美しさを感じさせる。
 あっけない展開に気が緩みそうになる。しかし、この奇襲作戦はファルナンの命を賭けているのだ。敵の油断は相当のものだろう。俺は剣を抜き放ち、森が抱いていた闇から抜け出した。足元を撫でる冷気の下にビッシリと立った霜柱を踏み砕き、俺はいまだに燃えている凍りの中の炎を囲む人影へ歩み寄る。俺の後に一人、二人、敵の抵抗を予測して続く。
 氷に貫かれた影の一つに歩み寄りながら、俺は違和感を感じた。茂みや樹の裏から出て近づいても、影は真っ黒い闇を塗り固めたかのように黒かった。焚き火の光に照らし出されるべき、肌や毛髪の色彩、鎧や衣の質感が全く見えない。そして、貫かれた氷に伝うべき血がない。傷口が凍りついている可能性も考えたが、違和感が不安に転じつつある心境に変化を与えることができなかった。
「ぐあっ!」
 悲鳴が上がる。敵! 俺は慌てて周囲を見渡す!
 仲間達がミアリアークが展開した氷柱に体当たりするような勢いで、森から次々と現れる。中には森の中を警戒するように、盾を構える者もいる。背後。わずかな殺意に認識よりも先に体が反応する。闇から現れた殺意は矢という形で俺に迫り、剣で斬り伏せられる。
 察知されていたのか! 奇襲をかけられる状況でない我々の襲撃を、ここまで完璧に見切ることができるとは…!
 背後に巨大な氷の冷気を感じる。仲間達は森の闇から叩き出され、氷の中で燃え続ける炎を背に立たされている。敵兵の影は幻だったのだろう。先ほど見えていた息絶えていた敵兵の姿は跡形もなく消えていた。闇の中に無数の殺気が、構えられた矢尻となって光っている。
 形勢は逆転した。俺の失態だ。あまりの不甲斐なさに、奥歯を噛みしめる鈍い摩擦が脳に響く。
「やぁ、団長くん。きっちり殺したと思ったんだがねぇ」
 闇の中からねっとりとした声が俺に掛けられる。15年ぶりの声色だが、魂に刻み込まれているのか肌が粟立つのを堪えることができなかった。ぬっと闇から抜け出たのは、その声の主。ぼさぼさと脂気のない癖毛に、パッとしない冴えない中年の顔。中肉中背で胡散臭さを助長する薄ら笑いが、この男がランフェスバイナを追い詰める竜将軍であると誰も思いやしないだろう。
 俺は知っている。この男の、この表情は、本性を隠す仮面でしかない。
「…イゼフ」
 俺の声に、奴は手をゆっくりと広げる。ニヤリと笑って見えた白い歯が、三日月の形に輝いた。
「どうして奇襲が成功しなかったか、疑問かい? でも、失敗じゃないよ。ほら、君達が殺したがってる相手が、ここにいるじゃないか! さぁ、殺しにきたんだろう? 向かっておいでよ?」
 イゼフの傍に白い影が駆け寄った。猫背で背が小さく見えるイゼフと比べても、子供と思いたくなる小柄な何かが、全身をすっぽり覆い隠すフード付きの外套を纏っている。アーゼの兵士達は全く統一性のない装いで、傭兵の集団にしか見えない。だがこの小柄な白い何かだけは、戦いに全く慣れた気配がない。イゼフの脇腹に触った指先は、大きな外套も相まって細く小さい。そんな小柄な何かを安心させるように、イゼフは笑顔を向けた。
「まぁ、戦いだからね。君は無理しなくて良いよ。君のおかげで優位に立てたんだ、もう十分だよ」
 その言葉が紡がれる間に俺は考えを巡らす。
 ファルナンとしてアーゼの戦力を把握していた時、あのような白いフードと外套で身を隠している存在はいなかった。そしてイゼフの言った『君のおかげで優位に立てた』という言葉。この小柄な何かがイゼフの陣営に加わった新戦力で、俺達の奇襲を察知しこの状況に貶めた張本人であろう。
 奇襲作戦は失敗だ。今は一人でも欠けることなく、ここから撤退することだけを考えろ。それがどんなに難しい事であったとしても…。
 ふっと氷の中の炎が、ついに消えた。
 闇が支配し、わずかな月明かりがあたりを照らす。互いに火の光に目を焼かれていたが故に、ミアリアークの早技が誰よりも早く発動した。本を開き、瞬く間に練り上げられる魔力。驚いた敵が吸い込んだ息で、瞬く間に肺が凍りついていくだろう。次は冷気が結晶化する。赤を膨張させ肌を突き破り、命の温もりを瞬く間に奪う。
 これしかない。ミアリアークには負担になるだろうが、こうしなくては生き残る術はない。
「いけ! ミアリアーク!」
 月明かりが消えた。闇が落ちる。目の前の敵も、傍のミアリアークも、自分の指先すらも見えなくなる漆黒。ぬるりと、緩い空気を感じた時には、ぱたりとミアリアークの魔力が消失した。
 驚きに目を見開き、闇を凝視する。
 忘れもしない、イゼフの黒竜と同じ力。イゼフから分断した力であったが、誰か後継者がいたというのか? 例え今の俺達をなぎ払い叩き潰すような力はなくとも、全力に高められ発動したミアリアークの本気を一瞬にして無かったことにする。なんて恐ろしい脅威なんだ!
 誰だ。誰が。そう思う中でぽっと闇の中に浮かんだのは、白い影。手がゆっくりとこちらを向く。意識が向けられただけで、殺されるという根拠のない恐怖が腹の底から浮かんでくる。白い影にファルナンの胸にねじ込まれた長剣を下げたイゼフが重なる。
 殺されてなるものか。俺一人だけでない。俺の大切な仲間を、愛すべきただ一人の人を、俺は守らなくてはならない!
「ランフェスバイナの神よ! 俺に、皆を守る力を…!」
 祈りの言葉に体がほのかに光る。女王陛下の祝福の暖かい光が、闇の中で星のように瞬く。俺は松明のように眩い光を剣に託し、白い影に切り込む! 阻んだ鋼の輝きと爆ぜた火花に、イゼフの鬼気迫る顔が照らされる。
 やる気のない無精髭の口元が、覇気を含んだ怒号を発する。
「ササ! 吹き飛ばせ!」
 闇が圧縮され、目の前で爆ぜた。硬い何かを背中に押し付けられ、このまま押し潰されてしまいそうになる。しかし硬い物が砕けるほうが早かった。大きな氷の塊が、脇から前へ飛び出していく。闇が俺を飲み込み、いくつか巨大で硬い何かにぶつかって体が地面に打ち捨てられる。兜を被っていなかったら、おそらく死んでいただろう。交通事故でも頭部を守ることが大事だと言い聞かされてきたが、今、大事さを再認識する。
「撤退だ!」
 吹き飛ばした方向にはアーゼの軍はいなかったのだろう。ちょうど抜け穴に吹き飛ばされた幸運に、俺は仲間達に向かって叫んだ。追撃から逃れるように、吹き飛ばされた方向へ駆けていく。黒竜の力は俺達を追っては来なかった。きっと、逃げ切れる。
 奇襲作戦の失敗。アーゼの強さを改めて認識した。
 そして、高槻 守として生きてきて考えていた様々な対抗策は、所詮卓上の空論でしかないことを思い知らされた。
 俺は血の味を噛みしめながら、逃亡者として夜の森を駆け抜けた。