来世を知るのは俺だけじゃない?

 奇襲作戦の失敗は、俺を完膚なきまでに打ちのめした。秘密裏に出立し帰還した関係で、騎士団の面々に顔を合わせる必要がなかったのは幸運だったろう。俺は敗走して部屋のソファーに倒れ込むまでの記憶がない。気がついたら早朝であったことから、気絶するように眠ったのかもしれない。
 俺に付き従った7名のうち、3名が帰還できなかった。その内の一人が愛するミアリアークであったことが、失敗以上の苦悩になって俺の心を占める。
 吹き飛ばされた衝撃は凄まじかったものの、イゼフの扱う黒竜のような殺傷能力はなかった。本当に俺達を吹き飛ばすだけに特化した力であったようで、俺を含めた帰還者の傷は吹き飛ばされた時に木々や地面に叩きつけられたものばかりだ。全身を包み込んだ甲冑のおかげで打ち身程度で済んだ者が殆どで、最も重傷なのは骨折だった。余程打ちどころが悪くなければ、帰還できなかった3人は死んではいないだろう。
 死んでいなければ、アーゼに捕虜として囚われることになるだろう。アーゼに捕虜として囚われた者の殆どが、ランフェスバイナには戻ってこなかった。その主な理由がアーゼの捕虜に対する待遇の良さである。捕虜として収監され5年経つと、閲覧済だろうがランフェスバイナへ手紙すら出せるようになる。アーゼで結婚し子を授かった事や、仕事を得て順風な暮らしをしているなどの内容が多い。暗号の類を考えたが、純粋な彼らの無事と今の幸せを知らせるものだと証明しただけだった。
 アーゼに捕虜として囚われても、即座に死に至らない。
 しかし、ミアリアークは別だ。ミアリアークだけは、そうならないのではと危惧を強く感じさせる。
「ファルナン」
 親友のマシェンが、執務室に引きこもり頭を抱える俺に食事を持ってきた。ランフェスバイナの郷土料理の香りが懐かしく、それに空腹を訴える体を腹立たしく思う。死んでしまったかもしれないのに、捕虜として囚われ拷問されているかもしれないのに、空腹を感じて腹を満たそうとする体の欲求が憎かった。
 俺の酷い顔を見てか、大きな手が肩を包み込むように触れた。手の温もり、力の加減が、張り詰めた心を労る気持ちで溢れていた。俺はファルナンの来世であって、ファルナンではないのに、良い友人に恵まれた。前世のファルナンに感謝したい気持ちでいっぱいになる。
「今回の失敗を責めちゃいけねぇ。あの竜将軍にすら噛み付けたミアリアークの全力が完封されるなんて、誰が想像できたよ。あの白いのは厄介だ。下手をすれば竜将軍よりも手強いかもしれん」
「ありがとう、マシェン。でも、これは俺の失態…もごっ!」
 口の中にステーキがねじ込まれた。ミディアムレアの柔らかい赤みから、熱い肉汁が口いっぱいに溢れて溺れそうになる。かなり大きい一口で、俺の口は完全に喋る機能を奪われてしまった。どうにか咀嚼しようと口を動かす俺を叱るように、マシェンは厳しい口調で話しかけてくる。
「ファルナン。お前は一人で抱え込んで、一人で解決しようと先走ってしまう。勇敢と無謀は紙一重だと、あのイゼフにすら言われたことがあったそうじゃないか。腹が減って、気持ちが沈んでるんだ。一人で食えないって言うなら、熱いスープを流し込んでやろうか?」
 ふるふると首を振った。冗談抜きで口の中を火傷するぞ!
 マシェンが俺の前に椅子を持ってきて座り、俺が食事を済ますのを見張っている。見張っているのだ。食事に手をつけず塞ぎ込んでしまわないために、まずは完食しろと言いたげに親友は俺の前に座っている。
 ランフェスバイナの厨房の食事は暖かく、美味しかった。気取らない豪華すぎない食事がお腹を満たしてくれる。少し量が多すぎやしないだろうか? 完食しろと圧をかけられて完食したが、腹が苦しいくらいなんだけど。
 フォークとナイフを皿の上に置いて満足げに息を吐いた俺に、マシェンは笑った。俺も笑い返す。少し、苦しいのが楽になった。腹じゃなくて、気持ちの方が。
「ミアリアークは無事さ。ランフェスバイナの神の御加護がある」
 マシェンの優しさと気遣いに満ちた慰めが俺の耳を撫でていく。
 ミアリアーク…。俺の不安をそろそろと撫で回すのは、彼女が殺されているかもしれない懸念だった。ミアリアークは騎士団の副団長として、アーゼにも名と顔が知れ渡っている。誰もがはっと振り返るほどの美貌、騎士団で培われた美しい所作、そして戦場を一変させる強大な氷の魔法。『氷の魔女』と呼ばれた彼女に命を奪われたアーゼの兵士は多いことだろう。
 アーゼはそれぞれの自治領から兵士を派出し、それを将軍イゼフが統括している。イゼフは確かに兵士達をまとめる類稀な才があったが、騎士団よりも一枚岩ではない軍隊では復讐と称して彼女が殺されるのを止めることは難しいだろう。
 ミアリアークを失った騎士団には、彼女と同等か劣らぬ程度の戦力がない。対してアーゼには、魔力を失った竜将軍に代わる白外套が現れている。戦力差は火を見るより明らかだ。このまま戦争を続けて、勝利どころか休戦に持ち込むことすら難しい。
 ランフェスバイナが敗北する。そんな未来が見えた。
「マシェン…俺は…」
「ファルナン、お前が負けを認めるなら俺達も地獄へ連れて行け」
 そんなことはしたくない。俺は苦しみながら活路を見出そうと、考えを巡らす。しかし、良い考えは浮かばない。その最大の障害になったのが、イゼフの後継者だろう白い外套を羽織った何者かの存在だ。イゼフの力を封じ込めることに成功し、アーゼを打倒するまたとない好機を得た筈だったのに…。
 しかし、長年イゼフの敵であったので分かる。あの白外套は昔からアーゼにいた訳ではない。イゼフは将軍の立場でありながら、常に最前線に立って黒竜を繰っていた。どんな些細な攻略戦も防衛戦も奴は必ず出てくる。イゼフは出し惜しみなどせず、常に最も俺達が嫌な方法で攻めてきた。だからこそ、白外套が居たら戦場に投入しないわけがないのだ。
 イゼフが将軍の立場に立って30年になろうとしている。ファルナンが生まれる前から、奴は将軍をしているんだ。アーゼの戦力を底上げするための人事育成に力を注ぐだけの時間と立場が、奴にはある。白外套が力を持って生まれたら、見出し、幼少から教育を施すはずだ。しかし、実際に目の前でイゼフの隣に立ったそれは、全く戦慣れしていない。死者を目の当たりにしたら吐きそうな、新兵の雰囲気を感じた。
 最近、突然現れた。
 ふと、浮かんだ。突拍子もないが、最も腑に落ちる回答だ。しかし、仮にそうなった過程が判明しても、俺達の敗北の濃厚さが薄れる訳じゃない。白い外套の者はアーゼの要。イゼフが最も強固に守っている存在だ。殺すことも誘拐することも、接触することすらできないだろう。
 コンコン。
 小さく、何かが突かれる音がする。マシェンも音に気がついたのか周囲を見回している。
 こんこん。コンコン。
 音は止む気配ない。入室を求めるために扉を叩く音とは響きが違う。
 温かい日差しが差し込んで、まるで温室のような執務室は眠気を誘うほどに穏やかだった。ランフェスバイナ大聖堂の一室にふさわしい、豪華な家具と調度品で整えられた部屋にはまだ食事の残り香がある。耳を澄まし、響く音が視線を導いた。
 それは窓の外にいた。真っ黒い小鳥が窓を突いている。光を吸い込んでポッカリと鳥の形に切り抜かれた空間のように、その小鳥は嘴も瞳も羽一本一本すら見分けられない。その黒々とした闇に、俺達は一瞬にして臨戦態勢を取る。剣を抜き放ち、小鳥を油断なく見る。
 小鳥はこちらが気がついたことを認識したように、窓を突くのをやめた。そして器用にメモらしき小さい紙を咥えると、窓と床の隙間に差し入れた。翼を広げ飛び立つことはしなかった。小鳥は元々そこに居なかったかのように、消えてしまったのだ。
 紙を取ろうと動き出した俺を、マシェンが制した。
「俺が取る。待っていろ」
 小鳥の消え方から、小鳥は白い外套の使者であることは明らかだった。紙が罠とは思えないが、用心に用心を重ね俺を守りたいマシェンの気持ちはありがたかった。閉め切った窓からできる限りを伺い見た大きな背中は、猫のように丸くなって紙を拾い上げた。それを広げてみたのだろう。マシェンは戸惑った声をあげた。
「なんだ…これは?」
 しばらく紙を凝視していたマシェンは、俺に紙を手渡した。そこには読みやすい文字が書かれていた。
『近藤美亜の名に心当たりがある者は、先日、お会いした場所で。護衛は1名のみ認めます』
 驚きに言葉を失う。
「なんだ? 何が書いてあるんだ、ファルナン!」
 マシェンの大声が耳を右から左へ貫いた。この文字は、この世界の者が読むことも書くこともできないだろう。この紙に書かれた文字は、来世の俺が生きていた世界の言葉だ。来世の世界でも屈指の難易度を誇る言語であることから、同郷出身だ。そして、ミアリアークの来世である近藤美亜の名前。この手紙の主はミアリアークを見て、近藤美亜が連想できる程度に知っている人物になる。そして近藤美亜を知っていて俺に手紙を寄越したということは、告白を繰り返し玉砕している俺も知っている可能性が高い。
 誰だ?
 この手紙の主は誰だ?
 力みすぎて手紙がくしゃりと音を立てる。
 高槻 守としての記憶を逆さに振って思い出す。しかし美亜のミアリアークを彷彿とさせる凛とした佇まいや、毅然とした対応、美しい所作、俺の告白を断る冷たい美貌ばかりが浮かぶ。美亜は転生して再会した時から、既に天才だった。海外留学を経験し、誰もが名を知る一流の大学を首席で卒業し、今では幹部候補生として公務員勤めをしているらしい。流石だ。死んで生まれ変わっても、自分を律し高みを目指す姿勢が変わらないことが誇らしい。
 そういえば彼女が中学生の時、同級生だった男がいた。比較的仲良く話しているのを見て、嫉妬したのを覚えている。思わず手紙を握り潰してしまった。もし、そいつだったとしたら、ミアリアークが何をされるか分からん…!
「マシェン、一緒に来てくれ」
「おい、何が書いてあったんだ?」
 行きながら話す。そう短く答えて、俺は手早く身支度を整え始めた。一刻も早く、全ての謎の答えが欲しかった。

 先日お会いした場所で。心当たりがあるとしたら、それは奇襲したアーゼの野営地だ。
 竜将軍は撤退したようで、広い空間に燃え残った焚き火の跡やテントの跡だけが先日の名残を残している。あの竜将軍がこの好機を逃してでも引き返したのだ。ミアリアークが捕虜として捕らえられたと、確定したも同じだった。俺達が吹き飛ばされた側の大木が多くなぎ倒されており、先日の衝撃が凄まじかったことを再確認する。
 天候に恵まれたたっぷりとした日差しに、野の花がそよそよと揺れている。
「本当に敵の言葉を鵜呑みして、大丈夫なのか? あっちは、きっと白いのがくるぞ?」
 あの手紙の差し出した主が白い外套であるとは断言できないが、運搬を担ったのだ。ここに来る可能性は非常に高い。
 俺は馬から降りて周囲を見回した。誰もいないなら、差出主が現れるのを待つしかない。俺は愛馬の首を撫でてやりながら、日差しを避けようと森の木陰を目指し始めた。マシェンも周囲を警戒しているのか、ゆっくりと馬に乗って追ってくる。
「あえて来世の言語で接触してきたんだ。条件が合うなら手荒な真似はしないだろう」
 来世の言語、来世の名前。その情報を出す利益は相手にはない。それに応じる俺も、ファルナンが転生した存在であることを明かすリスクが生じる。互いに、何か重要な情報のやり取りを行いたい、情報を得たいという意思が一致していなければ、ここに現れることはない。相手も俺も、そう思っているのだ。
 ぐるぐると今だに見えない白いフードの中身を考える。考えても無駄なことでも頭の中を占めてしまうものだから、体を動かして気分を紛らわす。愛用の長剣を素振りし、対戦を想定した動きを反復して修練を始める。そうするうちに陽が傾き始め、もう少ししたら夜気が漂い始める頃合いだった。
「誰か来たぞ」
 マシェンの言葉に顔を向けると、ちょうど馬が一頭森を抜けて草原の真ん中に来た所だった。茶色い駿馬に男が一人、白い外套を羽織った人物を前に座らせている。男はイゼフではないが見覚えがあった。ミアリアークの来世、近藤美亜の同級生の男だと思う。確信は持てないが、あんな顔だった気がすると掘り返した記憶の中で照らし合わせる。
 馬を止めた男は俺達をすぐに認め、呆れた顔で言った。
「本当に来てるよ」
 アーゼの兵士であろう男が先に馬から降り、白い外套に手を差し出す。馬の乗り方もあまり知らないのだろう、白い外套は恐々とぎこちない動きで降りれそうもなく、兵士に抱きつく感じで降り立った。そのまま、兵士は白いのを背後に庇うように俺達の前に立った。近づいてくる気配はない。お前らが来いと言わんばかりだ。
 マシェンが不機嫌そうな顔をしながらも、俺の前に立って兵士の前に進んでいく。俺達がもう少しで互いの間合いに入るだろう頃合いで、兵士が剣を抜き放って冷静な声色で告げた。
「兜を脱げ」
「そっちの白いのはフードを被ったまんまだが?」
 マシェンが苛立ちを隠さず言うと、相手は間髪なく「顔を確認してから話をする」と言い返した。
 話を続けたいなら、従うしかない。俺は振り返ったマシェンに頷いた。互いに兜を脱ぎ、素顔が見えるよう並ぶ。
 俺達の顔を見ようと、男の背後にいた白い外套が体の位置をずらす。じっくりと見られるかと思いきや、白いフードは直ぐに頷いたように揺れた。純白の外套から色白い腕が上がると、すっと天を指差すような仕草をする。黒い小鳥が指先に止まり、それがマシェンに向かって羽ばたいた。びくりと身を固めたマシェン肩に留まると、黒い小鳥は呑気に毛繕いを始めた。よく見ると、アーゼの兵士の頭にも黒い小鳥が乗っている。
「半信半疑でしたが、本当に高槻さんだったとは…。しばらく見ないうちに、大きくなられましたね」
 穏やかな女性の声が、来世の言葉で話しかけてきた。この世界の民には通じない言語だが、マシェンが驚いたように白い外套を見る。マシェンの反応から来世の言葉の意味を理解しているようだ。どうやら、この黒い小鳥は言語を翻訳して伝える能力でもあるのだろう。便利だな。
「…お前は誰だ?」
「失礼。今、フードを外します」
 女性らしい細く小さい手が、フードをさらりと下ろした。明かされた顔に俺は息を飲んだ。脂っ気のない癖毛だからと、ぴっちりと後ろに束ねた髪。自信のなさそうな笑みを浮かべた若者を過ぎた女性だ。メガネを軽く握った指の関節で上げる妙な癖を、職業病と言っていたのを覚えている。
 その人を俺は知っている。その人は近藤美亜の同級生の男の姉だった。俺の告白が玉砕されるのを知っている人には一通り『どうして、近藤さんが好きなんだ?』と聞かれたが、実際にそのことを話した人が一人だけいた。その人はとても年上で女性で、ゲームや漫画やアニメに詳しい所謂オタク趣味を持った人だった。この人が、そうなのだ。
 俺の前世を誤解しながらも知っている、唯一の人物。佐々木 恵(ささき めぐみ)だった。
「佐々木さん…!」
「君の話を思い出したのは、ミアリアークさんにお会いしてからです。痛い目に遭わせて、申し訳なかった」
 申し訳なさそうに頭を下げる佐々木に駆け寄ると、勢い余って両腕を掴んだ。想像だにしなかった相手を前に、驚きに昂った声と力を佐々木にぶつけてしまう。佐々木は身を固くして、俺を驚いた顔で見上げてくる。
「どうして、ここに? いや、どうして、俺の敵なんだ!」
「うわっ! い、痛いですよ! いきなり掴まないでください!」
 痛そうに身を捩る。本当に痛そうだったので、俺は慌てて手を離した。佐々木は来世の人間だ。争い事のない平和な世界で暮らす彼女に、この世界で俺が囲まれている騎士団の連中みたいな耐久性はない。ごしごしと俺に掴まれた二の腕を摩る佐々木に、俺は心底申し訳なく思いながら謝罪した。
「ご、ごめん」
「説明するのも億劫なくらい、色んなことがあったんです。しかし、君の敵ってねぇ。君がファルナンという騎士団長してるだなんて、どうして私が気がつけましょうか? 君だって私がフードを剥ぐまで気がつかなかったじゃないですか」
 眼鏡の奥から非難めいた視線を向けてくる。俺の興奮を鎮めるように、叱責は静かでゆっくりだった。
「あ、はい。…その通りです」
 真っ当なご意見です。はい。俺は項垂れた。そんな俺の反応に、佐々木は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんなさい。この世界に来てからずっと気を張っているので、少し乱暴な物言いになってしまいましたね。高槻さん。しょんぼりしないで、元気出してください」
 鎧の上からぽんぽんと叩かれる感触がする。俺を元気付けようとしているのか、佐々木は優しい笑顔を浮かべる。
「そうそう、君が元気になる話題です。前回の戦いで気絶させてしまった3名様は、元気にされておりますよ」
「ミアリアークは無事なのか!」
 思わず力いっぱい二の腕を掴んでしまって、佐々木が悲鳴を上げた。気がついた時には遅い。敬語をかなぐり捨てた悲痛な声が叩きつけられる。背後でアーゼの兵士が盛大に吹き出したが、頭に乗った黒い小鳥が脳天に嘴を突き刺して悲鳴に変わる。
「高槻さん! 痛いっていってんでしょ! 君、曲がりなりにも騎士団長なんだから、考えもなしに口にするのはやめなって! 少しは人目を気にしなさい!」
 しまった。確かにミアリアークしか心配してないって思われるのは、騎士団長として良くない。まぁ、聞いているのは親友のマシェンだけだし、大丈夫だろ。
 うぅ。痛いなぁ。そう呻きながら佐々木は二の腕を摩った。丸めた背中から顔だけ上げた佐々木は、思い出したように言う。
「そうだ、ミアリアークさんは、お子さんを身籠ってらっしゃるんですよ」
 誰の、とは言わなかった。だが、前世であるファルナンの子だろう。高槻 守の子供ではない。
 佐々木が俺が打ち明けた前世の話をどこまで覚えているかは知らないが、俺が近藤美亜の前世と結婚を約束していた程度は覚えていたのだろう。だからミアリアークが身篭っていることを知り、ファルナンが死亡していることをアーゼ側にいたから知ることができた佐々木だけが、高槻 守に行き着くことができたのだ。
 驚きと喜びと、今の俺にはあまり関係のない寂しさが内混ぜになって整理のつかないうちに、言葉は続いていく。
「子供がお腹にいても戦うとか馬鹿なこと言ってるので、捕虜として出産して安定されるまでお預かりします。イゼフさんには許可を頂きました」
 ミアリアークならやりかねない。子供を流産しようが、仲間のために戦い続けるだろう。俺が命令しても頑なな彼女は聞く耳を持たない。恥ずかしい話ではあるが、この捕虜の件はありがたい申し出だった。イゼフがミアリアークを保護すると決めたなら、ミアリアークへ向けられた殺意からも守ってくれるだろう。
「わかった。よろしく頼む」
「頼み方が引っかかりますが、まぁ、良いでしょう。お話は以上です。お疲れ様でした」
 フードを深々と被り直した佐々木が身を翻す。ふわりと広がった純白の外套の掻き分け、俺は佐々木の腕を掴んだ。女性らしい柔らかい肌の感触が、グローブ越しに伝わってくる。壊れ物を扱うように、俺は彼女の腕を引いて留めさせる。
 待ってくれ。待ってほしい。どうして。どうしてと疑問が溢れて言葉にならない。
「佐々木さん。貴女は本当に戦争を望んでいるのか? 貴女なら分かる筈だ、この状況のその先がどうなるかを…」
 佐々木の仕事は何だっただろう。そうだ、介護職。彼女は人の生活を守る仕事だと、誇らしく語っていたのを覚えている。人を殺めることが罪という常識、戦争があってはならないという価値観の上にある平和、その中で育った彼女が戦争を望むとは思えない。
 ファルナンとして前世の続きを生きることを決めた俺ですら、高槻 守として得た価値観は決意を鈍らせる。掴んだ腕にもう一方の手を添わす。俺は佐々木の腕に縋り付いて、胸の中に溜まっていた感情を吐き出した。
「俺は舞い上がっていたんだ。美亜が振り向いてくれなくて、再会したミアリアークに良い所を見せたかった。俺は戦争など望んでいない。佐々木さん、お前もそうなんだろう? そうであってくれ。頼む。戦いを望んでいないと、言ってくれ…!」
 見上げた顔は泣きそうだった。なぜ、そんな切なそうな顔をするんだろう? 俺が戸惑うほどだった。
 その表情を見れたのは一瞬だった。佐々木は前を向いてしまって、俺の懇願を拒絶する。
「これから先どうするかは、私が関知することではありません。私はあくまで客人で、この世界の行方を左右するような出しゃばりはしないつもりです。この世界のことは、この世界の者が決めれば良い」
 ならば、なぜ俺に接触した? お前はイゼフの後継者なのだろう? そう思えば、不思議だった。来世の世界に生きている佐々木が、なぜイゼフの後継者としてここにいるんだ?
 本当は逃げ出したいのか? 俺に、ランフェスバイナに保護されてアーゼとの戦争を回避したいのか? しかし、佐々木の存在をイゼフが手放すとは思えない。佐々木を取り戻すためにアーゼの総力を上げて攻め込んでくると思うと、戦争を早めて激化する一因になりかねない。それを想像できない佐々木ではないだろう。
「一体、俺に何を望んでいるんだ? 佐々木さん…俺に、教えてくれないのか?」
 俺に何かを望んでいる。それだけは分かる。
 佐々木は俺を見て、口を開いた。彼女の望みが紡がれると思った口は、動かなかった。兵士が佐々木の傍に歩み寄ってきたのだ。
「時間だ。戻るぞ、ササ」
 するりと腕が抜けていく。どうすればいい。このまま行かせて良いのか? ランフェスバイナを守る為に、なにが最善なんだ。俺が佐々木の顔を見ると、手が小さく引かれる。佐々木の深々とかぶった白いフードが視界いっぱいに広がった。布越しに佐々木の額と俺の額が触れている。小さく、俺にしか聞こえないだろう声で佐々木は囁いた。
「…私の気がかりは、来世の我々の関係が良好だということです。本当の敵は誰なのか、よく考えなさい」
 どういう意味だ? 来世の我々? フードの隙間から見えた佐々木の表情は、俺にトドメを刺したイゼフを彷彿とさせた。苦悩と後悔に塗れて窒息しそうな顔。どうして、そんな顔をしたんだろうと今でも思い返す顔によく似ていた。
 手が抜けた。躊躇いなく離れ颯爽と歩み去っていく背に、俺は手を伸ばすことができなかった。