俺達は望む未来に命を賭ける!

 神の御前という表現が、この世界で最も似合う場所。ランフェスバイナという神の名を持つ王国の心臓と呼べる礼拝堂は、神に最も近い場所である。
 ランフェスバイナに生まれた者は余さずこの場で洗礼を受け、結婚の儀で祝福され、死んだ者はこの場で最後の別れを告げる。この国に玉座はない。この国の女王はこの礼拝堂で神に祈りを捧げるために、常に頭を垂れている。
 シルフィニア陛下が祈りを捧げる姿は、まるで一つの芸術作品のような美しさだった。最高級の布地がしなやかな体のラインを浮き彫りにし、祈りの仕草のために複雑なシワを刻んでは段下に控える俺の前に流れ込む。ランフェスバイナで咲いた花を髪に戴き、空の瞳を閉じてなお人成らぬような美しさが声を掛ける事も恐れさせる。
「ファルナン、どうかされましたか?」
 ようやくお声が掛かった。その時間は俺が膝をつき頭を垂れてしばらくしてという時間であったのに、まるで1日が過ぎ去ったかのように長く感じた。主人は立ち上がり、発光していると思うほどに白い素足が真紅のカーペットの上を滑り来る。
「面を上げて。貴方の言葉を聞きたいわ」
 まるで日差しのように降り注ぎ、甘露のように耳に滑り込む声色。その言葉に命令じみた尊大さは一切ない。俺は顔を上げ、逆光の中にある青空の色を見上げた。
「偉大なるランフェスバイナの代行者たる陛下に…」
「ファルナン。私の忠臣。言葉に飾りはいらないわ。私は、貴方の言葉が聞きたいと申しましたでしょう?」
 思わず体が強張るのを感じていた。慈悲の心に満ちた言葉に、自分が考えている全ての策が愚かしいことに感じてしまう。しかし、言わねばならない。凄まじい吐き気を感じながら、俺はまさに言葉を吐き出した。
「お言葉に甘えて率直に申し上げます。私、ファルナンはランフェスバイナ王国騎士団長として、アーゼとの休戦協定を結びとうございます…!」
「休戦協定?」
 まるで言葉すら知らないような、きょとんとした声色で陛下が聞き返した。俺は『はい』と答えて言葉を続けた。
「現在の騎士団は、副団長であるミアリアークが敵国に囚われてしまい戦力が著しく低下しております。加えて、アーゼに竜将軍の後継者が加わったことで戦力は増強の一途。今の状況で戦いを続けても、勝機が見出すことはできません」
 ランフェスバイナがアーゼに勝つことができないだろう。
 その存在を確定させたのが、佐々木の存在だ。佐々木は介護職をしていて、自分の仕事に誇りを持っていた。防御に特化した使い手になることは容易に想像できる。ミアリアークをも完封した鉄壁の防御を突破する術がない以上、今後もランフェスバイナは消耗させられる一方であろう。
 そして休戦協定の見込みがあるのも、佐々木の存在のおかげだ。奴は自分を『客人』と言った。この世界の者がこの世界のことを決めろと言った。責任感がありそうな彼女にしては随分と無責任だが、関わる気がないなら為すべきことを終えて帰るつもりでいるのだろう。今の戦況が停滞しているのは佐々木の強大な防御力のおかげであると、イゼフもアーゼの民もわかっているはずだ。佐々木が帰ったら、アーゼの防衛が手薄になるのは明白。その前に休戦の方向に向かえば、互いに利益を得られるだろう。
 この休戦協定は確実に結ばれる。世界中の人々がそう望んでいるからこそ、成功が約束されているに違いない。
「それは、誰のためですか?」
 本当の敵は何なのか。佐々木の言葉を俺はあれから随分と反芻した。
 そして、思ったのだ。この戦争を泥沼へ引き込む敵とは、きっと俺自身なのだろうと。俺が、ファルナンが、敗北が濃厚でも続けようとする戦争に意味があるとは思えない。俺の自己満足で、皆を地獄へ連れていくことはできない。俺は民を守るために、己の自尊心を殺さねばならい。
「民のためです。これ以上、勝機の望めぬ戦いを続けては、民の平和と豊かさを損ねてしまう」
 アーゼから休戦協定の申し出があるとしたら、ランフェスバイナが戦争を続行して疲弊した結果、様々な弊害を隠しきれなくなったらだろう。それはもはや同情でしかない。俺が折れれば、諦めれば、民は苦しまずに済む。故郷が平和で豊かであることを、俺は望んでいる。
「民は貴方がアーゼに媚びる裏切り者と、罵るかもしれませんよ」
「俺の首一つで全てが片付くのなら、望むところです」
 それは、自分でもびっくりするような覚悟だった。
 高槻 守は前世の世界にはなんら関係ないのに、前世の故郷のために命を捨てるつもりなのだ。
 逃げ帰っても良かったはずなのに、ファルナンとしての前世が高槻 守としての来世を色褪せたものにしていた。このまま民に裏切り者と断罪され処刑されたとしても、アーゼの支配下として虐げられる未来を回避したいと望んでいる。そうされて、誰も気がつかぬままで平和が維持されるなら、それは良いことなのだ。
 陛下が『わかりました』と、吐息のような同意を漏らした。滑らかな絹のような掌が、俺の頬を包んだ。
「勇敢なる我が忠臣に、ランフェスバイナの祝福を…」
 額に柔らかなものが触れる。それが陛下の唇であったと理解した瞬間、視界が真っ白になった。

 本当に真っ白だ。何も見えない。
 ファルナン。高槻 守。そう俺を形容する意識があるが、肉体はない。手も足も動かそうとしてもそこになく、心臓の鼓動も空気が動く音も聞こえない。完全な無音。世界の果てもない真っ白い世界。時間の感覚はなかった。ずっとそうしているような、少し前に女王陛下に謁見したような、曖昧で夢を見ているようだった。
 頭がぼんやりして、このまま眠ってしまいたくなる。寒くも暖かくもなく、ただ凪いだ気分が眠気だけは募らせてくる。
 ふと、鼻先を匂いが掠めた。なんの匂いかわからない内に、遠くから絶え間なく音が聞こえる。耳障りであることは分かったが、なんの音までかは知ることができない。真っ白い光は全てを遠くへ押しやって、わずかに流れ込んでくる情報は頼りない。
 のどがかわいた。
 鮮明に感じた喉の渇き。光は真夏の太陽になり、水を撒いたかのような陽炎がアスファルトの上に広がっている。高槻 守が生きている、来世の世界だ。最寄りの駅周辺に広がる繁華街は、部活動や大会で忙しかった最近を思えば久々だった。暑い。今年はこんな猛暑だったんだろうか。俺の前を歩く小柄な人影が前を指差した。
「今年の夏は、特に暑いですね。この店に入ろうと思いますけど、良いですか?」
 見上げて看板を見る。ちょっと高い、待たせてくる、けど美味しい全国にチェーンがあるファストフード店だ。店の前で足を止めた人影は黒板に描かれたおすすめ商品を見て、嬉しそうに財布と相談し始めた。ジュースを削り出したかき氷に、果物とソフトクリームを乗せた絵は俺も魅力的に思う。
「高槻さん。何食べます? 奢りますよ」
 俺は人影をようやく見た。ゆったりとした透かし編みのカーディガンの下に、襟付きのシャツとジーンズ。女性にしては硬い印象の組み合わせだ。ギリギリ結べる程度の髪は、まるで兎の尻尾に見える。返事がないのを訝しんだのか、振り返って俺を見上げてきた。度がキツいのだろう厚いレンズの眼鏡が、太陽の光できらりと光る。
 佐々木 恵だ。どうして、そこにいるんだろう?
「私が君から話を聞きたいと誘っているんです。奢るのは当然です。それに、若者は年長者に奢られるものですよ。君が大人になったら、同じように奢ってあげてくださいね」
 手動の扉を開けて、涼やかな鈴の根が響いた。いらっしゃいませと店員の元気な声を聞きながら、俺は促されるままに注文する。佐々木は目を輝かせていた期間限定のスイーツではなく、熱いカフェオレだけを頼んでいた。先に渡されたコーラが注がれたグラスが、氷と打ち合わさってテーブル席の上で涼やかな音を奏でる。
 喉を炭酸が駆け抜けていく感覚が気持ちがいい。俺が喉を潤した頃合いを見計らって、向かい合った佐々木は眠くなるような声で尋ねた。
「君はどうして近藤さんに告白するんですか?」
 覚えのある質問だった。俺が一度だけファルナンのことを話したのは、彼女のこの問いから始まったのだ。
「俺は好きな人がいる。それが美亜なんだ」
 佐々木は苦い顔をする。佐々木が理解できないというのは、わかる。一目惚れだと主張しても、歳の差は10歳。顔を合わすたびに告白し、待ち伏せしたり、ジョギングコースと美亜の通学路をぶつけて連日会っていた時期もある。その全てに『いいえ』と返されて同情しない奴はいなかった。美亜は佐々木にどう相談していたのだろう? 美亜のことだ。俺のことなど相談するまでもないと、話題にも上げないかもしれない。それが、佐々木には却って不憫に思えただろう。そんな人だ。
「佐々木さん、俺は美亜を幸せにしたいんだ。今度こそ、絶対に、幸せにしてあげたいんだよ」
 佐々木の顔が笑った。それは自信なさげで思慮深い佐々木 恵の顔ではない。佐々木が絶対にしない笑い方だった。思わず腰が浮く。本当なら『今度こそ? 絶対?』と目を白黒させた佐々木が目の前にいるはずなのに…。
「本当に、君がミアリアークを幸せにできるのかなぁ?」
 くつくつと肩を震わせて、佐々木の姿をした誰かが笑う。
 なぜか、誰かは一人しか思いつかなかった。
「…イゼフ?」
 思わずそう訊ねると、目の前には佐々木は座っていなかった。黒いスーツの上下に白いシャツ。クールビスなのかノーネクタイという装いのイゼフが座っている。頬杖をついて驚く俺を愉快そうに眺めている。
「やあ。団長君。それが来世の君の姿なのかい? 俺の格好もそう? 面白い服だね」
 ぺらりとスーツの裾を摘む。
「…なんで? 佐々木さんが居たはずだ」
「うん。さっきまでササがいたね。ササは俺の来世。俺が干渉できる数少ない取っ掛かりなんだよ。まさか、こんな決定的な点を作ってたなんてね。俺がこうして接触できるのも、こうして干渉できるのも、いやぁ、無理だと思ったんだけど出来ちゃうし…!」
「佐々木が…イゼフの来世?」
 愕然とする。とても二人が結びつくとは思えない。
 だって、俺はイゼフに殺されたんだぞ。思い返しても憎しみと恨みしかない相手だ。そんな奴の来世なんて、ろくな奴じゃないに決まってる。それなのに誠実でなぜか信頼してしまう、しっかりした人物の佐々木にならと、俺は前世のことを話した。イゼフの来世に、俺は最も大切にしていた思い出と心の内を話したっていうのか…!?
 俺の驚きに、イゼフはうんうんと頷いてみせた。
「驚くよね。俺達は互いに前世と来世の関係じゃないって、否定気味なんだ。俺も認めるのは心苦しいよ」
 まぁ、それは良いとして。イゼフは話題を切って、テーブルに運ばれたトレーを押す。美味しそうなチキンフィレオが瑞々しいレタスと共にバンスに挟まれている。ポテトフライは厚切りでホクホクした食感のもので、少しのバジルが食欲をそそるアクセントだ。懐かしい。俺は佐々木に奢ってもらってから、このファストフードのファンになったんだからな。
「それ食べたらさ、さっさと目覚めてよ。俺達、君のせいで凄く大変なんだから」
 そう言いながら、俺のフライドポテトを一つ失敬する。イゼフは『ササがこの前作ってくれた奴だ。美味いなぁ』と幸せそうに笑った。手をつけないと俺の分が食われてしまいそうで、慌ててチキンフィレオサンドを手に取った。スパイシーな味が口に広がる幸せを噛みしめながら、俺はイゼフに訊いた。
「イゼフ…その、さっきのはどういう意味だ?」
「あぁ、ミアリアークが幸せにできるのかって? ミアリアークが幸せであれるかは、君の頑張り次第だよ。ファルナン。…真っ直ぐな嫁じゃないか。しっかり目を合わせて、大切にしてやらないといけないぞ」
 なぜ、そんなことを言うんだ。ただのお節介焼きのおっさんみたいじゃないか。俺とミアリアークは、お前の敵なんだぞ。それなのに、どうして俺達の幸せを願うようなことを言うんだ。
 そして、その言葉がストンと胸に収まるんだ。不思議だと思う気持ちと、その通りだと思う気持ちが、モヤモヤとして疑問に形を変えて溢れてくる。
「変な気分だ。俺達がこうして話すのなんか、初めてのはずなのに…」
「立場上、敵対してただけだからね。君とササが仲が良いって聞いて、俺が驚いてるくらいさ。俺達、実は相性悪くなかったんだな」
 あっさりと言って退けたイゼフは、窓の外へ視線を向けた。アスファルトを行き交う車を、横断歩道を渡る人々の波を、暮れゆく中でネオンが点いていく様を、興味に輝かせた瞳が追いかけていく。まるで子供のようで、俺達を苦しめた竜将軍など存在しないかのようだ。
「来世。良いね。俺さ、ササから来世の生活聞いて、羨ましいなぁって思ってるんだ。平和でさ、他人の生活を守るために頑張って、自分の趣味を謳歌してさ…。ほんと、俺、そういう隠居生活憧れてるんだよ」
 どうして、俺達は敵対していたんだろう…?
「イゼフ、俺達は…」
 俺の言葉はイゼフが僅かに上げた手で制止された。止めた言葉の続きを知っていると言いたげに、イゼフは朗らかに笑っている。
「ファルナン。来世も君の敵で在りたいものだ」
 夜になる。照明が落ちて、暗くなる。体の感覚が瞬く間に戻ってきて、ごうごうと何かが燃え上がっている音や崩れ落ちる音が耳から脳を直に叩く。地面を舐める炎が目を焼いた。たくさんの人だったものが、濃い影になって火に炙られている。
「…な」
 俺は思わず身動いだ。視界の内側に何かがいる。抱きしめるように、俺は何かとすごく近い距離にある。
 確認しなくては。
 確認しなくては。
 少し前方に倒れる白が見える。ボロ布のように汚れた白が、倒れている。どうして。どうして?
 手が濡れているのに気がついた。濡れて今も流れ出る何かが伝っている。滑る何かが滴って、膝の上に零れ落ちる。その不吉な感触を俺は知っていた。口にすら広がる鉄臭い味と匂いがなんなのか、俺は分かっていた。それでも、受け入れられない。嘘であって欲しい願いが、現実によって叩き壊されていく。
 俺はそろりと視線を動かした。動かしたくなかったが、動かずにいることを世界が許さなかったのだろう。俺は全てに押し促されるように視界の内側を見た。
 イゼフがいた。俺に、心臓を貫かれて、息絶えていた。