獣は楽しげに地獄を語る?

 人は誰かの、もしくは自分の、死に直面すると酷く傷つくものだ。それは自分が同じように死ぬかもしれない恐怖であったり、誰かを殺すという取り返しがつかない罪悪感であったり、感情を言葉で整理できない混沌の海でもがく苦しみであったりする。その反応は狂うという表現が妥当で、泣き叫び吐き散らし醜態を晒すものである。
 佐々木は過呼吸だった。それでもそれは巧妙に制御されていて、意識消失も手の痺れもないギリギリのラインを漂っている。イゼフや偶然居合わせた為に死んでしまった兵士達を守れなかった後悔を、己が力の使い方が未熟であった取り返しのつかない結果を繰り返し繰り返し言い続ける。もうイゼフの遺体は俺から引き離されていた。本来なら牢に放り込まれるべき俺の横を離れないのは、イゼフを殺したからと復讐に駆られる兵士達から守るためだと言う。
 佐々木の言葉通り傍に彼女がいなければ、俺を殺すつもりの憎悪と殺意を漲らせた敵兵に囲まれている。しかし彼らもまた佐々木の酷い過呼吸と後悔の言葉に、剣先を鈍らせていた。佐々木がいなければアーゼは壊滅的打撃を受けていたと、感謝していると声をかけた兵もいたが火に油を注いだかのように酷くさせてしまっていた。
 未だに俺が女王陛下との謁見を終えた後、どうなってしまったかはわからないままだ。わかる事は、イゼフを殺したのは俺だということだけだった。尋ねようと思ったが、流石にこの空気がそれを許さなかった。
「考えろ…考えろ…そうしなければ……勝てない…」
 激しい呼吸の中で佐々木の喘ぎが聞こえてくる。一時間も喘ぎ苦しんでいて顔色は最悪だったが、その目は何一つ見逃すまいと、恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
 手を伸ばすと、黒い大型犬がおすわりの姿勢でそこにいた。佐々木の手が黒い獣の首を掴んで、その瞳らしい場所を覗き込んだ。
「バルダニガ…死ねば…良かったのに…」
 獣が愉快そうに体を震わせた。
『心無いことを言ってくれるね。おぉ…そんな怖い目で俺を見ないでくれ。本気で全員を守る為に俺を殺すつもりだった、ササの度胸に俺は心の底から尊敬しているよ。正直、嬉しいくらいだ』
 バルダニガ。その名前に俺はハッと顔を上げた。
 アーゼの獣。獣が魔王となった時、アーゼと呼ばれた獣はバルダニガと呼ばれた。アーゼ・バルダニガはアーゼの魔王という意味となって世界中の人々が知る、悪意と脅威の代名詞だった。
 そしてファルナンの目的はバルダニガを殺すこと。目の前の獣を殺すこと。
 俺の視線に気がついたのか、獣はこちらを向いた。先日の小鳥を彷彿とさせる、瞳も毛並みもランプの明かりに浮かび上がることはない。その空間が切り取られたかのような、獣の形の闇がそこにある。
『久しい…というべきなのかな、ファルナン。竜の姿の方が君には馴染み深いかもしれないね』
「竜将軍の黒竜…?」
 言われてみれば魔力の雰囲気が似ている。
『うん。君が命を賭けて分断したイゼフの魔力の正体はね、俺なんだよ。魔王と呼ばれたアーゼの獣そのものなんだ』
 過呼吸が苦しくなってきたのか、佐々木が獣から手を離して蹲った。早くなる呼吸を意図的にゆっくりにさせて制御しているのか、俺が背中を摩る間にも早くなったりゆっくりになったりを繰り返す。
 視線を戻せば獣は俺を見続けていたらしい。
『ファルナンとしてよりもずっと昔の君に、勇者であった君に、俺は殺されそうになってね。うん。本当に殺される所だった。危なかったよ。でも、俺はアーゼの民に随分と手厚く信仰して貰ってたおかげで、どうにか死なずに済んだんだ。でも俺が大事にしていたアーゼ王国が滅んだのは辛かった。王様はね、ササとイゼフよりもずっと前の彼らだったんだ』
 勇者であった俺? 俺は闇に目を凝らす。
 ランフェスバイナの神に祝福された勇者が、アーゼの魔王を打ち倒す伝説。その伝説の最後は、魔王は封印され、魔王が支配していたアーゼ王国は崩壊したということ。勇者はランフェスバイナの神に、特別な家臣として神の代行者である王家に仕えることを誓ったという。
 もぞりと佐々木が顔を上げた。浮かび上がるほどに、真っ白い顔が憎々しげに闇を見つめている。
「そうか…そういう…想像力が逞しい事が…これほど…嬉しくないなんて…」
 俺は佐々木の顔を覗き込む。佐々木は俺の視線が問いかける全てを、察したようだった。大きく息を吸って呼吸を整える。だいぶ過呼吸が落ち着いてきたのか、呼吸が苦しくなるほどに早まる間隔は長くなってきていた。
「ファルナンの目的はバルダニガを殺すこと…ですか?」
「そうだ」
 佐々木の瞳が険しくなる。
「それを命じたのは誰です?」
「シルフィニア陛下だ」
 ぎりっと佐々木が歯噛みする。鬼気迫る表情に俺は息を呑んだ。
「目の前の獣を殺すためには、きっと条件があるんです。消し飛ばしても、伝説の勇者が打ち倒しても、アーゼの民によって死なずに済んだ。つまり殺すなら、アーゼを滅さなければならない。アーゼの民を、バルダニガを知る全ての存在を殺すことで、初めて目の前の獣は死ぬのです」
『はは! 流石、ササ! そう、その通りだよ』
 佐々木は拳を握り込んだ。きつく握りしめた手から全身に震えが広がっていく。歯を食いしばり、過呼吸で喉から絞り出される苦しげな呼吸音を響かせながら、彼女は吐き出すように言った。
「イゼフさんが私に黙っていたことは、このことだったんだ…。こんなことを聞かせられたら、私はランフェスバイナを滅ぼすことを躊躇ったりしない。だから、踏み込ませなかったんだ。あの人は最初から全部を背負うつもりで…悪役を演じて…。私はイゼフさんの来世だったんだろ? 一番近い存在のはずなのに…!」
 声を荒げる佐々木に、俺は戸惑った。理想の大人を体現したような佐々木が、声を荒げるなんて想像もつかなかった。再び激しさを増した過呼吸に崩れ落ちるように蹲った佐々木を労わるように、バルダニガが寄り添った。
『イゼフは君を大切にしてた。君があまりにも綺麗だから、汚したくなかったんだ』
「バルダニガの死を望んでいるのは、ランフェスバイナの神の代行者だって? この戦いは…あぁ、もう、本当に馬鹿らしい。早く早番で起きる時間にセットしたアラームが鳴って、夢から覚めてほしい。前世の世界に呼び出されて、神々の戦いの延長に巻き込まれちゃうとか? これは創作だ。そうに違いない…そうであって欲しい」
 力なく頭を抱えた佐々木を労わる気持ちはどこへ行ったのか、獣の軽い声は脳髄をお気楽に揺らしてくる。
『正解正解。ほぼ完全な回答だよ! ササ! ほらほら、逃げないで。君が今の俺の器なんだからさ…!』
「最初から最後まで最悪じゃないか!」
 激しく咳き込み佐々木は蹲る。そんな佐々木の頬を舐めた獣は、ぱたぱたと能天気に尻尾を振る。
『この世界にはね、神様ってのがいっぱいるんだ。大地の神や水の神や空の神とか、いっぱいいるんだよ。俺は獣の神。ランフェスバイナは人の神なの。俺とランフェスバイナはめっっちゃくちゃ仲悪いのよ』
 影の獣は毛繕いをしているようだった。まるで世間話をするように、神代の伝説を語り聞かせる。
『人は本来、獣に属するんだけどランフェスバイナが『人』を特別扱いし始めたんだ。知識を与えたり、木を切って、大地を傷つけて、海を荒らして、他の獣を食う為に家畜にしたりね。もうやりたい放題。終いにはランフェスバイナは俺を滅ぼそうとした訳』
 ほーんとやんなっちゃうよねー。後ろ足で顔を掻き始めた。
『その大喧嘩があまりにも酷いものだから、神々であまり地上に干渉しないようにしようって取り決めしたの。そこで神様はそれぞれに一つだけ、大事にしている魂とそれが宿る器からしか世界に干渉できないって決まりになったんだ。ちなみに植物の神は…ほら、世界樹って呼ばれてる遠くの国にある大木。俺はイゼフとかササ。ランフェスバイナは…君の女王様ってわけ』
 なるほど、それがイゼフの後継者が佐々木である理由なのか。イゼフが死亡していない為に、バルダニガが力を宿せる存在はこの世界に存在しない。だからイゼフの生まれ変わりである佐々木を探し出し、この世界に招き入れたのか。
「俺は関係ないじゃないか」
 正直、シルフィニア様にランフェスバイナの神が宿っているという展開に驚きはない。それくらい女王陛下は神々しく、慈悲深かった。俺に話を聞かせる意図が見えてこない。
 俺の言葉に獣は首を振る。
『んもー、勇者君お話聞いてる? ランフェスバイナは『人』を特別扱いしてるんだ。長い年月を掛けて、特別をさらに好みの物に仕上げてる。信仰心を束ねて力を集めたり、自分の神聖性を讃えてもらって気持ちいいなぁってことしてるの。そうだなぁ、生まれてきた赤子に祝福してるのなんか、ランフェスバイナの魔力を植えつける行為だよ。他の神々から、やりすぎって言われても文句言えないね』
 獣が俺を覗き込む。瞳も何もかも闇に沈んでいるのに、俺を見ているのがわかる。
『その最高傑作が君なんだよ』
「俺…? ファルナンじゃなくて?」
『ファルナンも込みだよ。俺を殺す寸前まで追い詰めた勇者であった君を、ランフェスバイナはそれはもう可愛がった。大事に大事に育てて、ランフェスバイナが結構力注いじゃっても壊れない魂と器に育ったら今度こそ俺を殺せるって思ったんだろうね。俺も殺されたくないから、イゼフに器をしてもらって将軍してもらったし、ササにかなり強引な手で手伝ってもらうことにしたんだ』
 佐々木が顔を上げて『かなり強引…?』と影を睨みつけた。影は震え上がって見せたけど、飄々と笑った。
『君がここにくる前、ランフェスバイナの器と接触したでしょ?』
「あぁ、アーゼと休戦協定を結びたいと話に行った。その時、アーゼに向かう俺に祝福を…って額に」
 俺の言葉が終わらぬうちに、獣が『それそれ!』と飛び跳ねた。
『君がアーゼを攻撃するって意思が無くなっちゃったから、ランフェスバイナは無理やり攻めてきたんだな。君の意識を奪って、力を注ぎ込んで、アーゼや俺を殺す殺戮兵器に仕立て上げたんだ! うわー! 怖いねー! とても真似できそうにないや!』
 はしゃぐ獣を佐々木が押さえつけた。獣は甲高い声を上げて、大人しく伏せる。
「いや、本当にどうするんですか? ランフェスバイナとアーゼの戦いはどうなるんです? 騎士団長である高槻さんに戦う意志がないなら和平を結んで終わりと思いましたが、そうじゃなさそうじゃないですか! いったい、どうしたら私は帰れるんですか!」
『君がイゼフの代わりに……ごめんごめん。怖い顔で見下ろさないで。俺も傷つきやすいんだからね』
 佐々木が手を離すと、獣は体の水を弾き飛ばすように体を振った。
『俺は殺されないなら大人しくするけど、ランフェスバイナは俺を殺さないと気が済まないみたいだ。休戦協定を取り付けても、神は戦いを望んでるって戦争を続けてくるだろう。人間達の都合なんかランフェスバイナは知らないよ』
 俺は思わず絶句する。俺達を庇護するとされた神が、することとは思えない。
『今回、イゼフを殺されて俺は怒ってるんだ。ササ、帰りたいなら協力してもらうよ』
 獣は低い冷え切った声で佐々木に言うと、俺と佐々木を見た。
『ランフェスバイナの器、シルフィニアには居なくなってもらう。魂が転生を繰り返してこの世界に戻れるかは、運がだいぶ絡むからね。その間に神々でもう一回話し合いするよ』
「シルフィニア様に…居なくなってもらう?」
 それは、つまり。
「殺す…ということか?」
『そういうこと』
 獣があっけらかんと言った。恐ろしい顔になっただろう俺に、獣は笑った。顔は見えない。だが、笑っているのがわかる。
『自分の目で確かめてみなよ。君の信仰していた神が、どんなものなのか…さ?』