神様なんてお呼びじゃない!

 目まぐるしい日々の中で、この場所だけは時間が止まっているようだと思う。差し込む日差しを透かして七色の光を投げ込むステンドグラスの美しさも、真紅のカーペットが真っ直ぐに伸びる空間の中にただ一人祈る後ろ姿。ファルナンであった時も、高槻 守として戻ってきた時も、この静謐な空気は何一つ不動のものに思えた。
 今も変わらない。
 俺は甲冑の重たいブーツを柔らかく受け止めるカーペットを踏みしめて、仕えるべき主人の元へ進んでいく。陛下は振り返り俺を出迎えた。俺がアーゼで聞いてきた衝撃的な事実など何一つ当てはまらないような、人畜無害な無垢な乙女がそこにいる。
 陛下を見上げる段下まで進むと、俺は膝をつき深々と首を垂れる。
「ただいま戻りました、陛下」
「おかえりなさい。ファルナン」
 嬉しそうな声が耳を愛撫した。胸の中で嵐のように暴れ狂っている疑心暗鬼の何もかもが、嘘であったと片付けたくなるような尊い声色だ。嘘。嘘だったらどれだけ良いだろう。イゼフの力の抜け切った重い体が、佐々木の苦しげな息遣いが、嘘だったらどんなに良かっただろう。なかった事になどできない。
 ミアリアークが幸せであれるかは、君の頑張り次第だよ。ファルナン。
 そうだ。ファルナン。愛するミアリアークの為に、俺は、なすべきことをしなくてはならない。
「イゼフは死にました」
「そうですか。ファルナン、ご苦労様でした」
 労いの言葉は感情が篭っていなかった。淡々と告げられた言葉に、許可なく俺は面を上げた。
「しかし、それは私の意図しないうちに起きた事でした。イゼフは確かに多くの仲間の命を奪った宿敵ではありましたが、今回の休戦協定に必要不可欠な交渉相手でありました。私は、とても困惑しております」
「ランフェスバイナの神のお導きだったのです。ファルナン、貴方が気に病む事は何一つありません」
 俺は確かめなくてはならない。イゼフが亡くなった今、彼女が何を望んでいるのか。
 アーゼを滅ぼせと言うなら、獣の言う通り神々の諍いの続き。
 アーゼを救えと御所望なら、俺の望んだ理想の主人。
「シルフィニア陛下。ランフェスバイナの神の代弁者であり、神の名を冠した国の王よ。アーゼを如何なさいましょう?」
「我らが神はアーゼの根絶を望んでおられます」
 シルフィニア陛下は笑みを浮かべている。いつもの神々しい、誰も不快にならない理想的で絶妙な微笑が俺に向けられる。
「私はその命令を受けられません」
「我が忠臣。拒絶する理由を話していただけますね?」
 柔らかい声だが、雰囲気には細身の乙女からは想像もつかない圧を感じる。俺は立ち上がり、女王の顔にポッカリと開いた二つの覗き穴を見る。まるで空を覗き込むような青を見ていると、神がその穴から俺を見ているような気がするのだ。
「俺は転生して平和な世界を生きてきました。戦争もない、毎日が当たり前に繰り返される世界。乾きも飢えもなく、憂いも不安も諍いも、想像できる限り些細で個人的なものばかり。幸せでした。こんな平和な世界があるんだって、こんな平和な世界を故郷に齎らしてあげたいと思いました。その為に、前世の記憶を持った俺はアーゼを滅ぼすことばかり考えていました」
 正直、退屈ですらあった日々。そう思えることが贅沢で幸せだと、評価していた世界。
「そこで愛する人と瓜二つの人を見つけて、今度こそ幸せにしてあげたいと強く願うようになりました。ファルナンとして前世では何もしてやれずに残してしまったミアリアークの代わりに、彼女には俺の思う全ての幸せを捧げたかった。その幸せを考えた時、アーゼを滅ぼすと言う決意を汚らわしく思ったものです」
 戦争はあってはならないという価値観を与えてくれたのは、来世の退屈な歴史の授業だった。
 イゼフだから殺して良い理由にはならなかった。イゼフを実際に殺して、アーゼの兵士達はどうした。佐々木はどうだった。酷く傷つき悲しんでいたじゃないか。仲間を殺されて俺はどうだった? 悔しかったし、憎悪を募らせた。ミアリアークが死んだと思った時、どんなに苦しかったことか。
 血に塗れた手で、近藤美亜に触れる気にはもうなれなかった。俺は前世の戦いを続けたがゆえに、もう二度と手に入れられないものができてしまったんだ。
「ランフェスバイナの神よ。俺は空の下に在る全ての人に幸せであってほしい。それがいかに不可能なことであったとしても、努力を惜しまず、誰かの苦しみに寄り添い誰かの涙を拭うことを誇りにして生きたい」
 俺は胸に突っ掛かった何かが外れた気がした。
 そうだ。ファルナンが騎士になりたいと願った最初の原点と、同じ理由であったような気がする。誰かの苦しみに寄り添い誰かの涙を拭うことを誇りにして生きたい。ミアリアークもそんな俺の生き様を誇りに思ってくれるだろう。
「俺が仕えるべきは神ではない。俺が仕えるのは民なんだ」
 そう、俺が幸せにしたいのは神様じゃない。俺が幸せにしたいのは、ミアリアークなんだ。
「いけません」
 声から柔らかさが消えた。女王の顔は逆光になって見えない。
「いけませんよ、ファルナン。ランフェスバイナの御心に従っていれば幸せなのです。ランフェスバイナを讃える事が、民の喜びなのです。神の守護と祝福の内側にこそ、本当の平和があるのです」
 あぁ、陛下。俺が高槻 守であった時に、この世界に招いたことを後悔した方がいい。来世の世界では宗教の価値観はとても冷めていた。習慣づいた未知なる者への畏怖が、信仰する存在への敬意があれど、従順に従えば救われると思う価値観の中で俺は暮らさなかった。
「いいえ、陛下。与えられるだけの幸せはいつか終わるもの。終わる先を乗り越えた時、本当の幸せが得られるのです」
 女王は自分自身を抱くように、腕を回した。
「ランフェスバイナの為に生きる事。それがとても幸せな事なのか理解できないなんて、なんて可哀想なファルナン。来世は不思議な場所でしたが、忠臣である勇者の魂であっても神の御許以外で育ったものを使うべきではありませんでした」
 女王がゆっくりとこちらに手を差し出す。
「せめて、私の手で」
 何と言うつもりだったのだろう。『葬ってあげましょう』だったのかもしれない。しかし、その言葉は紡がれなかった。
 女王の背後から燦々と降り注ぐ光が陰る。ほんの一瞬の、鳥の影と錯覚するほどの小さい陰り。それは次の瞬間大聖堂の全ての日差しを遮り、ステンドグラスを漆黒の竜が突き破った。瞬く間に俺の前に飛び込んできた闇は、魔力のぶつかり合いの果てに相殺される。その力は凄まじく大聖堂の窓という窓を割り、カーテンや旗を引き千切って飛ばし、生けられた花を花瓶ごと倒して水と花弁を撒き散らす。黒竜の真後ろに居ることになった体が吹き飛びそうになり、伏せた状態で耐え凌ぐ。
『勇者君、危なかったね! 俺が遅かったら骨すら残ってなかったよ!』
 バルダニガの楽しそうな声が聞こえた。
 万が一俺の身に危険が及びそうになった時は、佐々木とバルダニガが助けに来る手筈になっていたのだ。待機している場所は奇襲に失敗した野営地だったはず。あそこからここまでの距離を一瞬で移動してきたと思うと、敵でなくて良かったと心から思ってしまう。
 シルフィニア様の声と、男性のような威厳ある声色が混ざった声がバルダニガの名を呼んだ。その声に形を繕おうと蠢く闇は心底不満そうに唸る。
『その名前で呼ぶなよ、ランフェスバイナ。バルダニガという名を与えられたせいで、俺は純粋な獣の神じゃない、なんか不純で不安定でヘンテコな存在になっちゃったんだからな! あぁ! ササ! 集中して。気を抜いたら死んじゃうって!』
 体に温もりが触れるのを感じる。顔を上げると佐々木が膝をついて、俺の顔を覗き込んでいた。初めて見る眼鏡を外した佐々木は、風で乱れた髪の下で大きい瞳を瞬かせた。神々の戦いにしては控えめな、それでも一流の魔法使いの応酬のような轟音と揺れが俺達を包み込んでいる。俺の無事を確認した佐々木が、顔を上げてシルフィニア様を見た。
「あれが君の女王陛下様ですか。すごい圧ですね。さて、何処まで善戦できるやら…」
 バルダニガの闇に佐々木の白い手が触れると、竜は大型の黒犬に凝縮される。佐々木がバルダニガの首筋を叩くと、黒い獣は光に負けぬ素早さでシルフィニア様目掛けて駆け出した。光が貫いても闇は再び獣の姿を形作り、素早い動きで雨霰と降り注ぐ光の矢を避けてシルフィニア様の喉笛に牙を突き立てようと迫る。女神や天使と形容されてきたシルフィニア様は、その言葉の通り神々しく輝いた。あまりの眩しさにバルダニガが掻き消える。
 佐々木が呻いてよろめく。ラスボス、強すぎじゃね? 佐々木が独り言を漏らす。
 薄汚れ血の付いたの外套の影から、黒い犬がのそりと這い上がり佐々木の足元にまとわりつく。佐々木は戻ってきたバルダニガを半眼になって見下ろした。
「光の力と相性が悪すぎて、相殺が精々じゃないですか。とても女王には近づけませんよ。どうやって勝つんですか?」
『俺は光以外の属性になら優位に立てるんだけど、ランフェスバイナだけは駄目なんだよねー。やっぱ、物理攻撃でざっくりが一番だよ。ササ、包丁持ってくるからさ、ぶすっとやれば勝てるよ』
 佐々木が闇を広げ光を薄めて攻撃を往なしながら、呆れた声を漏らす。
「あのねぇ、バルダニガ。私の運動神経のなさを理解してください。包丁持って刺そうとしたら、相手じゃなくて自分の腹に刺さるくらいなんですからね」
 おおげさだなー。バルダニガは笑っているが、大袈裟ではきっとない。俺から見ては可哀想だとは思うが、佐々木の運動神経は悲惨だ。基礎体力も体幹の柔軟性も一般以上にあるだろうが、体を思い通りに動かすセンスが全くないのだ。イゼフは俺以上に剣術が得意だったのに、どうしてそうなったんだろう。
 佐々木の拒絶が本物だったと察したのか、闇は俺の方に向き直った。
『その立派な剣は飾りじゃないでしょ? 勇者君が、行ってきてよ!』
 俺はゆっくりと立ち上がり、剣を引き抜いた。ランフェスバイナの騎士団長は女王から剣を賜る。銀の刀身に金の装飾が施され極上の天空石が嵌め込まれた剣は、世界に二つとない宝剣だ。俺はシルフィニア様から戴いた剣で、シルフィニア様を殺めるのかもしれない。
 見つめた剣の向こうで、佐々木が振り返る。
「良いんですか? 君の主人なんでしょう?」
 俺は佐々木に視線を向けた。俺の代わりにシルフィニア様を殺めようと奮闘する彼女は、何のために戦っているのだろう。アーゼを守ろうとしたイゼフの後継者として? バルダニガの器として? イゼフの仇討ちをする復讐者として? それとも、帰りたい一心で彼女が禁忌と定めた殺害を決めたのだろうか? どれも少しずつ正解な気がした。
 それでも、その手は綺麗なままだ。俺が汚れを被ってやれることで、綺麗なままでいられる手がそこにある。
「止める。止めるさ」
 物心ついた時から何一つ変わらない、美しく清らかで神の代行者であったシルフィニア様。ランフェスバイナの象徴で人々の心の拠り所であった女性。俺達は彼女に頼りすぎていたんだ。戦争の本質も知らずに、彼女の言葉の通り神に全てを託して安寧に浸っていた罪が、ランフェスバイナの民にはある。
 俺は剣を握りしめた。まっすぐに光を放つ神の代行者を見つめる。
「俺が止めなきゃいけないんだ」
 佐々木が笑みを深くした。俺の傍に下がってくると、眼鏡を掛けながら見上げてくる。
「頼もしい勇者様ですね。創作だったら、最高に盛り上がるところですよ」
 …しかし、なんで、私はこんな地獄の中に放り込まれてるんだろう。そんな独り言が漏れた。確かに、巻き込まれたんだからそう思うよな。俺みたいに望んできた訳じゃない。それでも俺と共に挑んでくれる人の良さを、俺は嬉しく思う。
 佐々木は俺の腕を軽く叩いて、俺と並んでシルフィニア様を見る。すっと腕を広げると、バルダニガの闇が一層濃くなる。
「いってらっしゃい。高槻さん。頑張る君のために、君へ向けられた攻撃は完璧に防ぎ切ってみせます」
 俺は駆ける。剣を提げて、光と闇が戦う戦場の中を駆けていく。貫こうとした光の槍は、黒い壁に阻まれる。包み込もうとした黄金色の光を、黒い獣が引き裂くと真紅のカーペットが現れる。砕けたステンドグラスの反射光から『こないで』と囁く声を、俺は踏みしめた。
 女王がいた。目の前に。青い双眸の奥へ、俺は視線を凝らす。
「私を殺すのですか?」
「俺は、貴女を殺したいとは思っていません」
 賛美歌を歌ったら世界が輝くほどの美声は、消え入りそうなほどの小ささで俺のためだけに語りかける。ここにくる間、誰も彼女を守らなかった。それが心が痛くなるほどに哀れに思えた。世界で一番美しいと言われた王国の中心に位置する美しい礼拝堂に、彼女がたった一人であることが、俺がたどり着いたことで突きつけられる。
 俺は女王に膝をつく。剣を床に置き、孤独な女王に語りかける。
「ですが、認めてもらいたい。アーゼと共に生きるランフェスバイナという新しい世界を。神の代行者としてではなく、一人の女性として生きる貴女を受け入れて欲しいんです」
 俺は手を差し出した。どうか、受け入れて欲しいと願いを込めて。
 シルフィニア様はおずおずと俺に手を伸ばした。陶磁のように滑らかで光沢すらあるような白い指先が、俺の指先に触れた。そう、触れた感触があった。
 光があふれる。光が女王を飲み込み、人影が融けていく。指先の感触が崩れる。
「待っ…!」
 足に力を込め光に飛び込んだ。真っ白い光の中には何もなかった。平たい地面を踏みしめ、伸ばした手は何もつかめない。光が薄れ、全ての色彩が戻ってきた時には、振り返っても見回してもシルフィニア様の存在がなかったかのように何もなかった。ただ、バルダニガとシルフィニア様が争っただろう形跡だけが生々しく広がっている。
 バルダニガがシルフィニア様がいた場所を嗅ぐように鼻先を寄せた。
『ランフェスバイナが拒んだんだ。もう、シルフィニアはこの世界には存在しないよ』
 完璧であることを望んだ神は認めなかった。ランフェスバイナへの信仰心があれば滅びることも、変わることも何一つないだろうに、神は何一つ変わりたくなかったのだ。だから、俺に触れただけで、俺の提案を受け入れただけで、自身の代弁者であるシルフィニアを生かしておかなかったのだろう。
 女王は最後まで神様だったのだ。
 そうしなくては生きていけなかった女王が、来世では少しは自由でいられることを俺は願うしかなかった。