俺は来世を生き始める

 手動のドアを開くと、店員が『いらっしゃいませ!』と元気な声で迎えてくれた。俺は季節限定のハンバーガーとポテトとコーラのセットを頼むと、お席にお持ちしますと手渡された札を持って奥へ進む。その店にはウッドデッキのテラス席があり、そこには真っ黒い大型犬を連れた先客が座っている。
 テラス席へ続くガラス戸を開ける前から、黒い犬が俺を見ていた。嬉しそうに尻尾を振って、遊んで欲しいと強請るようにこちらを見ている。彼こそが前世の世界で魔王と恐れられたバルダニガであると、誰が信じられるだろう。飼い主ですら、それは犬としか思っていないに違いない。
 ノートパソコンを広げて作業している飼い主こと先客は、俺が目の前に座ってようやく顔を上げた。
「こんにちは、高槻さん。何か御用ですか?」
 今日は風が凪いで日差しが暑いくらいだ。それでも佐々木は暖かい珈琲を啜りながら、キーボードを叩いている。食べかけの照り焼きバーガーセットが乗ったトレーを引き寄せ、俺のトレーが置けるスペースを確保してくれた。
『また、ランフェスバイナに行くの?』
 黒犬が嬉しそうに尻尾を振る。早速運ばれてきた俺のご飯をくれるかもしれない希望を手折るように、目の前でハンバーガーにかじりつく。くれないことを悟ったバルダニガは、拗ねたように佐々木の足元に蹲った。
 前世の世界とこの世界を行き来する方法は、俺が知る限りバルダニガに頼んで連れて行ってもらうしかない。バルダニガは意外とたくさん抜け道があると言うが、安定して、行きたい時に行ける方法はこの黒犬に頼むのが確実だ。移動の際に時間も操作できるらしく、前世で数日過ごしても、こちらでは数時間程度しか経っていないという芸当もできる。黒犬も愛しい世界に行くのは楽しみらしく、俺の頼みを断ったことはない。
 しかし、飼い主だけはいい顔をしない。佐々木は視線を画面に向けたまま、俺に話しかけてきた。
「君は若いので、すぐに顔が変わってしまいますよ。戸籍上の年齢と見た目の年齢が噛み合わなくならぬよう、気をつけなさい。すっかり、お父さんの顔で、とてもじゃありませんが高校生には見えません」
「いや、その。子供達が可愛いし、ミアリアークとの生活はあまりにも幸せで…」
 佐々木が鋭い視線で俺を見る。なかなかに見られない怒った佐々木は、冷たい声でボソリと言う。
「…君、本当に近藤さんを幸せにする気があるんですか?」
「もちろん!」
 返事は騎士団仕込みの脊髄反射。しかし、そうは言ったが、ミアリアークの来世である近藤美亜とは最近会っていない。
 ランフェスバイナがようやく国として安定して、ゆっくり出来るようになってきたばかりなのだ。停戦協定を結んでアーゼとの国交の調整なども、騎士団が一手に担うので大忙しだ。少しでも休めれば、前世の手伝いに行かねばならない。
 逆にアーゼは5つの自治領で得意分野を分担しているらしく、手際よくやっている。佐々木は戻ってきてから前世の世界には全く関心を寄せていないが、ある意味、彼らなら大丈夫と信頼しているからでもあるのだろう。
 あまり信じてなさそうな佐々木は、渋々『それなら良いですけど…』と引き下がる。
「君は、まだ前世の続きを生きるつもりなんですね」
「まだまだ、やりたいことがあるから」
 ファルナンとしての人生が突然終わってしまい、色々と心残りがあった。続きができるだなんて思わなかったからこそ、出来ることを今してあげたい。
 佐々木さんは? そう聞けば、佐々木は苦笑いを浮かべた。
「イゼフさんは死んでしまわれた。その結果が全てです」
 パソコンの横に置かれた携帯電話が震える。メッセージを確認し、流れるような指の動きで返信を返す。何度か繰り返すうちに、別の客が来たらしい。店員の気持ちの良い『いらっしゃいませー!』を背中に聞いていると、佐々木の視線がそちらに向けられているのが分かった。
 振り返って息が止まりそうになる。ミアリアークの来世、近藤 美亜がドリンクを片手にこちらに向かってくるのだ。ぴしっと決まった隙のないスーツ姿に、青と白を中心にした花束を抱えている。すっと鼻先を掠めるのはミント系の香水の香りで、呼吸をするだけで胸がいっぱいになる。
「お待たせ、めぐ姉さん」
 俺を尋ねてきた訳ではないのがすごく寂しい。美亜と佐々木を往復する俺の視線に、佐々木は困ったように眉根を下げた。
「近藤さんが昇進するので、うちでささやかなお祝いでもしようって話になりましてね。いつもの宅飲みが、少しだけ豪華になった程度ですけど」
 最初に佐々木の宅飲みに招かれたのは、前世の世界から帰ってきた翌日だった。よく整頓され掃除されている一人暮らしの家に、居酒屋かと思う程度に雑多な種類の酒を置いている。ランフェスバイナでも有名なイゼフの酒好きは死んでも直らなかったのだろう。一人暮らしが長いのか料理も上手で、剣道の大会で予選通過しただけでもお祝いと称して食べさせてくれる。
 佐々木がふわりと表情を柔らかくした。
「昇進したので、気軽に誘えなくなってしまいますからね」
 美亜が切なそうな表情になり、俺の鼓動が高鳴る。こんな切なそうに求めるような表情、ミアリアークでも見たことがない。その表情を浮かべる理由が、俺ではなく佐々木であることに胸が焼けつくほど嫉妬してしまう。
「ねぇ。めぐ姉さんは結婚しないって、言ってたよね」
 佐々木がぶっと汚らしい音を立てて吹いた。どうしてそんな話題になるのだろうと、完全な不意打ちに傾ぐ体をどうにか止める。あまり触れては欲しくない話題らしく、あーとかうーとか呻きながらどうにかこうにか肯定した。大変申し訳ないが、佐々木は男性と付き合っている経歴があるような気がしない。彼女の自信のなさが全てを損ねていると思う。
 美亜は佐々木の肯定を聞いて、覚悟を決めた表情で宣言した。
「昇進して忙しくなって、仕事にやりがいは感じて楽しくはあるの。でも暖かいご飯を誰かと食べて、一緒に笑って話をする機会が失われるのは嫌なの。めぐ姉さん結婚しないんだよね。今度ペット可の大きな部屋買うから、一緒にシェアハウスしようよ」
 はい? 俺と佐々木の声が合唱のように重なった。
「何言ってるんですか、近藤さん。私なんかとシェアハウスしてる場合じゃないでしょ」
「そうですよ、近藤さん! 俺は貴方と今すぐ結婚したいって思ってます! 俺と同棲しましょうよ!」
 ほとんど息ピッタリと言える説得を聞いても、美亜の覚悟は凍り付いたかのように揺らがない。うっすら笑った美貌にふさわしい、白くしなやかな手が佐々木の手を取った。
「結婚するつもりは元々なかったわ。でもパートナーは欲しい。私の価値観をわかってくれて、私の生活の一部を共有してもいいと思えるほどに、一緒にいて心地いい人。めぐ姉さん、貴方しかいないの…!」
 口を開けて呆然としていた一瞬の間を置いて、佐々木はハッと我に返った。手を振り払おうとしたが、ガッチリ両手で掴まれた手は振り解けなかった。
「え! ちょっと、どうして私なんです!? 君には私みたいなおばさんよりも、ずっと素敵な殿方の方が似合ってる!」
「どうしてそんなこと、めぐ姉さんがわかるの? 私の気持ちは汲んでくれてないでしょう?」
「…う! 確かに近藤さんの意見は聞いてない! しかし、それはいかんでしょう!」
 押し問答をする女性二人を、俺は遠くから見ているような気がした。それだけの隔たりがある。
 『ファルナン。来世も君の敵で在りたいものだ』
 イゼフ。お前があの時言った言葉の意味って、こういうことだったのかよ…!
 佐々木の空いていた手が俺に伸びる。俺の肩をがっしり掴んだ佐々木の表情は、びっくりするほどに余裕がなかった。
「高槻青年! 君、もう少し頑張れよ! 今度こそ、幸せにするんだろ!」
「も、もちろん!」
 わっと弾ける声。今を生きる、目の前の人々の目紛しい感情。
 俺は、高槻 守は、ようやく来世を生き始めたと思う。

 The End