とりあえず、帰って良いですか?

 野良犬は恐ろしいと、母から聞いたことがある。母が幼い頃は野良犬が彷徨いていて、それは命を脅かす脅威であったそうだ。今はそんな事はない。野良犬なんて言葉は捨て犬たちが野生化した山奥をテレビ番組の特集で流す程度で、私達の生活の範囲に野良犬という存在はいない。犬を飼うのは登録制で、その登録も狂犬病などの予防接種を受けているのを把握するなどの、巡り巡って人を守るための法律があるためだ。
 だから目の前の黒犬が、母が話してくれた脅威であると理解するのには時間が必要だった。
 遅番勤務の帰り道。人通りが少なくなった夜間帯で、リードもつけていない真っ黒い犬が道を塞ぐようにいる。正直、私は動物を飼う経験がなくて、苦手なくらいだった。仕方なく遠回りになってでも良いから道を変えようと、自転車を回そうとした時だった。
 犬が動く。こちらに向かって駆けてくる。
 体が恐怖に凍りつく。悲鳴などというものは、喉の奥に大きな氷でも嵌まったかのようで、息が通る隙間すらない。こんな時に、なんということだ。
 犬の動きは素早かった。瞬く間に自転車を挟んで犬と私が対峙する。それは、犬の形をしていたが、犬ではなかった。犬というのは目があるし、口には牙だって生えているじゃないか。それが見えない。真っ黒い塊で、わずかな光を吸い込んで光る眼も、白い故に浮かび上がるはずの牙も、滑る舌すらも見えない。背後に街灯が点っているから、光が届かなくて闇に溶け込んでいるという説明は出来なかった。
 このままではいけない。それだけはわかる。その犬はリードはつけていない。首輪はつけていない。それは、誰かの所有物じゃないのを瞬く間に確認する。
 私は自転車の前カゴに積まれたリュックに手をかけた。普段から仕事場で必要になる最低限が常に入っていて、そこそこの重量と厚みがある。それを素早く取り出した時には犬は私に飛びかかっていた。リュックが間に入った為に、犬の牙は届かない。重量感がのしかかる前に、犬の勢いを横に流しながらリュックごと犬をアスファルトに叩きつけた。
 悲鳴くらいは上げるだろうと思ったが、声一つ上がらない。
 なんだこいつは。だが、私を視認して襲い掛かったんだ。目くらいあるはずだ。目を攻撃されれば流石の相手も危険を感じて逃げるはず。熊にだって有効かもしれない。この時の私はまともな判断と常識を持ち合わせてはいなかった。生きる為に危害から逃れる為に、腹を括って最善を選び抜こうと普段ではあり得ないくらい頭を回す。
 拳を握って犬の顔面らしい場所にたたき込んだ。手応えは、ない。リュックがアスファルトに押し付けられた衝撃が、突っかかるように腕から這い上がってくる。
 素早く視線を巡らすと、派手な音を立てて倒れた自転車の上にそれは乗っていた。顔に迫る。いや、顔じゃない。顔の少し下。首に、黒が埋まる。凄まじい激痛に、視界が暗転した。

『いやぁ、大したものだよ。初っ端から俺を殴りつける度胸、なかなか出来る事じゃない』
 声が聞こえる。他にもう一人男性らしい声が聞こえるが、あまり明瞭ではない。激痛はすでになく、目蓋が光を透かしている感覚がある。耳にはメガネを掛けている感覚があった。横たわっているのは、硬く冷たい夜のアスファルトの上ではないらしい。薄らと片目を開けると、視界を黒が覆った。
 思わず目を見開き、体が強張る。腕が防御の為に首元に反射で持ち上がったのを理解した瞬間、その両腕を黒に向かって突き出した。熱くも寒くもない。だが、嚥下が困難な利用者に飲ませる、とろみを強くした飲料みたいな感触が手を押し返す。
 思わず身震いした。喉は相変わらず氷が嵌まっているらしく、声一つ出せやしない。
 黒を誰かが押し除けた。脂っ気のない癖毛を無造作に下ろした、私よりも年上の男性だ。何かを黒に向かって言ったが、何を言っているかはわからない。表情はやや呆れた様子で、先程までの自分に降りかかった危機を思えば平和な程に呑気な空気がある。彼は愛想笑いにしては力のない眠そうな顔で私を見た。何かを言っているが、その言葉は私の知っている言葉ではない。
 これは困った。私は外国語の授業が、今まで習った全ての科目の中で一番嫌いだった。苦手ではない。嫌いなのだ。だから、全く学ぶ気もなく人生で唯一の赤点を弾き出したこともあった。ここは外国…いや、それはあり得ない。倒れた私を介抱してくれたのが、外人さんだった方がしっくりくる。そう思えば男性の周りにある、異国情緒を感じられるテントっぽい空間も納得がいく。
 とりあえず、謝意を伝えなくては。私は体を起こすと、丁寧に男性に頭を下げた。
「ありがとうございます。その、助けて、くれたんですよね?」
 私の言葉に男性は戸惑った顔をした。この反応、多分、相手にも私の言葉が通じていない。
 これは困った。互いに顔を見合わせる合間に、黒が飛び込んだ。
『別にイゼフは助けてないよ。俺が君をここに連れてきたんだもん!』
「しゃ…! 喋った!」
 声が出た! 元々響く声だったのも手伝って、栓が抜けたように迸った声は響き渡った。黒は私の顔を覗き込むように近づいた。すごく怖くて、顔を庇った腕で押し返す。
『あ! 俺の言葉聞こえる? じゃあ、成功だ! 結構、無理やりだったから、きちんと出来てるか不安だったんだよね!』
 声が聞こえているって事は、襲いかかってた時も声掛けてたけど私には聞こえなかったってことか? その無理やりの何かをしたが為に、声が聞こえたということか? 『何をした』は大きな外傷も症状もないから重要じゃない。重要なのは、『何のため』に襲って来たかだ。
「黒い貴方は私に何かをさせたくて襲ってきたようですが、私には何ら関係ないので帰って良いですか?」
『声が刺々しい! 返しが強烈で俺の心が折れそう!』
 黒が仰反るように動いた。私にはシルエットにしか見えないので、多分、『これは参ったー!』ってリアクションなんだろう。あまりお笑いは好きではないのだが、一番近い印象がそれだ。私を殺しにきたようなシリアスはどこに行ったのだろう?
 朗らかな笑い声が聞こえた。顔を向けると、先ほどから部屋にいた男性が黒を慰めるように撫でている。
「あまりバルダニガを虐めないでやってくれ。君がここに来る羽目になったのは、俺が不甲斐ないからでもあるんだ」
 言葉がわかる! しかし、不思議なことに男性が何を言っているかはわからないのだが、男性が言っているだろう意味だけが伝わってくる。男性は黒を抱き抱えるようにして私の前に座る。黒は大型犬のような形になって、尻尾をぶらぶらと私に当ててくる。
「先ずは、自己紹介。俺はイゼフ」
 ん。やっぱり名前が外人っぽい。
「ささきめぐみです」
 イゼフさんは少し固まってから『ササって呼ぶね』と言った。確かに姓名の常識がないなら、私の名前は長い上に呼びにくいに違いない。私が同意するように頷けば、了承の意思は伝わったようでイゼフさんは好意的な笑みを浮かべた。
「この黒いのはバルダニガ。すごく強い魔力の源なんだけれど、扱える人が滅多にいないんだ。数日前まで俺が使っていたんだけどね、油断して使えなくなってしまったんだ」
 しかし、この黒い獣はここにいる。『使える』とはどういう意味なんだろう。ここに存在させるという意味から『使える』と捉えるなら、私が黒い獣を『使っている』とうことだ。しかし道具を使うように意識もしていない為に、『使える』という感覚がわからない。問題は『使えない』ことが、何を意味するかだ。
「使えなかったら、どうなるのですか?」
「困るね。俺達の国が戦争で負けて滅ぼされる」
 なるほど。私自身が困ることは何もなさそうだ。
 イゼフさんが軍隊に所属しているような人には見えないが、バルダニガを使っていた人ならば主力的な存在なのだろう。きっと、偉いんだろうな。気取らなくて、好感が持てる。
 私は黒い獣の頭っぽい方を見遣りながら、口元に手を当てて考えながら喋る。
「バルダニガと呼ばれるそれ、喋って意思の疎通ができるじゃないですか。話の流れから私がここにいる理由が、あなた方の困り事を解決する為だったとしても、私以外の適任が居るのではないかと思うのですが?」
 イゼフさんは目を見開いて、笑いを堪えるように口元に手をやった。
「んんっ! 話が早いな! この話題を今持ち出すのは得策ではないと思ったが、君には全部のカードを見せたほうが良いだろう。バルダニガを使うには条件があってね、俺と同じ魂の持ち主にしか使えないんだよ。前任は俺の前世って奴だったらしい」
 …………。すごく恐ろしいことが聞こえた気がする。
「俺は今生きてるので、この国にはバルダニガを使える人がいないんだ。そうなると、俺が生まれ変わった先の魂を探して来てもらうしかないんだって。それが、君だったという訳なんだよね」
「私の次ではいけなかったのですか?」
「そこは、俺もわからん。バルダニガが探して見つけてきたのが、君だったからなぁ」
 私はしげしげとイゼフさんを見た。まず、性別が違うからか、顔は似ていない。雰囲気は年齢が近いものあって、似ていなくはない。髪質は似てる。性格は不快ではなかったし、言ってることが嘘とは思えない程度に真摯に感じられた。イゼフさんも私をしげしげと見てきていて、思うところは同じなのかもしれない。
 いや、イゼフさんが私の前世であるとかは、認めようが認めまいが良いのだ。
 問題は前世とか来世とか、同一世界ではないことだ。私が先ほどまで抱いていた、ここは職場の近所の外人さんの家だとか、故郷ではない海の向こうとかの異国の地とかいう距離ではない。頑張れば一人で帰れるものではない。店頭のライトノベル小説にあるような、異世界とかそんな世界なのだ。
 私の勤務シフト、がっつり穴が開いて同僚達に多大な迷惑がかかるのが容易に想像できて胃に穴が開きそうだ。
「とりあえず、無礼と自己中心的な勝手を承知で聞きます。私、帰れますか?」
『俺の困ってること解決したら、帰れるよ!』
 静かだったバルダニガが、やけに明るく言った。
『ランフェスバイナってやつが、俺を殺すのを諦めたら解決! ササを帰してあげるよ!』
 無性にバルダニガの首を締めたくなったので、力一杯とろみの感覚がする闇を押し込んだ。バルダニガがぐえぐえ苦しんでいるような反応はするが、演技だとわかる。これを殺すとか、どうやればできるのか、私にはわからなかった。