ぜひ、君にお礼が言いたいな

 バルダニガが連れてきたササは、どうやら俺の来世であるらしい。
 まぁ、俺もいつか死ぬんだろうが、死ぬ前に生まれ変わった自分を見るのは何とも不思議な気分である。歳は近くても異性なので、全く似ていない。ササとは、互いに前世だ来世だと認める必要はないという意見で一致した。
 かなり強引な方法でバルダニガが器にした為か、ササはバルダニガを嫌っている。というか、怯えている。自業自得とはいえバルダニガには相当堪えることらしく、悲しそうに俺の横で丸くなっている時もある。己の器になる魂は、バルダニガのお気に入りだ。何度生まれ変わろうと良好で幸せな記憶と関係を重ねてきた魂に嫌われるのは、本意ではなかったらしい。
 バルダニガの話では、ファルナンはバルダニガを殺す寸前まで追い詰めた勇者の生まれ変わりであるらしい。神のお気に入りの人形が完成しつつある。それを殺すことが俺の目的だった訳で、先日達成した。
 それでもバルダニガはササを連れてきた。ランフェスバイナが本気を出してきているのだろう。
 巻き込まれてしまった気の毒なササは、バルダニガ曰く、嫌っている割には『己の扱いは歴代一』らしい。
「イゼフさん。アーゼ・パセカはとても良い所ですね。緑がとても綺麗です」
 そう横で呟くササを俺は見た。
 膝にアーゼの詳細な地図を載せ、見下ろす瞳は地図を見ているようで見ていない。それでも口元は優しく持ち上がり、慈愛に満ちた口調で俺の故郷を褒める。アーゼ・パセカはアーゼ自治領でもかなり奥まった場所にある、緑豊かな酪農地帯だ。バルダニガの器になってたった数日、そんな奥まで行っているのかと俺は舌を巻いた。
「あぁ、『アーゼの実り』を意味する地だ。広大な酪農地帯、深い森の実り。小川のせせらぎを中心とした、季節ごとに景色が移ろう美しい場所だ」
 ササは穏やかに相槌を打ち、手元の手帳に素早く文字を書き込む。俺には読めぬ文字が、彼女の持っていた手帳に瞬く間に広がっていく。時々書き込まれる絵を見るに、俺の話した内容や見ていることを書き留めているのだろう。
 森を風が揺らして響かせる木の葉の擦れる音。日差しの熱を風が爽やかに拭いとってくれる感覚。部下達がのんびりと寛ぐ姿を時々見る。俺はだらりと足を伸ばして、何も考えずにただ時間を消費している。贅沢だ。こんな時間を過ごすことが、今までの人生にどれだけあっただろう?
「イゼフさんが守っているから、平和なんでしょうね」
 涼しい顔して言ってくれるよ。ササは人々の明るい笑顔が素敵だとか、食堂のご飯が美味しそうだとか、活気にあふれているとか、とにかく色々と褒めてくれる。それを隣で聞いて誇らしくならないわけがない。
「一人が頑張っていれば出来るものではないのは、わかります。でも貴方の後ろが平穏であることは、確かなことです」
 そうだけどよ! そうなんだけど! 恥ずかしいから! なんかもう、胸が熱くなってくるのを持て余しちまうよ!
 ササは視線を上げて俺を見た。
「知れば知るほどに、鮮明で広範囲を見れます。実際に見に行ければ、もっと良いのでしょうけど…」
「ちょっと落ち着いたら、俺達の拠点アーゼ・ダルフに引き返せるだろう。ここよりか見易くなるはずだ」
 ぬっと目の前に濃い闇が現れた。ササの認識のおかげでより獣らしくなったバルダニガは、ブルブルと水を弾き飛ばすように体を振った。そしてそのままササに飛びつく。
『ササ! アーゼをいっぱい巡って、楽しいな! 俺、こんな純粋にアーゼを見て回るの久々なの。ずっと昔の君ら、アーゼの王と視察に回った時以来だよ。ねえねえ! このまま世界中旅しに行こうよ! 俺、久々に世界樹で爪研ぎたい!』
「飛びつかないでください! 私、動物苦手なんですから!」
 びくっと体を固くして、俺の後ろに隠れようと身をよじる。だがバルダニガはじゃれついて、ササの上に伸し掛かった。ササが表現しにくい声を漏らす。
「重い! どうしてこんなに重くなってるんですか…!」
「ササがそう認識してるからだよ。大きくて重そうだなぁって思ってるんだろうね」
「理不尽です!」
 俺はバルダニガを撫でて笑ってしまう。バルダニガはふかふかの毛並みで、おひさまの匂いがする。来たばかりの時は完全に怯えていたが、無邪気なバルダニガを無碍にできなくなっているんだろう。
『次はアーゼの知識、ロハニウ行こう! 昔、王宮だった建物はね、今は大図書館なんだ!』
「図書館! 本は作るくらい大好きです!」
 眼鏡の下の瞳がギラリと輝くと、バルダニガは喜んで飛び出して一瞬にして霧散した。仲がいいのか、悪いのか。
「バルダニガはね、俺達が認識しない限り、闇の中で寝てるんだ。暇で暇で、寂しくて仕方がないらしいよ」
 器は神の窓口。神は器の見る範囲、届く限りにしか干渉できない。バルダニガはランフェスバイナとの戦いで疲弊している関係で、器が存在しない時期はひたすらアーゼ・バルダニガと呼ばれる地で眠っている。だから、こうして愛している己の大地を駆け巡ることが幸せなんだろう。
「俺はバルダニガを友人だと思ってる。だから、君にお礼を言わなきゃね」
「お礼なんて要りませんよ」
 ササは笑った。自信のない控えめな態度が消えて、輝いてすら見えた。
「こんな意味のわからない厄介ごとに巻き込まれて誠に遺憾の極みですが、全力を尽くして応じるつもりです!…あぁ! 本がいっぱい! 尊い! 滅茶苦茶創作意欲が湧いて、衝動が抑えきれません!」
 これから、大変になるだろうと思うと、この束の間の平穏を堪能してもらえることは良いことだ。俺も満喫しとこう。

 日が沈み月が明るく照らしている。ファルナンを殺した時に見上げた月は、だいぶ形を変えてしまった。もう少しで半月ほどになると思うと、バルダニガを失って絶望に叩き落とされ、ササが来て希望を見出された時間はあっという間に過ぎ去っていったようだ。
 俺は篝火に照らされた部下達を見回した。数十名にもなる、アーゼの各領地から派遣された者達だ。兵役を行なっている領地があれば、志願で募るだけの地域もある。ここに来た経緯は一人一人異なっていて、複雑なアーゼ自治領の同盟軍の事情を圧縮したようだった。
 俺は部下達の前に立ち、すっと背筋を伸ばした。俺につられて部下達も姿勢を正し、表情を引き締めた。
「集まってもらって悪いね。楽にしてくれ」
 部下達に笑いかける。竜将軍としてランフェスバイナに恐れられる俺ではあるが、アーゼの民には温和であろうと努めている。もともと、俺は戦いが好きではないのだ。バルダニガに求められたから、俺は幼少から将軍になるために教育を施されただけ。戦争を俺の代で終わらせる。その決意だけで剣を取り戦ってきた。
「皆が察している通り、俺はランフェスバイナ騎士団長との戦闘の際に、バルダニガの器としての力を失ってしまった。もう、今までのような攻め方で、ランフェスバイナに進攻することは出来ないだろう。アーゼの勝利が難しくなる。申し訳ない」
 ファルナンの心臓に剣を突き立てた感触が、反芻されるように呼び起こされる。口から血を溢れさせて苦しむ若者に、俺は心の底から申し訳なく思ったものだ。俺は君を憎んでなどいない。バルダニガは言った。君を殺さねば、アーゼが滅ぶ。その通りだと思った。何度も君に殺されると思う程度に、君は強かったから。
 すまない。君は何も悪くなかったのにな。
 ふと、美しい青い瞳が俺を見た。ランフェスバイナの民に多い、青空を彷彿とさせる真っ青な瞳に俺が写り込んだ。整った顔立ちが、不敵な笑みを浮かべた。戦う回数を重ねるうちに、俺に向けるようになったその笑みが好きだった。俺を殺してくれるなら、君が良いと良く思ったものだ。
 光があふれる。ファルナンが光っている。俺の肩を掴んで、俺の瞳を覗き込む。ごぼりと口元から溢れた血が、数滴口の中に入って鉄の味が広がった。光が貫いて、視界が白く灼ける。
 なんだ。なにを。そう思って身を固くしたが、光は消え、ファルナンはゆっくりと力尽きた。
 何が起こったんだろう。なぁ、バルダニガ。そう首を巡らせて、背後にいたはずの黒い竜がいないことに気がついた。いつも傍にいるはずの闇は、俺がどんなに思い浮かべても現れない。それで、ようやく気がついたのだ。先ほどの光が、俺からバルダニガの器としての力を奪ったということに。
 目の前が真っ暗になった。ランフェスバイナを攻め落とす好機が、こんな形で失われてしまうなんて想像すらしていなかった。俺は珍しく取り乱しただろう。ファルナンを殺したこと、長年傍にいたバルダニガを失ったこと、このために生きてきたと言って過言じゃないアーゼの勝利が遠のくことに、俺は激しく動揺していた。数日間の記憶は曖昧だ。
「その代わりなのだろう、バルダニガが俺の後任を連れてきた。皆、顔を見たと思うが、数日前から調理や雑務をしてくれてる女性…ササだ。新しいバルダニガの器として、俺達と共に戦ってもらう」
 そんなある日、目の前で闇が爆ぜた。闇の中で倒れていた女性を見た俺は、驚きに目を丸くした。生まれ変わった、来世の姿。信じられなかった。
 ササは優秀だった。バルダニガの新しい器としてだけではなく、俺達を支える能力に秀でている。
 特に助けられているのが、料理上手でご飯がとにかく美味しいことだ。調理場で一通りの調味料や味付けの仕方を教えたら、真綿が水を吸うように覚えたと部下が驚いていた。翌日の朝食から俺を含めた男共は、すっかりササに胃袋を掴まれてしまった。すごく美味しいご飯が、お腹いっぱい食べられる幸せ。俺達の生活がものすごく潤った。
 繕い物や、怪我人や病人の看病、掃除に洗濯。俺達が至らないところが、瞬く間に整っていく様は魔法のようた。皆が働き者のササを受け入れるのに、時間は必要なかった。ササは優しくて温厚で、言葉が通じないことはバルダニガが手助けすることで障害にもならなかったしな。
「正直、女性を最前線に立たせるのは本意ではないのだが、アーゼの民である君達は、俺とササがどんな関係かも察してくれているだろう。ササのことは自治領に報告はしていない。今は、ここだけの話にしてくれ」
 ササの立場は複雑だ。アーゼでは象徴とされるバルダニガの器が交代したことは、誰にも気がつかれてはいない。いや、頭上を鷹が舞っていた。あれはナシュームの特使だ。流石は長老殿、と言ったところだろう。
 ファルナンは殺したが、騎士団には副団長である『氷の魔女』を筆頭に手練れが多い。ファルナンがいた時と同じ程度に復帰するまでに時間は掛かるだろうが、バルダニガを失ったアーゼの攻撃を凌ぐ程度には体勢を立て直す余力がある。時間は待ってはくれない。自治領への報告など後でいい。
 さらにササの力が想像を超えて強いことも、報告を後回しにする要因になった。
「ここ数日間、彼女の力の見極めを行なっていたが、問題ないと判断した。バルダニガを扱う力量は、俺を凌駕しているだろう。防衛に秀でた使い手になると予想されるし、偵察の範囲も広い。俺達が最前線に立つことに変わりはないが、戦況を有利に展開することが可能になると考えられる」
 バルダニガの力を語るなら、まずは彼の正体から説明する必要がある。
 この世界を作り上げた神の1柱。この世界の生命たる『獣』の神、それがバルダニガの正体だ。
 バルダニガの力の基本は『バルダニガを存在させる事』から始まる。器が認識し、そこに存在させる。そうして初めてバルダニガは力を発揮するのだ。力の強弱は器の集中力に依存しているが、攻撃などの力の使用はバルダニガがやってくれる。ササがどんなに非力であろうと関係はない。バルダニガを存在させた時点で、ある程度の破壊力は約束されたも同然だ。
 ササはすでにアーゼ全域にバルダニガを存在させ、いつでも力が行使できる状況になったのだ。まだ山岳地帯にある最奥の自治領『アーゼ・ナシューム』には行けていないが、行けるのも時間の問題だろう。防衛を考えれば、これほど頼もしい存在はない。敵には『氷の魔女』と呼ばれる強力な魔法を使う騎士がいるから楽観視はできないが、それでも俺がバルダニガを使えなくなった穴埋めとしては十分すぎる。
 あまり攻撃的な性格ではないササは、防御特化型の使い手になるだろう。元々、攻撃に特化した俺でランフェスバイナを攻略する決定打にはならなかったのだ。防御に秀でたバルダニガを軸にした戦略変更は、新しい活路を見出せるだろう。
 さらに優秀なのが情報の収集と偵察だ。
 アーゼ全域を網羅するほどの偵察力は、俺が得ることができなかったものだった。敵の動きを事前に察知し、仲間に知らせれば戦況を有利に進め死者を抑えることができるだろう。これにササの防御が加われば、無傷で制圧とて夢ではない。
「ランフェスバイナの騎士団長が死んだ今、相手が弱っている好機を逃すわけにはいかない。ササの力が実戦に耐えうるまで数日間の間を置き、了承を得て戦線に加わることが確定次第、進攻を再開する。ランフェスバイナと長く続いた戦争は、俺達アーゼの勝利で終えるぞ…!」
 俺の言葉に部下達が拳を振り上げ応じた。誰もが戦争の終わりを望み、アーゼの勝利を願っている。アーゼ王国が滅んだとされる伝説の時代から続いた戦争の終わりが、目前にある。それに興奮するなっていうのが無理な話だ。
 とはいえ、問題はある。
 力の使い方を学べばあっという間に習得するササは、あと数日で実戦に参加できる程度になるだろう。ササの実力については、何も心配していない。俺よりも要領良く、彼女が持つ凄まじい集中力はバルダニガを強くするだろう。
 問題は、ササの戦争に対して消極的な姿勢だった。争い事など知らぬだろう彼女は、人を傷つけることに拒絶に近い感情を持っている。バルダニガは器の意思を尊重する。ササが攻撃したくないと願うなら、バルダニガもササの命が脅かされぬ限り攻撃しない。戦争を手伝えと言って『はい、手伝いましょう』とは答えてくれないだろう。
 逃げ出すことも考えているかもしれないが、バルダニガの器になった時点でバルダニガから逃れることは不可能だ。彼女が元の世界に帰る方法も、そう簡単には見つからないだろう。諦めて俺達に協力せざる得ないと、ササに分らせてやらねばならないのだ。
 ササ。血に汚れたことのない、綺麗な白い手を思い出す。その手が施すのが、争いとは掛け離れたものであるのを知っている。それでも、俺はその手に血をなすりつけ、戦場を歩く俺の隣に立たせなくてはならない。
 この戦いを終えるために、君の力が必要だ。君が望んでいなくとも、俺は君を使ってランフェスバイナを攻め落とす。君も最後は、きっとわかってくれるだろう。君は、俺の来世。俺と同じ魂を持った人なのだから…。
 ササ。君に礼を言わなきゃいけない。君に謝らなければならない。
 俺は暗い笑みを浮かべる。竜将軍としてランフェスバイナを恐れさせる笑みは、感謝を捧げる女性がいる方向へ向けられる。
 すまないな。君の前世が、こんな男で。