どうして、お鉢が回ってくるか?

 バルダニガを介して見える範囲を増やす事に、丸一日を費やした。
 アーゼ自治領には5つの地域があり、それぞれが特色に満ちていた。その全てを満遍なく見て回るつもりだったけれど、『アーゼの魔王』の意味である地は、バルダニガはいつも寝てる所だから行きたくないと足を踏み入れられなかった。バルダニガを介して世界を見る感覚は、オープンワールドのゲームに似ている。終わりどころを見つけられないくらい、楽しかった。
 そうしてアーゼを見てきた結果、アーゼ自治領とランフェスバイナ王国との戦争に自分が深く関わってしまっているのに気が付く。アーゼ自治領が出資する同盟軍の主力はバルダニガの使い手なのだ。今、その使い手はイゼフさんではなく私だ。
 ざっと血の気が引いた。このままでは、ランフェスバイナを攻め落とすのに協力を強いられる。戦争の手伝いなど、絶対にしたくない。
 未だにバルダニガの力の使い方は理解していないが、必要な能力の方向性としては正解らしい。アーゼ自治領を楽しさのあまりコンプリートしたが、それが却って私の実力の高さを証明してしまったようだ。
 逃げることも考えたが、そもそも私を連れてきてたのがバルダニガだし闇は常に傍にいる。元の世界に帰ろうにも、バルダニガの協力無しには帰れない方法しか知らない。協力者を作ろうとも考えたが、相手も私も危険すぎる。イゼフさんもバルダニガも、おそらく私を逃すつもりはないだろう。
 逃げられない。ならば、イゼフさんに説得されて、協力しろと? 冗談じゃない。人殺しなんて、したくないんだ。
 攻めるしかない。考えて、活路を見出すんだ。目的を設定して、その目的のための手段を一つでも多く見つけ出す。
 目的は人が死なずに争いが終わること。戦争回避。ランフェスバイナの無血開城。休戦協定。様々な可能性を、今までに吸収した膨大な創作物や歴史文献を逆さに振って思い起こす。そして思い至るのは、やはり手元の情報の少なさだった。
 特に不足しているのが、敵対しているランフェスバイナという地だ。
 今、滞在している場所は自治領とランフェスバイナの間に広がる大平原を見渡せる森なので、自治領とそんなに変わらぬ距離にその地はある。だが、そこにバルダニガを向けるのが非常に難しい。
 手元に詳細な地図を持って地形を把握し、宿場町の名前やそこにある店の名前など可能な限りを知っても、長時間バルダニガを走らせることも留まらせることもできない。深海に向かって素潜りをしているようで、苦しくなって集中が途切れてバルダニガが目の前に戻ってきてしまうのだ。
 ふと、横に誰かが立った気配がして、意識を戻す。遠くまで見通せるようにと草原の真ん中に立っていた私は、空と草原と遠くの森が見えると思っていた。だが、イゼフさんが私の顔を覗き込んでいて、驚いて体が強張る。イゼフさんは気がついた私に、へらりと笑いながらお茶を渡してきた。暖かい香りのするお茶は、故郷のお茶によく似ている。良い茶葉なのだろう。濃く出てるのは苦手なので、すごく薄めて飲ませてもらってる。
「あまり無理しないほうがいいよ。俺でさえバルダニガをランフェスバイナに飛ばす事はできなかったからね」
 野営地の雑務全般を把握した今、手早く熟せるようになって空いた時間を情報収集に当てている。時間が多く残されないと悟った今では、寝る間も惜しむくらいだ。体調を心配されてもおかしくはない。
「一刻も早く帰って、迷惑かけた同僚に謝罪したいんです」
 集中が途絶えて帰ってきたバルダニガが、私の足元にじゃれついた。
『ササ、帰るつもりなの? 帰らないで、俺と遊ぼうよ!』
 嫌です。そう短く返して、バルダニガをランフェスバイナに向けて走らせる。霧散した黒がいた場所を見つめていた私に、隣に立っていたイゼフさんは話しかけてくる。
「ま、俺としても急いでくれたほうが、都合が良い。相手は今、凄く弱ってるだろうからね」
 私がイゼフさんを見上げると、彼は苦々しい顔つきで語り出した。
「ランフェスバイナには騎士団があってね。その騎士団長を俺が先日殺したんだ。剣を、心臓に突き立ててね。ファルナン…その団長君が死際に放ったランフェスバイナの力を、その時まともに受けてしまったんだ。そして、俺はバルダニガの器としての力を失った。俺がバルダニガを使えない事を、ファルナン不在の騎士団は知り得ないから、畳み掛けに行きたいんだよね」
 ふと、イゼフさんが不思議そうな顔で私を見る。
「どうかした? 茶葉でも食っちゃったかい?」
「いえ、どこかで聞いたことのある話だと思ったもので…」
 顎に手をやり、引っかかったイゼフさんの話を反芻する。どこかで聞いたことのある話なのだ。話の流れに覚えがある。だが、消費した膨大なゲームや漫画やアニメや小説の全ての内容を、私が記憶している訳ではない。きっと似たような設定の作品があったのだろう。
「ササがこれだけバルダニガを扱えるんだ。このまま進軍したら、ランフェスバイナを攻め落とせるだろう」
 すっと視線を上げる。イゼフさんも私を見下ろしていた。互いに探るような視線がかち合う。
「…私を戦争に駆り出すつもりなんですね?」
 私の言葉にイゼフさんは笑みを浮かべた。見慣れた温和で人当たりのいい笑顔ではない。こちらを利用することを隠さない、暗くこちらの不快感を存分に刺激してくれる薄ら笑いが顔に張り付いている。冴えないオジサンな風情を漂わせていたが、なかなかに狂気を含んだ顔をするのだな。これが、ランフェスバイナを恐れさせる竜将軍の顔なのかもしれない。
 私も人のことは言えないだろう。顔の筋肉が全く使われていなくて、頬が重く垂れ下がっている気がする。表情を失っただろう顔の感覚は消え、睨み付ける目元の感覚だけが鋭敏になってイゼフさんを見上げている。
 イゼフさんは面白いものを見るように笑った。
「ふふ。そんな怖い顔もするんだな。当然だ。引き摺ってでも協力させるつもりだ」
「私は人の生活を支える仕事を生業としています。人殺しに加担など、絶対にしたくない」
 彼に明確な拒絶を突きつけたのは初めてだろう。しかしイゼフさんは私の言葉に、薄ら笑いを引っ込めた。自嘲気味とも表現できる苦みを混ぜた感情が、なぜか私の心にも苦みとなって流れ込む。
「ササ。君がバルダニガをどんなにうまく扱えても、ランフェスバイナの民には力は届きにくい。かの国の民は全員、ランフェスバイナの神の加護を受けている。バルダニガが普通なら即死するような攻撃を放っても、相手に重傷を負わすのでせいぜいだ。動きを封じ込めようと押さえつけても、動きを鈍らせる程度だろう。だから、物理攻撃でねじ伏せるんだよね」
 イゼフさんは愛用の長剣を撫でた。敵国の騎士団長だけでなく、多くの敵を屠ってきただろう剣だ。
 彼も、戦いたくないのだろう。ふと、そう思う。こんな明確な拒絶に反発せず諭すように語る言葉は、滑らかで彼の真意に思えた。この冴えない男性が背負わされたアーゼの命運が重すぎて、逃れられないことを悲しく感じた。そう悲しい。自分のことのように胸を締め付けられ、叫びたくなるほどのもどかしさを感じるのだ。
「君は相手を傷つけたくない、そんな意思が強いようだ。おそらく、防御に特化した使い手になるだろう。俺達をバルダニガの力で守ってさえくれれば、俺達が全て片付ける。巻き込んでしまって本当にすまないと思ってるからこそ、これ以上の迷惑を君にかけるつもりはない」
 真剣で真摯な眼差しに、私は息を呑んだ。
 人を傷つけたくないのは彼も同じだろうに、どうしてそこまでするのかわからない。きっと、私が知らないだけなのだ。彼は私の問いに全て答えてくれたが、巧妙に隠されて疑問すら抱かせなかったことがある。それに踏み込んで聞く事は、おそらく、できないのだろう。互いの、ために。
「…すみません」
 私がどんな顔をしていたかは分からないが、イゼフさんはふっと力を抜いて笑った。ぽんぽんと肩を叩く。
「君は『客人』なんだ。気に病む事はない。…ね?」
 頷いてしまう。それならば、良いだろうと許容してしまう自分が居た。拒絶しろ。私が人を殺したくない決意を、こんなに簡単に手放してはいけないと心ががなり立てる。だが、イゼフさんが私を慮った気持ちを拒否できない。彼は私の心を良く分かっている。恐ろしいほどに自分のことを見抜いていた。
 頷こうとした時、私達の間にバルダニガが突如現れた。慌てた様子なのか、毛が膨らんでいる。
『ササ! 俺の眼で見て! ファルナンって名前のやつ。ランフェスバイナのお気に入りの人形がいるんだよ!』
 ファルナン? イゼフさんが殺したって、言ってなかったっけ?
 意識をバルダニガに向け、視界は木造の飲食店に変わっていく。多くの旅人で混雑する店内は、街道沿いの宿場町ではよくある光景だ。旅人達が大荷物を足元に置いて、食事をしたり杯を交わしている。バルダニガが見ているのは、店の奥まった一角の7名ほどの集まりだった。
 ごく普通の旅人と普通なら見過ごしてしまうが、彼らが外套の影に忍ばせている剣は立派なものだ。旅人が持ち得るものではない、銀と金の煌びやかな飾り。それを7人全員が持っている。偵察にしては、多すぎる人数だろう。
 喧騒に飲まれそうになっているが、どうにか話し声も拾えそうだ。
「竜将軍は驚くだろうな。まさか、殺したと思ったファルナンが戻ってきたなんてな」
「奇襲は間違いなく成功するぞ。油断した連中が慌てふためく姿が、目に浮かぶよ」
 殺したと思った人が戻ってきた? ファルナンという敵軍の団長を殺めて、イゼフさんは騎士団が大きく弱体化していると思っている。その油断を突く、騎士団の主戦力による奇襲。成功すれば大きな被害が出る。
 戻って、イゼフさんに伝えなくては。バルダニガを下がらせようとした時だった。
 男性達の中に一人、女性がいた。誰もが振り向くほどの美貌だったが、私が驚いたのは美人だったからじゃない。あまりの驚きに力の維持する加減が吹き飛んだ。
『ササ! どうしたの! どっか、痛くした?』
 あまりに急な切断でバルダニガが驚いたのだろう。目の前に戻ってきて心配そうに私に飛びかかる。イゼフさんも私が何を見てきたのか知ろうと、じっと言葉を待っている。そんな二人に大丈夫と答えながら、動揺を鎮めていた。
 女性が似ていたのだ。友人の近藤 美亜に。

 奇襲の情報を察知できたのは幸運だった。奇襲部隊の動向は私とバルダニガで把握し、イゼフさんは迎え撃つ準備に忙しなく動き出す。敵を油断させ被害を最小に抑える為、私がバルダニガを使って幻を作る提案も了承された。時刻的には夜になるので、焚き火の光でイゼフさん達を模した影は幻には見えない。バルダニガもノリノリで影達に乾杯させたり、肩を組んで踊らせたりしている。
『面白い! 面白いね! こんな力の使い方させられたことない! ササは本当に面白いな!』
「普通、魔王と呼ばれる存在に演劇みたいな真似事させる発想はないぞ」
 影達の間を跳ね回るバルダニガを、遠巻きにイゼフさん達が見ている。イゼフさんは面白くて仕方がないと言いたげに、にやにやと笑って言う。
「でも、これなら確実に勘違いさせた連中の背後を、安全に取れるな。そろそろ来るらしいが、維持はできそうか?」
「大丈夫です。目の前なので維持が楽です」
 同じものを見て、同じ匂いを嗅いで、同じ空気を吸う。この野営地周辺もくまなく歩いて、実際に確かめてきた。バルダニガを居させる場所の情報が鮮明で多ければ多いほど、黒い獣の力は長時間、強力に展開できるのだというのはわかっている。実際に全力はまだ出した事はないが、バルダニガ自身が『危ないからやめときな』って言うのでよっぽどなのだろう。
 私の返事に頷いたイゼフさんは、部下達に合図を送る。兵士達は各々にバラバラと森の闇の中に溶けていった。ある者は木々の上に潜み、ある者は茂みの中に隠れ、ある者は岩陰の背後に回った。兵士達の一人一人に、バルダニガの一部を付き添わせ襲撃者の位置を知らせる。可愛い黒い小鳥の形なら、そこまで意識を回す必要もない。
 近づいてきた襲撃者が取り囲むように散っていく。イゼフさんがくれた真っ白いフード付きの外套は私には大きすぎて、襲撃者に見えやしないか冷や冷やする。イゼフさんが庇うように寄り添ってくれるのが心強かった。
 襲撃者が動きを止めた。本当に近く。歩いて10歩くらいの位置に、襲撃者のうち2人がいた。彼らは焚き火を囲む影達を完璧に私達と勘違いしているようで、闇の中に潜んでいる私達に気がつく様子はない。そんな中で女性が本を開いた。近藤さんにそっくりな横顔が淡い光を放つ本に照らされ、一瞬で閃光に溶けてしまうと空気が一変した。
 気温が急激に下がる。甲高い音が空を貫いた。
 焚き火を囲んでいた影達が、尽く鋭い氷の刃に貫かれていた。あまりの恐ろしさに息が詰まって尻餅をついてしまった私を、イゼフさんが後ろから支えてくれた。大丈夫。誰も死んではいない。しかし、襲撃者を察知できていなかったら、私はこれを防ぐことが出来ただろうか。あまりの脅威に目を逸らすことが出来ない。
「やったか?」
「最大出力です。全員死んだと見て良いでしょう」
 殺すつもりだったのだ。敵同士とはいえ、戦争を知らない私には恐ろしいとしか感じられない。
 襲撃者達が警戒した様子で潜んでいた森から出てくる。バルダニガ越しに見た7名だ。全員が神々しいと思う銀と金の縁取りのフルアーマーを着込んでいて、一人だけ真っ青なマントをつけている。
 イゼフさんが立ち上がり、手を上げた。矢が襲撃者の背後を襲い、焚き火の下へ追い立てる。襲撃者達は突然のことに驚き、逃げるように光の方へ追い立てられる。そんな彼らに挨拶でもするかのように、イゼフさんが森の闇から歩み出た。
「やぁ、団長くん。きっちり殺したと思ったんだがねぇ」
 青いマントをした騎士が、イゼフさんに向き合う。兜をしていてよく顔は見えないが、若い男性のようだ。
「どうして奇襲が成功しなかったか、疑問かい? でも、失敗じゃないよ。ほら、君達が殺したがってる相手が、ここにいるじゃないか! さぁ、殺しにきたんだろう? 向かっておいでよ?」
 挑発? あまり得策じゃない。私は彼の後を追って茂みを出た。脇に触れて、彼の顔を見上げる。
 俺達が全て片付ける。これ以上の迷惑を君にかけるつもりはない。そう断言したイゼフさんが、彼らをここで仕留めるつもりなのは分かった。殺すのだ。それも恐ろしかったが、彼らが私に期待している防御の面で、私は自信を失っていた。あの女性の力はあまりにも強力で、一日二日で身につけた私の力では太刀打ちできない気がする。窮鼠猫を噛むと言うし、大きく出るのには不安要素が多すぎる。
 皆を守れない。だから下がって欲しいと思う。
「あの女性の攻撃を防ぐ自信がないです。あまり、挑発するべきじゃない…」
「まぁ、戦いだからね。君は無理しなくて良いよ。君のおかげで優位に立てたんだ、もう十分だよ」
 イゼフさんは私の不安を理解してか、安心させる為に微笑んだ。
 焚き火の炎が消えた。
 空気が爆ぜる。冷気が膨らんで、突風のように突き抜けていく予感がする。視れば、開かれた本の光に照らされた、友人と瓜二つの美貌に嵌まった血走った眼と目が合う。力を無理に出しているのか鼻血が伝い、それを指で拭って本に押し当てる。魔力の媒介にして強い力を使うのだろうと、決死を思わせる表情から分かった。
「いけ! ミアリアーク!」
 肌が引きつる。肌を割いて血が吹き出る錯覚が、体を硬らせた。死への本能的な恐怖が、理解よりも行動の伝達よりも早く物事を動かした。バルダニガが膨れ上がる。夜の帳が落ちる、幕が切って落とされる、そんな表現が妥当なほどに大きく膨れ上がった闇がこの場の全てを飲み込んだ。
 飲み込んだ。バルダニガが、女性が放とうとした魔力ごと冷気を飲み込んだ。爆ぜては危ない。意識を向けて押し潰し圧縮し小さい美しい宝石になった冷気を、バルダニガはぷっと足元に吐き出した。闇はまだ留まっている。何も見えないが、どこに誰がいて、どのように動こうとし、どのような考えをしているかまで分かる。
 宝石を拾い上げた私は、怒っていた。その中に圧縮された暴力を、イゼフさん達に振るおうとしたのが我慢できなかった。
 手を向ける。バルダニガも私が出そうとした本気を止めたりはしない。凄まじい集中が、満ちている闇の全てを把握していく。闇が私に置き換わる。私の敵意が闇に溶け出し、バルダニガが敵に牙を立てようと私の合図を待っている。
 その中で、光が灯った。
「ランフェスバイナの神よ! 俺に、皆を守る力を…!」
 青いマントの騎士が、光る剣を提げて向かってくる。あまりに集中していた私は、びくりと体を硬らせることしかできない。斬られてしまう。目をきつく閉じて、痛みに備える。
 イゼフさんが動いて私の前に飛び出した。長剣が騎士の剣を受け止め、火花が走る。
「ササ! 吹き飛ばせ!」
 吹き飛ばす。吹き飛ばす…!
 具体的な行動を示す言葉が、集中の方向性を示した。闇が圧縮され、イゼフさんと騎士の間で爆ぜた。
 騎士達が吹き飛ばされる。氷を砕いて、森を壊して、敵をなぎ払い、闇は津波のように暴力的に目の前を蹂躙した。風のような音はなく、ただ破壊の音だけが響いて壊れていく様に私は思わずへたり込んだ。フルアーマーを着込んでいるとはいえ、騎士達が無事とは思えぬ惨状だった。ちょっと、吹き飛べば良いと思ったのに。
 イゼフさんの拍手が耳を打つ。
「すごいな。初めてでこれって、完璧に使い熟せたらランフェスバイナを滅ぼせるぞ」
 そんな評価はいらないです。