もし、戦争の終わりが見えるなら

 ファルナンが生きていた。そんな報告をササとバルダニガから聞いてあり得ないと否定していたが、実際に相対して確信した。確かにファルナンが生きていた。心臓を剣で突き刺し、呼吸も止まって冷たくなって、俺の目の前で死んでいたのに、だ。
 戦争の士気を高めるのに打って付けの、英雄の国葬が開かれたとは聞いていない。まだ死んで日にちが経っていないし、俺の追撃も予想して出来なかったと思っていた。影武者の可能性があったら、俺はファルナンを殺したとは言わなかったろう。
 もし、生き返らせる方法があるなら。いや、そうなったらもう、生き物ではないだろう。
 生きているとして、どうすれば可能かという答えは目の前にあった。俺の来世であるササ。彼女のように連れて来てファルナンが生きているように振舞うなら可能だ。しかし、そんな事が出来るのだろうか? ササは前世の記憶を持っていない。部下に聞いたことはないが、俺達は互いに似てないと思っている。
 しかし、昨日会ったファルナンは、立ち振る舞いも声の感じも俺の知る団長君そのものだ。
 ぐるぐるとあまり意味のない疑問が回っている。ファルナンが戻ってきたのだ。それが全部だ。俺はそう自分に言い聞かせる。
「親父」
「仕事中は将軍って呼べって、言ってるじゃないか」
 振り返ると息子のトーレカがにやにやと、悪いことでも考えていそうな笑みで立っている。締まりのない息子だが、冴えない中年よりかはずっとマシだ。それなりに機転の利く子で、外面が良いからか部下達から好評価を貰っている。俺はちょっと納得いかないけど。
「捕虜達を牢屋に入れてきたんだけど、ちょっと問題が起きてる」
「氷の魔女か」
 トーレカの返事を聞くまでもなかった。
 アーゼは基本的に捕虜は殺さない決まりになっている。拷問はしないし、不当なほどきつい労働は与えない。しかし、今回捕まえた相手が大物過ぎた。氷の魔女に殺された仲間は多い。ランフェスバイナの騎士で最も憎まれた存在だろう。彼女を殺せと声が上がるのは、捕らえた時から分かっていた。トーレカはヘラヘラと笑っている。
「氷の魔女が暴行され凌辱の限りを尽されて、死にそうって話にならないの、親父が一番分かってんじゃん」
 本当に生意気な息子だ。だから気持ちよく頭を叩けるってもんだ。
 とりあえず机の上の書類だけ片付けると、俺はトーレカを伴って牢屋へ向かう。
 『アーゼの壁』であるアーゼ・ダルフの牢屋は特別製で、鉄格子はどんな力自慢でも壊せず、賢者でさえ無力化するとされる魔法陣が施されている。脱走者対策は万全で、協力者が侵入したって通さない。ある意味、氷の魔女にとってアーゼで一番安全な場所とも言えるだろう。いくつもの扉をくぐり、地下へ地下へと進んでいくと、戦場さながらの怒号が響き渡ってトーレカとの雑談もできなくなる。
 清々しいほどの馬鹿共が、武器やハンマーや魔法を駆使して牢屋を破ろうと躍起になってる。その牢屋は、お前らが束になっても壊れないぞ。
 俺に気がついた奴が動きを止めると、どうして隣のやつは動きを止めたんだろうって感じに波紋のように静寂が広がる。そうして牢屋の前が完全に静かになったので、俺は集まった馬鹿共を見回した。
「…気が済んだか?」
 誰もが喉にパンでも詰まらせたような反応をしてくれる。『俺の親友を殺した女に制裁を与えたいだ!』『凍傷で足をなくした仲間と同じ目に合わせたい!』的な、口の押し込んだ俺の威圧も噛み砕いて言い返す骨のある奴はいなさそうだ。心臓の弱そうな奴は『失礼しました』と一目散に逃げていく。無言の圧の中で動けないのか動かないのか、そんな連中に俺は笑いかけた。
「俺の仕事は皆の声を聞くことだから、言いたいことがあるなら言って良いよ」
 いつも監視が座ってる簡素な椅子に腰を下ろす。
 皆、なんでそんな恐ろしそうな顔で俺を見るんだろう。俺はもうバルダニガを扱うことが出来ない、ちょっと剣が使えて、ちょっと権力があって、ちょっとアーゼの同盟軍の内情を知っているだけの中年男だろ? 各々に恐々と口にすれば栓が外れたように、不満や怒りが吹き出して溢れてくる。その内容の酷さたるや、地下であるから空気が悪くて気分が悪くなってくる。
 それも俺の仕事だ。顔つきが少し真面になってきた頃合いを見計らって、俺はようやく相槌以外の言葉を話す。
「うんうん。感情の赴くままに復讐できれば、それはスカッとするだろうな。氷の魔女が戦場で死んだって報告できるなら、可能だったかもね。ちょーっと、遅かったなぁ」
 アーゼは一つの王国から複数の自治領に分かれた歴史と獣の神への信仰から、協力するという理念の中で育つ。その際たるものが、このランフェスバイナの侵攻に抵抗するための同盟軍の存在だ。無法地帯になったら、あっという間に協力関係が瓦解する。
「将軍だってこいつに知り合いを、たくさん殺されてるんじゃないんですか!」
「俺は氷の魔女の恋人を殺した張本人だから、彼女の方が俺を殺したいだろうさ」
 憎しみに火炎瓶を放り込もうとした言葉と、へらりと交わす。氷の魔女がちらりと、こちらを見た。その時、彼女の影になっていた手元に、黒い小鳥が留まっているのが見えた。長年、バルダニガの器をやってきたから分かる。あれは、バルダニガの一部だ。なぜ、そこにいる?
 俺がガタリと腰を浮かすと、小鳥は慌てたように霧散する。その反応に嫌な予感が込み上げてくる。
 ササは黙って何かを勝手にするということはしない。何処かへ行く時も誰かに必ず声をかけるし、これからの予定もあらかじめ決まっていれば話してくれる。敵対している兵士に接触するなんて、俺に断りなくするとは到底思えなかった。
「今消えた鳥と、何を話した?」
 鉄格子越しでも、氷の魔女はその二つ名に相応しい美貌は損ねない。先日のササの力のせいで、額に大きなアザが痛々しく出来ているくらいだ。伏せられた睫毛が上がり、鋭く尖った氷を彷彿させる瞳が俺を睨む。
「子供の親は誰か…答えただけよ」
 なんだ、それ。
 いや、それは必要な問いだったのだろう。ササにとって。なぜ、それが必要なのかが見えてこない。バルダニガというアーゼにとって必要不可欠な力を使う彼女が、自分の把握している範囲外に行こうとしているのではないかと不安にさせる。今の圧倒的な有利を実現している存在を、手元に置いておかねばならない。あの暴力の跡を思い返して、腹の底を冷やす。
「トーレカ。ササはどこにいる?」
「え? わかんないなぁ。ダルフの中は自由に移動して良いって言ったのは、親父だろう?」
 後を頼むと言っただろうか? もう、引き返して言う気にはなれなかった。
 俺の来世だから。俺の後を継いだ、バルダニガの器だから。隣に立って、同じものを見て、同じ目標のために進むものだと思っていた。そんなことはない。相手だって俺より少し年下の賢そうな人だから、考えの一つあるだろう。それでも、今、アーゼを捨てない欲しい。もう少し、後もう少しだけで良いから、居てくれないと困る。

 谷底から細く空が見える屋上。そこに白い外套が翻る。白い外套の内側は真っ黒で、名前を呼ぼうとした声を思わず飲み込んだ。バルダニガの器としての最終的な到達点である、融合の状態だ。バルダニガの力を最大限に出せる状態。ササはバルダニガに無理やり融合されて、この世界に連れてこられた経緯がある。それを加味しても、これほどの短時間でササが成し遂げられるとは思わなかった。
 黒がはじけてバルダニガが屋上にべとりと落ちた。ササもよろけてへたり込む。
『いったーい! ササー、無理だよー』
 ササがバルダニガに興奮した様子で捲し立てている。来世の言葉は理解できず、バルダニガが媒介してくれないと意味すら理解できない。いつも穏やかなササにしては、随分と感情的な顔である。よく通る声でバルダニガに何かを言っていた彼女が、俺に気がついた。眼鏡の奥の瞳が見開かれ、びっくりしたように体を硬らせる。
「わ! イ、イゼフ※□!」
 驚きの声と俺の名は分かった。ササは急いで俺に向かって手をあげると、黒い小鳥が俺の肩に止まる。立ち上がると、両手を前に合わせて頭を下げる。先ほどまでの感情的な態度が、すっと消えていつものササになる。
「気がつかなくて、申し訳ありませんでした。何か御用ですか?」
 何か御用ですか? 聞きたいことも話したいことも、喉元に押し寄せて通れやしない。氷の魔女の質問の意味はなんだったのか。どうして俺が気がついた時に、氷の魔女の元に飛ばした鳥を消したのか。ここに残っていて欲しいこと。今、何をしようとしているのか。俺はその中からどうにか一つを選んで、言葉にした。
「なんか大変そうだけど、何してるんだい? 俺は一応先代の器だから、教えられることは教えてあげられるよ?」
「え! あ! いや、べ別にそんなたた大変な事じゃ、ないんです。ただ、こ個人的に知りたいことがあって。いイゼフさんには、い今は関係な、ないんじゃないかなぁって思ってます!」
 融合状態になってもできないことで、大変じゃないとかねーだろ。俺の呆れ顔を見て、ササはさらに慌てる。
「ほ、本当に何でもないですよ!」
『ササって嘘下手だなあ』
 真横であくびをしたバルダニガを、ササはぺしりと叩いた。バルダニガは可愛らしい悲鳴をわざと上げて、彼女の足元に腹を見せて転がった。そんなバルダニガから視線をササに戻すと、彼女はあーとかうーとか呻きながら必死に考えを巡らせているのが見て取れる。
 あまりにも必死すぎて顔が真っ赤になっていて、俺は思わず吹き出した。疑問は晴れていないが、悪い方向にはいかない気がしてくる。
「俺も嘘が得意じゃないけど、全く隠せてないぞ。 何? 話したいけど話せないことでもあるの?」
 ササは目をまん丸くして、俺の顔を凝視した。
「わ! そ、そこまで分かっちゃうんですか! こんな恥ずかしいこと、と、とても話すには根拠がたりなくて…。本当に高槻さんは、なんでこんなことを私に相談したんだろう。私だったら絶対しない」
 後半は独り言だろう。口元に手をやって考え込んでいた彼女は、徐に俺を見上げた。
「本当はいくつか確認してからお話しするつもりだったのですが、今、聞きたいですか?」
「是非、聞きたいね」
 俺に無断で氷の魔女に接触したのも『いくつかの確認』の一つだったのだろう。確認した結果、話すほどの内容でなかったとしても関係はない。彼女の気持ちを理解することが、一番求められている。
 長い話になるのでと、風の強い屋上から食堂に移動する。アーゼ・ダルフの食堂には多くの兵士が食事をしていて、トーレカが手を振ってきたのでその隣に腰を下ろす。ササがトーレカに微笑むと、トーレカの頭の上に黒い小鳥を載せた。お茶と軽食を持ってきますと席を立ったササを見送りながら、トーレカが俺の脇を突いた。
「あんな怖い顔で飛び出してどうしたかと思ったけど、ササと何かあったの?」
「いや、これから話してくれるんだとさ」
 これから? トーレカが周囲を見渡す。食堂の中だけでも数十人にも及ぶ兵士達が過ごしている。間諜が混ざっていることはありえないし、ササの言葉はバルダニガが介さないと分からない。不特定多数に聞かれても良いような他愛のない内容なのだろう。だからこそ、氷の魔女に接触した意味がわからない。
 トレーにお茶のポットやお茶菓子、軽食を満載にして持ってきたササは手際良く配っていく。その手際の良さや細々としたことに気がついてくれる気配りには、男ばかりの野営地でとても助けられたものだ。
 ササが席につくと、果実と乳牛を温めた飲み物を一口飲んで俺とトーレカを見た。
「どこからお話ししましょう…。とりあえず、聞いていてください」
 落ち着いた声色が、周囲の喧騒を遠ざける。
「私はイゼフさんの来世らしいので、この歳になるまでその来世の世界で生きてきました。当然ながら、前世の記憶はないです。佐々木恵としての人生を、今でも生きています」
 俺もトーレカも相槌がてら頷いた。ササが来世のことを語るのは初めてのことだ。こちらのことばかり押し付けて悪かったな、と反省する。
「私の友人に、とても美人で優秀な女性がいましてね。彼女に告白してはフラれることを十年以上繰り返す、それはそれは熱狂的な殿方がいたんですよ。一度だけ、聞いたんです。どうしてそんなに彼女に固執するんですか?ってね」
 鋼の根性だな。トーレカが頬杖を突いて、ヘラヘラと笑う。同僚達が結婚する中で、女性と付き合うのが面倒と言い切った究極の面倒くさがりだ。結婚するつもりもない男が、ササの話す男の執念などちっとも理解できないだろう。
 この男が『確認できたら話すつもりだった』ことに関わるんだろう。しかし、来世のことだし、なんの関係があるんだろう?
「彼は言いました。『俺は彼女を、今度こそ、絶対に、幸せにしてあげたいんだよ』と。彼が一方的に告白している以上の付き合いが無いのに、『今度こそ』って表現は変なのです。どういう意味か聞いたら『俺と彼女は前世で結婚を誓い合ったんだ。前世の彼女はミアリアークという名で、美しくて、仕事熱心で『氷の魔女』と恐れられていた』って」
 思わず吹き出して、茶が鼻から出た。
「ちょ…それって…」
 トーレカの口を塞ぐ。黙って聞いていろ。
「前世の最後の記憶もあると話してくれました。『敵国の将軍に心臓を刺し貫かれた時、女王から賜った力を解き放ち一矢報いようとした』そうです。かなり内容が緻密で、彼の表現力に舌を巻いたのを覚えています」
 確定だ。その男、ファルナンだ。俺達の確信した顔を見て、ササは苦笑いを浮かべた。
「当時の私はそれを笑ったりはしませんでしたが、真に受けませんでした。だって、前世って、ねぇ?」
 俺もササがバルダニガの器でなければ、来世なんてねぇって真に受けなかっただろう。笑わなかっただけでも偉い。
「ミアリアークさんはお子さんを身篭ってらっしゃる。親となる殿方は誰かと聞けば、ファルナンという騎士団長だとか。そこで、私は思ったんです。イゼフさんが殺したはずのなのに、私達の前に現れたファルナンという男。彼は高槻さんなのではないか…と」
 そこまで聞かされれば、その可能性は濃厚だろう。俺は死んだファルナンが戻ってきた謎が氷解して、すっきりする。
「バルダニガにランフェスバイナに飛んでもらって、彼の顔を確認しようと頑張ったんですが、これが難しくて…」
 ファルナンの顔を確認するためだけに、バルダニガと融合まで果たしたのか。なんか、変なところで頑張ってるな。
「なぁ。ササってファルナンの来世と仲が良いの?」
 トーレカが野菜を挟んだパンをかじりながら、素朴な疑問を口にした。確かに、それは思う。俺はファルナンと仲良くするつもりはないし、ファルナンは俺を憎んですらいるだろう。しかも、普通に流れていきそうになるが、ミアリアークの来世とも友達なんだろう? 俺、ミアリアークに殺されても文句言えないくらい、険悪だと思ってるんだけど。
「悪くは無いですし、きっと信頼されているでしょうね。彼にとって前世の話は、誰に話しても良いような事ではなかったでしょうから。だからこそ、不思議でなりません。だって、イゼフさんとファルナンという男は宿敵なのでしょう?」
 俺もトーレカも顔を見合わせる。来世は想像以上に、良くわからないことで満ちているらしい。
「ファルナンの来世って、どんなやつなの?」
「悪い子ではないでしょう。若いのに客観的に物事を見れるし、声を荒げたり感情的になるような印象はありません。彼が私の知るファルナンの来世であるならば、私の目的の協力者になってくれる筈です」
 ひやりと不安が顔を覗かせる。ササが俺に従順に従うとは思っていなかったが、想像以上に早く手を打ってきたようだ。対応し損ねれば、ランフェスバイナを攻略できなくなる。しかし、面白いもんだ。嘘がどんなに下手っつても、そんな手の内を俺に明かすか?
「…なぜ、そう言い切る?」
 俺は将軍の顔になってササに聞いた。
「先ほども申しましたが、彼は客観的に物事を見れる判断力に優れた子でした。彼はまず、アーゼの防御を鉄壁としたイゼフさんの後継者の存在に、ランフェスバイナの勝利が難しいことを理解する筈です。そして勝利が難しいからと自棄を起こして、仲間諸共総攻撃を仕掛けるようなこともしないでしょう。それは彼自身の仲間思いな性格と、来世の価値観が由来します。来世は戦争を繰り返した結果の上に平和を築いた世界なので、戦争や虐殺はあってはならぬこととされています」
 確かにファルナンは仲間のためなら、しっかりと思考を巡らすことはできる。自分のことになると、途端に無謀になるのが玉に瑕だな。それに、俺達が応対しているファルナンは俺達の知るファルナンではなく、ササの知る生まれ変わったファルナンなのだ。俺達よりも的確な分析として汲み取らねばならない。
 そして。ササは言葉を続ける。
「彼に私は人の生活を守る仕事に誇りを持ってることを、話したことがあります。そんな私がアーゼにいつまでも逗留するつもりがないことも、彼なら察するでしょう。いつかは私は元の世界に帰る。その際にはアーゼは防衛面での不安に直面するわけで、ランフェスバイナが付け入る隙を与えることを避けることはできない」
 確かに、俺はササを『客人』として扱っている。いつかは本来の生活に戻ってもらうつもりで、この国のことに深く関わらせてはいない。ササに依存した防衛体制をいつかは見直す必要がある。その際のランフェスバイナの出方は非常に重要だ。
 なんて女だ。先日は諦めさせる寸前まで追い込んで丸め込めると思ったのに、今じゃ立場が逆じゃないか。俺を説得し、ファルナンを巻き込んで、何を企んでいやがるのやら。
「ササ、お前の目的は何だ」
 俺は肝が冷えるのを感じる。強敵だ。俺は油断なく来世の自分を見る。彼女は滑舌の良い響く声で答えた。
「私が目指す最終的な着地点は、ランフェスバイナとアーゼが休戦協定を結ぶことです」
 もう食堂は穏やかな雰囲気ではなかった。俺とササが睨み合い、温度の低い会話を繰り広げる気配が不穏なものになって伝播していた。誰もが俺達を遠巻きに伺い、何を話しているのかと聞き耳を立てている。
「休戦協定? あのランフェスバイナと? 本気で言ってるのか?」
 俺はササの目から視線を外さず、呆れたというよりも信じられないと背もたれに身を預けた。
「俺が将軍に就任して30年は経とうとしている。今では本気でランフェスバイナを潰すことに執心しているが、就任直後はランフェスバイナとの休戦を真面目に考えていた。結局はランフェスバイナとアーゼが歩み寄るなんて、無理だったんだと確認するだけだったが無駄なことだとは思っていない。俺は思う存分にかの国を潰せるんだからな。俺は考えを改めるつもりはないぞ、ササ。お前は俺と一緒にランフェスバイナを潰すんだ」
 ササは俺が歩んできた30年を知らない。ランフェスバイナとアーゼが水と油のような存在だと知らない。
 だが、無理だと言い捨てて終わっちゃいけない。ここで踏ん張れなければ、ササをランフェスバイナ攻略で運用できない。彼女の希望を手折るんだ。諦めさせて戦争に加担させるのが俺の目的だ。互いに譲れない意志が、視線の強さになって互いを射抜く。
 ササは少し早口になって俺に訴える。
「アーゼとランフェスバイナの戦力差を考えれば、私が帰るまでの間、ランフェスバイナが戦争を続けることに意味がない。疲弊して国が困窮するのが目に見えているし、それをファルナンである高槻さんが看過出来るとは思えない。ならば、アーゼに滅ぼされるか? そんな選択肢は拒絶するだろう。だけれど、国が滅ぶことは本意じゃない。回避するための手段を探している」
「あの自尊心の塊みたいな国が、アーゼを滅ぼす以外の選択肢を選べるものか。疲弊して自壊するなら大歓迎だ」
 ササは俺の言葉に一瞬視線を強めた。言い返したいことでもあったんだろうが、その言葉は飲み込んだらしい。淡々と俺に訴えることに専念したようだ。
「バルダニガの器は永遠にアーゼにいるわけではないことを知れば、ランフェスバイナは休戦協定を結びましょうと提案できる。ランフェスバイナは面目を保てて豊かで余力のあるまま存続できるし、アーゼは弱った防衛力のままでも均衡を保てるようになる」
 ササは立ち上がり俺を見下ろした。
「高槻さんは選ぶ。彼は民を守るために、選べる。ファルナンを良く知る貴方だって、分かっている筈だ」
 俺は思わず勢いよく立ち上がった。椅子がひっくり返り、食堂に倒れた派手な音を立てて響かせる。言い返さなければならなかったのに、言葉が出てこない。宿敵の若い男の顔が浮かんで、その男がするだろう予測を立てて、戦いに何度臨んだことだろう。俺はファルナンのことを良く分かっている。だから、ササの言葉を否定できない。
 自信なさげな微笑みと穏やかな声が、俺の心を労わるように投げかけられる。
「私は貴方に感謝してる。私がこの手段を選べるのは、貴方がファルナンを殺したからだ。ファルナンが死んで高槻さんが来たからこそ、貴方が出来なかったファルナンをも利用して戦争を終わらせるという提案ができる。さぁ、どうします? 将軍さん。私の目的に協力してくれますか?」
 俺は過呼吸になりそうな呼吸を整える。負けを認める悔しさは、久々の感覚だ。悔しくて悔しくて、それでも心のどこかでは楽しさに震えている。俺が思わず笑うと、ササも歪な笑みを浮かべる。
「ササ。お前って本当に怖い女だな。敵に回したくないよ」
「イゼフさんに言われたくないですね。貴方は敵に回ると途端に怖くなるお人だもの」
 座れ。そう俺が言いながら椅子を戻して座ると、ササも腰を下ろした。食堂の温度が温くなり、息を飲んで見守っていた誰もが力を抜いたのが伝わってきた。
「だが、ファルナンがササの知り合いかどうか、まだわからないのだろう?」
 ササはファルナンの顔を見ていない。先日の戦闘ではフルアーマーを装備していて、正面から見ても顔の半分以上は兜に隠れてしまっていた。バルダニガを飛ばして確認しようと躍起になっているのだから、ササの話は推測の域を出ていない。
 ササは含みのある笑みを浮かべて、一枚の紙を広げると俺に見せるように差し出した。読むことの出来ない文章らしきものが書かれている。見れば見るほど不思議な文字だ。複雑に線が絡みついた塊もあれば、湾曲した簡素なものが間にあり、さらに小さい記号もある。何が書いてあるのか、推測すらできない。
「これは私の世界で使われている言語です。この世界の人には誰にも理解できないでしょう」
 こんな難解な文字を使っているのか。来世の言葉を使うためには、まず頭が良くならないといけないな。
「なるほど。ファルナンの来世がササの知り合いならば、この文字が読めるのか」
「『近藤美亜の名に心当たりがある者は、先日、お会いした場所で。護衛は1名のみ認めます』と書いてあります。文字だけでも来世の世界からの来訪者だとわかるでしょう。さらにミアリアークさんの来世の名を出したことで、私の想像している相手なら、絶対に確認したいと思うでしょう」
 メモをきちんと畳んで胸ポケットにしまったササは、真剣な表情で俺を見た。
「私にファルナンと接触する許可をください。私の存在を知っても彼が和平を選べないなら、私は諦めて貴方と共にランフェスバイナを滅ぼしましょう。あぁ、ただミアリアークさんが身篭ってて、無事なくらいは伝えたいです。イゼフさん。ミアリアークさんが無事出産されるまで、面倒みてもらえますよね?」
 あの氷の魔女なら、腹の子供を流産させてでも戦いそうだからな。このまま捕虜として預かってた方が、俺達も授かった命も安心だろう。交渉もササがする必要ない。向こうが頼む立場なんだから、向こうが来いってな。
 俺は隣に座った息子の肩を叩いた。
「トーレカ、ササの補佐をしろ」
「え! 親父、この計画に乗っちゃうの?」
 悔しいが面白い計画じゃないか。バルダニガからこの因縁を終わらせる為に、ファルナンを殺せと言われて始めた戦争だ。剣をとって、黒い竜で何もかもをなぎ払っても終わりが見えなかった地獄。やり方を変えるだけで、条件が変わるだけで、終わりも変わるなら、ハッピーエンドっぽい方が良いじゃないか。
 ものは試しだ。俺がササに軽く手を振れば、ササは『よろしくお願いします』と頭を下げた。