まえもって、後悔が来れば良いのに

 アーゼはイゼフさんがファルナンを殺害してからは、随分と平和な日々が続いているらしい。
 ここ十年単位で苛烈な戦争が続いたので、これほど長閑な日々は珍しいと前線基地であるダルフに常駐している兵士達は言う。竜将軍の手腕を褒め称える声が大きく響き、ランフェスバイナとの戦いが終わるのではないかという声も聞かれ始めた。これに氷の魔女であるミアリアークの捕縛まで、人々の中に噂として流れてしまったのだ。勝戦ムードは止めようがない。
 実際に圧倒的にこちらが有利である状況なので、イゼフさんも随分と穏やかなのだとトーレカさんは話していた。穏やかではないイゼフさんとは、どんなものなのだろう。トーレカさん曰く『ササは鏡見た方が早いよ』だそうだ。腹立たしいことこの上ない。
「休戦かぁ。長い歴史の中で初めてかもなぁ。ランフェスバイナとはずっと敵国だったから、不思議な感じだな」
 アーゼの関所であり守りの要、アーゼ・ダルフの屋上でイゼフさんは敵国の方角を見て呟いた。
「休戦になったら、同盟軍の役割を貿易の護衛とかに回せるのか。内需も軍に割いていた分を別のところに回せる。アーゼはますます発展できそうだ。なんか、まだ休戦できてないのに、やりたい事を書き出してるんだ。心が躍るよ」
 イゼフさんは楽しげに笑う。最近は私の来世での生活を聞いては、この世界でも生かせるかもと色々と考えてるらしい。
 ファルナンと接触して、ランフェスバイナがどう出てくるか、それを待っている状態は暇だ。警戒は怠ってはいないが、緊張はいつまでも続かない。お互いにまったりと時間が過ぎるのに任せている。
「休戦が決まったら、お別れですね」
「そうだね」
 イゼフさんの差し出した手を、私は握り返す。
「君が来てアーゼが救われようとしている。民を代表して、感謝するよ。本当に来てくれて、力を貸してくれて、ありがとう」
「貴方が守ってきたアーゼは素晴らしいところでした。貴方の元で過ごせたこと、しつこく思い出して生きていきます」
 互いに笑みに寂しさが混じる。ほんの半月程度なのに、この世界に随分と思い入れてしまったと思う。それでも、私の日常はここにはない。帰らなくちゃいけない。帰って先ずすることはバルダニガに連れてこられてから、どれくらい経っているかを知ることだ。それを考えるだけで胃が痛い。ここで過ごした日数と同じくらい日にちが経っていたら、会社はすでにクビとして扱っているだろう。まぁ、就職先はいくらでもある。
「ササ。お酒飲める?」
「大好きです」
 私の返事に、イゼフさんは『やっぱりね』と笑う。
「じゃ、休戦決まったら飲もう。息子と飲もうと思ってた、とっておきがあるんだ!」
 息子さんは良いんですか? そう言い返そうとした。
 ちりっと痛みが走る。目の前にバルダニガが現れるよりも先に、声が爆ぜた。
『ササ! 防ぐ! 急いで!』
 反射的に最大限に集中すると、バルダニガが膨れ上がった。まるで手鏡で太陽光を反射したような小さな光が、谷を塞ぐ要塞であるアーゼ・ダルフの前面を覆うバルダニガを貫いた。激痛が走って、左腕が燃えるように熱を帯びる。
 要塞の一部が地響きを立てて崩れていくのを、足の裏で感じる。
『ササ! 次くる! もっと、集中して!』
 まだ来るのか! 今度は攻撃の始点らしい場所から集中し、防御の範囲を狭くして厚くする。痛みは先ほどに比べれば全然マシになったが、光が闇を貫いてくる関係で完全に防ぐことができない。要塞が大きく震える。今度の熱は脇腹。足に向かって熱が伝っていくのがわかる。
 視界が暗くなってくる。頬に爪を立てて、視線を凝らす。
「ササ! 大丈夫か? バル、なんなんだ? こんな攻撃、今までに一度も…!」
『ランフェスバイナだ! 直に俺を殺しにきたんだ! うぅ、痛い!』
 バルダニガを走らせる。このまま防戦一方では、一方的に嬲り殺されてしまう。意識が落ちてしまったら、アーゼの壁が瓦礫の山になってしまう。攻撃が始まったばかりで、要塞内にいるたくさんの人の避難も始まっていない。攻撃に出なければ、死んでしまう!
 森にバルダニガが入れば、そこはもはや異常な空間だった。太陽の光を植物が遮る森は、本来薄暗いものだ。だが、ライトアップも度が過ぎる程度に、照らし出されている。森の木々も地面も動物達も、皆、光の中に溶けている。
 ぞっとする。感覚が察知した時には、すでに遅かった。
 自分の感覚が失せる。踏ん張っていた足が抜け、背を支えてくれていたイゼフさんの手が離れていく。バルダニガを引き戻そうにも、寄る辺となる自分の存在が希薄になって光の中に放り出される。無重力を漂っているかのようで、何にも触れられない。
 まずい。これは罠だったのか?
 真っ白い世界を見回すと、目の前にいつの間にか女の子が立っている。足元まで伸びて広がる白金色の髪、光に溶けてしまいそうなほどの滑らかな白い肌。無垢を現すかのように、シルクのような艶のある白い布を纏っている。芸術家達が挙って目指した完璧な少女が形になったものなのに、一番美しいだろう目は硬く閉じられている。その目から涙が流れている。
「貴女の自由が羨ましい」
 美しいソプラノ。讃美歌がよく似合いそうな天使の声が紡いだ言葉は、妬みだ。
「ねぇ、どうして私は自由じゃないの? イゼフも同じように不自由だったのに、どうして自由になれそうなの? 貴女はこんなにも自由で、もう少ししたらもっと自由になれるのでしょう? どうしてなの?」
 女の子の細い手が私の手首を取った。ひんやりと冷たい手を振り払いたかったのに、自分の体はぴくりとも動かせない。
「どうしたら、私は自由になるの?」
 初対面でわかることじゃないでしょう。私の返事も待たず、少女は首を激しく振った。固く閉じた目から流れる涙が増して、微笑みが似合いそうな口元は裂けて悲痛な喘ぎを吐くばかり。光が迫ってくる。自分を形作る、影を溶かそうとする。
「いやだ! いやだよ! 貴女も私と同じでいてよ! 自由にならないで…私を一人にしないで…」
 声は最後まで続かなかった。私と少女の間に闇が生まれる。それは獣の形になって私を突き飛ばした。少女の手が離れ、私とバルダニガが縺れるように倒れる。獣臭さと大きさに見合った重量感が、自分を包み込んで光を遮ってくれる。
「バルダニガ…重い」
『ササ! 眼を開けられる前に、急いで戻ってきて!』
 目? もう一度少女を見ようと思ったが、痛覚が戻ってくる。痛みがこれ以上ないくらいに鮮明に自分を認識させる。自分は倒れている。視界が戻る。夕暮れを切り取る谷が明るい。光は目の前にあった。
 人の形に光るもの。それが目の前に立っている。傷だらけのイゼフさんが、私を見た。
「ササ、戻ってきたか!」
 光る人間にバルダニガが迫る。先ほどの攻撃はこいつの仕業だったのだろう。近い分、一撃が重くてすごく痛い。光っているからか、バルダニガの一撃も効果がないように見える。バルダニガが弱っているのを感じていた。おそらく、彼自身がすごく磨耗していて、このままでは瀕死の状態になるのだろう。
「バルダニガ! 悪いですが、貴方は私と、ここで皆を守って死んでもらいます!」
 誰も死なせるものか。今、目の前の光る人間を、差し違えてでも殺してやる…! 下がってきたイゼフさんが、私の肩を掴んだ。
「ササ。バルダニガの力をありったけ俺に注げ!」
 そんなことをして、大丈夫なんだろうか?
「大丈夫だ。俺はお前の前に器だったから、バルダニガの力には耐性がある。あのピカピカした奴に物理的に力をねじ込んで、魔力と肉体を分離させる」
「そんなことが…」
「できるできないじゃなくて、やるかやらないかだ。やらないで後悔するのは嫌いだ。お前もわかるだろう!」
 確かに、やらないで後悔するのは大嫌だ。
 私はイゼフさんの手に自分の手を重ねて、意識を集中する。バルダニガがイゼフさんに寄り添って、その頬を舐めた。イゼフさんが向けた親愛に似た温かい視線を、バルダニガは嬉しげに受けた。
「頼むぜ。バル」
『うん。行こう。イゼフ』
 バルダニガの力がまとわりつく剣を手に、イゼフさんが切り込んだ。光と闇が激しくぶつかり合うが、物理的な力も備えたイゼフさんの一撃に光る人間の体がよろめく。光る人間の攻撃は相変わらず光線のようなものだったが、攻撃が発動する前にイゼフさんが体当たりをして攻撃そのものを逸らす。要塞からはもう火の手が上がり始めて、暗くなり始めた空を照らし始めていた。
 このまま、二対一で押し切れる。そう思った時だ。
 光る人間が動いた。今まで佇んで光線を出すばかりだったそれの腕が、ぎこちなくも動き始めた。目が開く。空を切り抜いたような一対の青が、イゼフさんに向けられる。
 けがわらしい けものの うつわどもめ
 声ではなかった。バルダニガを介して話すように、意味だけが直接響く。しかし、意味は強い憎悪を含んでいて、悪意を持って浸透してくる。不快が一瞬にして嘔気に取って変わり、集中力を圧し潰す。
 一瞬。目を離しただけだった。
 その一瞬で、イゼフさんの背にあり得ないものが生えているのが見えた。腕だ。光っている、人間の腕。赤が凄まじい勢いでイゼフさんの足元に流れ落ちていく。イゼフさんは光っている人間の肩を強く掴んで、震える体をどうにか支えながら光る人間の顔に自分の顔を近づけた。
「帰ってこい! ファルナン!」
 致命傷。ファルナン。驚きが集中力を上回った。暴走に近い、制御ができていない力がイゼフさんに流れ込んで、光る人間ごと貫いてしまう。まずい。いけない。これでは、私が、イゼフさんを殺してしまうようなものだ…!
 私は蹲って目を閉じた。情報を遮断して、少しでも力を抱え込もうとする。
「…な」
 ファルナンが、高槻さんが、うめいた。
 イゼフさんの声は聞こえない。きっと、もう、二度と聞こえないのだ。