ミアリアークはニアの肉球を握る

 近藤さん。近藤さん…。
 優しい声が耳に触れる。意識が浮き上がり、額に冷たい濡れたものが触れているのを自覚すると、体が柔らかい寝床に横たわっているのを認識する。遠慮がちに肩に手が触れたのを感じて、うっすらと目を開ける。
 自分を覗き込んでいる顔が、ほっと安堵で和らいだ。額に載っていた濡れた布を手に取り、語りかけて来る。
「あぁ、良かった。苦しそうにしていたので、心配しましたよ」
 誰だろう。見知らぬ女性だ。パッと見た瞬間イゼフに似ていると思ったが、年齢は近そうでも似ていなかった。きっちりと後頭部に結えた髪は艶なく膨らみ、軽く握った指の関節で押し上げる妙なメガネの上げ方をしながら、彼女は穏やかに微笑んだ。遠慮がちな笑みは私の警戒感を溶かし、信頼に足る人物だと感じさせる。
「職場で貧血で倒れそうだって連絡して来るのは良いですよ。でも夜勤から帰ってきたら、私の布団で若い女性が寝ているなんて、吃驚するじゃないですか。しかも、合鍵。いつの間に作ったんですか?」
 不思議な感覚だ。知らない言葉の筈なのに、知っている。理解している。
 女性の話では私は貧血で倒れそうになって、彼女の家に上がり込んで眠っていたらしい。覚えがない。この家自体に見覚えがない。使用人の部屋のような小さい空間はよく整理されていて、傍で存在感を放つ本棚はきちんと大きさや背表紙が似ているもので分けて収納されている。何一つ見たことがないものばかり。この空間を構築する全てが、未知なる物でできている。
 いや、女性の服装には見覚えがある。ファルナンが来世の世界を行き来する時に着る物に似ている。
 ここは、一体、どこなのだろう。私は先ほどまで、ランフェスバイナの大聖堂で執務をしていた筈だったのに。
 女性は立ち上がる。どこへ行くのだろう? 不安そうに見上げた私を見てか、女性は困ったように笑った。
「昇進して頑張りすぎたんじゃないですか? おいしいご飯を食べて、寝て、少し休まないといけませんよ。夕飯は精の付くものを作りましょう。ちょっと買い出しに行ってきますね」
 そう手早く荷物を持って背中を向けた彼女は、思い出したように振り返った。
「あぁ、そうだ。最近、猫が出入りするんです。窓が少し開いてますから、寒かったら閉めてくださいね」
 私を安心させるために、一つ笑みを向けた彼女は部屋を出ていく。重い扉が閉まる音が響き、遠ざかる足音が暫くすると聞こえなくなった。
 小さく開いた窓から爽やかな風が吹き込んで、カーテンを揺らす。暖かい日差しの心地よい、とても安心できる場所だと思う。本来なら情報を収集し、ここがどこだかを探らなくてはいけないのに、横たわって柔らかいものに包まれていたい気持ちでいっぱいになる。こうして休める日は、双子が生まれて、ランフェスバイナの国王代理に就任してから全く無かったな。
 うとうとと眠気と戯れていた私は、かたりと物音を聞く。横倒しになった世界に、白い何か飛び込んでくる。
 猫。彼女が猫といった生き物だと分かった。真っ白で美しい毛並みが日の光に金色に輝いて見え、青空のような青い瞳を持った猫だ。猫は物珍しい物でも見るかのように、私に近づき覗き込んだ。
「目が覚めた? ミアリアーク」
 にこりと笑った白猫に、体が脅威を感じて寒気が走る。騎士としての勘が告げる。敵だ。と。
 体に掛けられていた厚手の布を跳ね上げ、上半身を起こす。剣はない。圧縮魔法を書き留めた本もない。鎧は着ておらず、寝巻きに似た簡素な服を着ているだけ。女性には悪いが、目の前の存在を打倒しなくてはならない。魔法を放とうと、集中する。
 可愛らしい女性の声で、白い猫はころころと笑った。しかし、見下しているがわかる声で言う。
「魔法は使えないわ、氷の魔女さん。その肉体は魔法のない世界の理で出来ている、貴女の来世のものよ」
 何を言っているの? 貴方は誰? そう問おうとした声が掠れて出ない。喉の渇きを実感すると、耐え難いものになった。
 何か喉を潤す物を…。そう立ち上がった私を、白猫は止めなかった。ふらつく足元を壁についた手で支えながら、金属の質感のする台の横にある不思議な質感のする棚を開ける。中からひんやりとした冷気を感じ、その中にあった瓶を手にする。硝子のコップに注ぐと、アーゼの茶に似た香りが鼻先をかすめた。口をつければよく冷やされた茶と香りが、胃に一気に流れていく。
 不思議な世界だった。知らない物なのに、知らない部屋なのに、なぜか知っている。
 喉が潤って冷静になると、私は白猫に振り返った。
 聞きたいことは多くある。白猫が何者なのか。白猫の言葉を信じるなら、来世になぜ自分がいるのか。どうして、そうなったのか。そのうちのどれかを選び出そうとする前に、白猫が口を開いた。
「貴女の問いには全て答えてあげる。貴女が私に返す返事は、もう決まっているから」
「決まっている?」
 口に出して聞き返せば、白猫は『そうよ』と頷いた。
「賢い貴女なら、協力してくれると確信しているの。私はニア。世界を滅ぼす者よ」
 驚きの声が喉に詰まって、喘ぐような声だけが漏れる。
 同時に何を言っているんだろうと、言葉を疑問視する私がいる。ニアと名乗った白猫の青い瞳は紛れもない知性を帯びていて、その声色は自信に満ちて傲慢なくらいだ。ニアは自分自身の圧倒的な有利を理解していて、私の性格も分かった上で結果を見越して話していると言動から読み取れる。出し抜くことは難しいだろう。
 今は疑問を返して、全てに答えてくれると言う彼女から情報を可能な限り引き出さなくてはならない。
「世界を…滅ぼす? 可愛らしい動物の姿で言う冗談にしては、物騒じゃない?」
 ニアは可愛らしい姿だった。子供達が見たら、膝に乗せる権利を奪い合うほどだろう。白くふわふわした毛並みは触り心地が良いだろうし、膝にいつまでも載せても痛くならない程度に軽そうな小柄な体つきだ。ピンと立つ耳。緩やかに動く尻尾。美しい瞳。人が魅了されるあらゆる要素を詰め込んだ、完璧な獣だろう。
 そんな獣が世界を滅ぼすだなんて口にしても、説得力に欠ける。ニアも私の言わん事を理解したらしく、ふふっと笑いながら前足を舐めた。
「少し前に貴女の故郷。ランフェスバイナを消してきたわ。貴女の本来の体は、今は生きても死んでもいない。肉体に滞在できない魂が、来世の魂に引き寄せられて今の状態になっているの」
「私は貴女に協力しないと、拒否する事が出来るわ」
 ランフェスバイナを消した。その言葉を鵜呑みにするのは危険だ。
 口にして確信したが、私自身の意思は何者の干渉も受けていないようだ。ニアが有利な答えを私にさせる為に、私に魔術の類で操っているような違和感は感じない。『ミアリアークの答えは決まっている』と言ったが、彼女が決まっていると言う協力の要請を、拒絶することは可能なようだ。
 ニアはゆっくりと肯定した。
「そうね。拒否しても良いわ。でも、そうしたら、貴女は消える。そのまま貴女の来世である近藤 美亜の中に居続ければ、ミアリアークの意識は保ち続ける事は出来ずに溶けて消えてしまうわ」
 言葉に詰まる。拒否すれば存在の危険が伴う。これは脅迫に近いものがあった。
「協力してくれれば、貴女の意識を本来のミアリアークの中に戻してあげる」
 なるほど。私が生き延びる為には協力する以外の選択肢がない。ニアが強く出る訳だ。
 しかも彼女の発言が嘘であるかどうかを、見破る術が今の私にはない。存在を失う可能性を無視して賭けに出るのは、危険なことだ。ニアの態度を見る限り、私が拒絶して死んでも構いはしないという関心の薄さもある。おそらく、拒絶したら死ぬということは本当のことと捉えた方が良いだろう。
「話を聞いた限りでは、ニア、貴方は私の力を借りずとも世界が滅ぼせそうだわ。それなのに、なぜ、私の協力を求めるの?」
 ランフェスバイナを消した。その言葉が正しいとしたら、ニアはとてつもない脅威だ。
 アーゼとの戦いで敵対した竜将軍イゼフの振るった黒竜、それに匹敵、もしくは凌駕する力を持っていることになる。それほどの逸材が私の協力を求める意味が見えてこない。
 ニアはうんと伸びをする。
「ランフェスバイナを滅ぼした力を見て、神々は力を行使した私を全力で潰しに来る。神々と名乗れる理の管理者達を全員相手に出来る程に、流石の私も強くないわ。だから、神々の目の届かないこの世界に身を潜めてる。私の代わりにあの世界で動ける協力者が欲しいの」
 神々がニアを攻撃して来る。それだけ脅威と見做される行いをしたとして、その行いがランフェスバイナを消したに繋がるなら確かに説得力がある。体の芯が冷える。守るべき王国が滅んだかもしれない、その可能性が暴れて心をかき乱す。
 乱れそうになる息を整え、私はニアに訊ねた。
「具体的にどうしろと?」
 ニアは私が協力する事に前向きだと感じたのか、青い瞳を嬉しそうに細めた。
「さっきの女性。誰だと思う?」
 私を看病してくれただろう女性を思い浮かんだ。湧き上がる安心感は、おそらくこの体の持ち主である来世の私に由来する感覚なのだろう。私の為にと行動してくれる彼女の人の良さを思えば、なぜニアが彼女のことを口にしたか分からない。世界を滅ぼさんとするニアからは、最も縁遠い存在だろう。
 ニアは悪戯っぽく目を瞬かせた。
「イゼフの来世。バルダニガの器。佐々木 恵」
 思わず目を見開いた。
「あの人が…!」
 奇襲作戦の時に出会った白いフードを被った存在。名前は様々な人から聞いた。夫であるファルナン、敵であったイゼフ、今は政治的な協力者であるトーレカ。彼らはバルダニガの器である女性の名を口にしては、彼女の行いを語っては聞かせた。ファルナンはこの戦争を終わらせる為に協力してくれたと、イゼフは私が身篭っているのを見抜いて守って欲しいと頼んできたと、トーレカは任されたので頑張らないと、と。それぞれにササと呼んだ女性のことを語る。
 この身に受けた暴力の激しさを思えば、あまりの穏やかさに驚いてしまう。バルダニガを行使する者とは思えない、優しそうな人だ。あの自分達を散々苦しめた竜将軍の生まれ変わりだなんて、とても信じられそうにない。
「彼女をバルダニガと融合させた状態にまで追い詰めて、倒して欲しいの。あぁ、殺す必要はないわ。無理だもの。意識を失わせるくらいで良いの。それができたら、もう、貴女は自由。私に協力しなくて良いわ」
 あんな戦いから遠いだろう人を、戦わせるのか。ニアの意図に吐き気すら感じる。
 おそらく、人を殺めた事はないだろう。人を殺めるような力に、秀でているとは思えない。バルダニガの器でなければ、穏やかに平和な世界で一生を終えられるに違いない。
 ランフェスバイナを滅ぼす程の存在なら、バルダニガを繰るササを圧倒する事は難しくないはず。しかもニアが出入りしているこの場所は、ササの家なのだ。警戒を知らぬ彼女の寝首を掻くことなど、造作もない。おそらく、バルダニガと融合した状態というのが重要なのだろう。
 今の段階で考えられる最も単純な予測は、バルダニガとその器であるササを封じ込める事だ。世界を滅ぼす障害として立ち塞がる存在を無力化する事。その為に私を刺客として差し向けるのは、あの優しそうな彼女を思えば有効な手段と言える。
「目的の達成のためなら、何をしても良いの?」
「勿論。私の事を誰にでも話しても良いわ。ここに居る事も、伝えても良い。目的を達成してくれるなら、なんでもして良いわ。でも、貴女が私がここに居ると告げた後も、ここに私が居る保証はないことだけは先に伝えておくわ」
 生き抜き機会を伺う。世界を滅ぼさんとする脅威と関係を持つ事は、大きな利点だ。ニアの傍でニアの協力者として繋がりを維持し、ニアの目的を妨害する。それが出来るのは、私しかいない。
「分かったわ。協力する」
「嬉しいわ。ミアリアーク」
 ニアが嬉しそうに差し出してきた肉球は、柔らかかった。
 悔しいけど、可愛い。