氷の魔女は鯨に力を示す

 水の神テテラの名を冠した海は、世界で最も美しいと表現される場所だ。漆黒に移ろう深淵から見上げれば、日の光が差し込んだ筋が彩る存在する限りの青。魚達の群れが行き交い、温かい海水に胎児のように包まれる。この美しさを目当てで観光などしてはいけない。魅了され心を奪われ、海の底に引き摺り込まれる『人喰いの海域』と呼ばれているからだ。
 しかし、ニアはご機嫌斜めだ。忙しなく毛繕いをしては、塩辛いと不貞腐れている。
「ねぇ、ニア。貴女はこの世界で自由に動ける人手として、私を助けたのでしょう? どうして一緒に来たの?」
 白猫のニアは、私を見上げた。天空石のような美しい瞳も、日差しに溶けて白金に輝く毛も、その佇まいの角度まで全てを計算されて完璧に仕上げたような理想の猫。あまりにも可愛くて、撫でてしまいそう。だめよ。だめよ。ミアリアーク。自分を律しなさい。目の前の白い猫はランフェスバイナを滅ぼした元凶なのよ…!
 ぐっと手首を握り込んで冷静になると、もたげるのはやはり疑問だ。
 この世界の神々が血眼になって探し、見つけたら殺されてしまうだろうニア。そう予測しているからこそ、ササの家に身を潜めている。ファルナンとイゼフの来世が暮らす世界は、この世界の理の外であり神々の力は及ばない。安全な場所からこの世界に干渉するための手先として、私がいるのではなかったのかしら?
「ササは夜勤で、いないんだもの。暇なの」
 帰ってきた答えは、娘のアシュリアーナの答えのような幼いもの。その答えに戸惑った私を見て、ニアは瞳を細めた。
「心配要らないわ、ミアリアーク。魔力を制御している私を、ランフェスバイナを滅ぼした脅威とは神々すら思わない。ただの猫にしか見られないわ。それとも、私のことを告発するタイミングを見計らっていたの? テテラの加護を授かるのは、神に接触する為の言い訳だったのかしら?」
「例えそうだったとしても、ニア、貴女にはなんの障害にもならないのでしょう? 私とテテラの器のルーを同時に殺して、姿を消してしまうことの方が貴女には都合が良いんじゃないかしら」
 私が言い返せば、ニアは小さく声を上げて笑った。前足を舐めて、塩辛さに身震いする。
「つまらない返事は嫌いよ。暇なのは本当。暇つぶしくらい、私だってしたいのよ」
 私の決死の覚悟とも言える挑戦は、ニアにとって暇つぶしなのね。ちょっと、カチンとは来るけど、ランフェスバイナを消し飛ばすほどの魔力の持ち主だ。暇つぶしと思われるのは致し方ないのだろう。
 でも、ササの家で何をして過ごしているのかしら?
 トーレカが一度話していたわね。ササは動物が苦手で、バルダニガとは最初は上手くいっていなかったって。部屋に入ってくるのを拒んでいる雰囲気はなかったけれど、猫が来ると話していたササは嬉しそうではなかった。動物が苦手であることは、今も変わらないんじゃないかしら?
「ササって、動物が苦手だと聞いたけれど…」
「えぇ。私に対して、どうして良いか分からなくて狼狽る姿が面白いの。体の上に乗ってみたり、足元に擦り寄ってみたりすると、大袈裟なくらい困るのよ。可愛い無害な白猫なのに、なんで困るのかしら? あれが破壊の化身と呼ばれる獣の神の器だなんて、笑ってしまうわ」
 可愛い、無害な、白猫。確かに何も知らないササにとっては、そうかもしれないわね。
 楽しげに笑っていたニアは、深い藍色に映り込む白い猫を覗き込む。くるりと私に向き直れば、軽快に私の肩に乗り上がった。首筋に当たるふわふわの白い毛並みが、とても暖かくて気持ちがいい。
「さぁ、氷の魔女さん。深海探検に行くのでしょう? 早く行きましょう」
 そうね。良い加減、行かないと夜になってしまうわ。
 海に飛び込むと、包み込んだ海と私達の間に空気の層が生まれる。『氷の魔女』と呼ばれているが、本来の私が使うのは水属性の魔法だ。攻撃力が純粋に強い氷の術式が注目されただけであって、水を操った私は魚のように素早く水の中を進む。干渉した水から空気を生み出し、水中の中でも呼吸ができる。しかし、いかに水属性の魔法に秀でた私でさえ、長時間潜水を保つことは難しい。体を包み込む力を維持するのは、ニアだ。命を握られていると現実を突きつけられる。
 深き水底から泡が沸き立つ。次の瞬間巨大なものが傍を通過し、水流の圧に巻き込まれる。体勢を立て直し落ち着いて見上げれば、そこには巨大な鯨が悠然と泳いでいる。これほどの巨体を誇る生命がいるのだろうか? その大きさは視界に収まることなく、珊瑚を宝石のようにまとわりつかせて着飾るは海の王に相応しい。その瞳が私を捉えると、鯨の言葉が泡となって私に触れた。
『人の子よ。遠路遥々参った理由を問う権利が、ルーにはある筈だ。違うか?』
 私は姿勢を正し、ランフェスバイナ王国騎士団の敬礼をする。
 このテテラ海で人の言葉を操って語りかける存在など、一つしかない。
「私はランフェスバイナのミアリアーク。テテラの器、ルーよ。私は水の神の力を求めています」
 鯨は私の言葉に理解を示したようだ。悠然と私の周囲を回遊すると、湧き上がる泡はさらに語りかける。
『其方のように類稀な水の力に秀でた魔法の使い手であっても、過ぎたる力は自身を傷つけ寿命を縮め果てに命を奪う』
「わかっています」
 私とて力を酷使すれば、体が損傷する。鼻血が出る程度なら軽微だが、強力な力を行使する為に体の一部を対価に差し出すものもある。血液、髪の毛、それは様々だ。しかし、かつては腕や肉体そのものを対価にした時代もあった。今ではそれらは禁術として指定されているが、過去には奴隷のような身分の低い者の命を使って強大な術を行使したそうだ。
 神の力。それが自分にだけ対価を求めるならば、これほど安い対価はない。
 故郷を守れなかった罪、本来なら背後に庇うべき善なる者を傷つけなくてはならない罪としては、軽いくらいだった。
「世界を守る為ならば、私一人の命など安いものです」
 私を見つめていた鯨は、瞳を瞬かせた。
『ランフェスバイナの名を宿した大地を滅ぼした何者か…。今、神々はその者を探している。其方がその者を知っているのなら、ルーを介してテテラへ伝えよう。獣は群れてこそ真価を発揮する。獣の神ですら例外ではない』
 ニアの言葉通り、ランフェスバイナを滅ぼした存在を神々が潰しにかかるようだ。様々な神々、それぞれの器。多様な意見の交わされる中で、即座に極刑はないだろう。だが、ニアがランフェスバイナを滅ぼした理由次第では恩赦も極刑もありうる。今の私の聞き及ぶ限りでは、ニアは純粋なこの世界の脅威だ。滅ぼさねばならぬと判断されるだろう。
 ちらりと横目に見た白猫は、私の行動を楽しそうに観察している。
 一方的だと思っていた。
 アーゼとの戦いはランフェスバイナにとって、もはや日常の一部だった。誰もがアーゼが憎き敵だと教え込まれ、疑うことを知らない。そんな中で出会った竜将軍の存在は、まさに憎しみが実体化した魔王の化身だった。黒づくめの装束をまとう男が、黒竜を従え全てをなぎ払う。圧倒的だった。
 だが、人の魔力とは思えぬ破壊力の割に被害が少ないのに、早い段階で気がついていた。捕虜の扱いは丁重で、囚われ戻ってこなかった部下が家族宛に出した手紙の殆どが『アーゼで暮らす』という内容だった。国境付近の宿場町で再会して、授かった子供を見せる者も少なくない。幸せな姿は演技を強要されているようには見えなかった。
 だからこそ、私自身が捕虜として捕まった時はチャンスだと思った。果たして、敵である魔王の国は滅ぼすべきなのか。女王が、神が強いる命令ではなく、自分の目で見て確かめたかった。
 牢屋を出て妊婦である私を支えてくれる助産師の元へ連れて行く間、共に歩いたイゼフは深々と頭を下げた。『アーゼを守る為だったとはいえ、君の旦那を殺してすまなかった』その姿は、私の知る魔王の化身とはかけ離れた、年齢相応の男性だった。
 そして問うのだ。『どうする? 授かった子供は産むのかい?』と。
 不思議だった。氷の魔女と騎士団長の子供だ。強い力を持ち、私達の指針次第ではアーゼの脅威になる。身篭ったと知ったなら、否応なく私共々子供を殺さねばならぬだろう。将軍としてアーゼを守る立場なら、尚更、非情な判断をするべきなのだ。
 産むわ。私が答えれば、私を見る瞳は優しかった。求めた、視線だった。『そう。幸せになりなよ』
 それが、私が見つけた答えだった。
 敵の幸せを願う言葉は、私の中で構築されていたアーゼの全てを破壊した。アーゼは憎き敵ではない。魔王が統べる悪しき国ではない。私達と同じ人間が暮らし、私達以上に優しい人々が生きる世界だった。
 だから、ニアも何も知らずに敵として見るには抵抗があった。
『何も語らぬか…』
「今は、何も話すには至らないのです」
 話せることが、この世界を守ることに直結するとも限らなかった。ニアの事を今この場で語れば、私とルーの命は危険にさらされる。居場所を話せば、ニアはササの家からは離れてしまうだろう。そうなれば、接触することが難しくなる。ニアの言葉は『世界を滅ぼす』という行動ばかりで、『何故、滅ぼすのか』という理由を掴んでいないのも問題だ。
 今は目標を達成する為に従順なフリをして、ニアの傍にいて見極める方が良いと私は判断している。
 形だけでもササと渡り合う実力を付ける為だが、ニアと敵対した時にはテテラから力が授かれば自分も戦力になれる。世界を守る為、そう答えた私の言葉に偽りはない。
『ルーは複雑な人の心を理解できぬ。だが、その眼差しに秘めた決意が、其方の言葉が偽りでないと判断する』
 鯨が身を翻し、距離を置いた。鯨が鳴く。海の民が危険を感じて、海域から離れて行くのが目に見えてわかる。
『テテラに訴えよ。ルーに、力で示せ…!』
 殺意はない。それでも圧倒的力の前に、自分がいかに小さく無力であるかを認識させられる。騎士として戦い抜いた勘が、生物としての本能が、目の前の存在から戦ってはいけないと訴える。怖気付いてはいけない。私は弱い心を凍りつかせ粉砕する。
 鯨がふっと息を吹きつければ、圧縮された水が壁のように迫ってくる。目の前に氷の盾を生み出し、直撃を避けようとするが、圧が過ぎ去った後の海流が私の体をもみくちゃにする。
 氷の足場を作り、足掛かりにしてルーに迫る。
 魔法で圧縮した水を利用して飛び出せば、ルーの想像以上に早くルーの眼前に飛び出す。集中していた魔法は、夥しい氷の刃になってルーを傷つける筈だった。鯨はそれを体を回転させ、巨大な尾で尽くなぎ払う。
 私が発した熱で、海の水が熱い。汗は海に溶け、まとわりついてくる。
 神の器と、ただの人とではこれ程の差があるのか…。悔しげに歯噛みする。それでも、諦めるわけにはいかない。
 水の流れが見える。直線的に、切り裂くように細く圧縮された脅威。それを回避して背後で霧散するのを感じながら、私はひたすらに氷の魔法を操る。騎士団最強の魔法の使い手、氷の魔女としての力を惜しみなく発揮する。尾が幾度となく氷を砕き、まるで海の中に雪が降ったように美しい。
 鯨が大きく旋回すれば、海は渦巻いた。渦潮が海上の空気を呼び込み、全てを吸い込まんとする。
 思わず息を飲む。硬直は一瞬だけ。私は臆さず渦潮に飛び込んだ。渦潮の中は無風で、空の領域だ。私は大きく息を吸い、極限まで集中した意識が世界を止める。
 ここは海の中ではない。水の中ではない。テテラの領域の外は、私を有利にした。
 渦巻く水の壁の向こうで、ルーが私から視線を外さずに見ている。
 ダイアモンドダストのように輝く氷達。私が生み出した氷が砕けた成れの果て。それらに干渉し、瞬く間に巨大に成長させる。雪の結晶のように複雑に結びついた氷達は、一つ一つが鋭利な脅威だった。
『!』
 ルーは慌てて身を翻した。自分自身が生み出した渦潮によって、勢いが加わった氷の塊が鯨を打ちつけたのだ。鯨は海の底の闇へ逃れていく。次第に渦潮の勢いが失われていき、穏やかな海が戻ってきたが、鯨は姿を現わさなかった。
 ふと、周囲の水が光っているのに気がついた。月夜に照らされた海のように、燦々と日差しを受ける湖面のように、木漏れ日を反射する川面のように、氷を透かして七色に色付く輝きのように、様々な光に移ろう。その光を手に包むと、海水とは違って温かいのがわかる。
「『輝く水』テテラの力を秘めたものよ。ミアリアークを、テテラとルーは認めたみたいね」
 輝く水を包み込んだ手元を口元に寄せる。唇に温かいものが触れ、吸い込むとするりと喉を降りて行く。味はしない。海の香りの中で、輝く水は爽やかな香りがした。自分の魔力ではない力が、体の奥底から力が漲ってくるのがわかる。これが、テテラから授かりし力。巡る力の強さに、目が眩んでしまいそうだ。
 泡が深海から噴き上がって、私達を押し上げる。
『水は全てに満ちている。水が満たして生かす器の心も、水は知っている。白い理の外の者。お前は味のしない黒い水で満たされている。透き通った氷と水の輝きを持つ人の子が、お前の濁りを憂いている』
「流石、水の神の器。…私に殺されたいようね」
 ニアが暗い声で水の底に囁く。
『水は混ざり変わる。しかし、お前を満たす水が、この世界の者を変えるには至らないだろう。変わるのは白き理の外の者、お前の方だ』
 ニアの力が海を抉った。届くべき泡が押しつぶされ、私達は一瞬にして海上に跳ね上げられた。
 私の肩から身を乗り出したニアは、興奮したように海に向かって捲し立てた。今までの優位に立っていた余裕を失い、傷に塩でも塗り込まれたような、火を付けられたような鮮烈な怒りで顔が歪んでいる。
「私が生まれた世界では、私は全てを自由に出来たわ! 私に生意気な事を言った奴は、みんな殺してやったわ! 強大な国も私の気分次第で壊してやることも、貧しい国を繁栄させてやることも出来た。私を『気まぐれな空の悪魔』と誰もが恐れ慄いて、顔色を窺っているのよ…! この世界を壊してやると、私は決めたの! 誰も私を止めることも、変えることも出来ないわ!」
 ニアは毛を逆立たせ、殺気立った目で海面を見下ろした。
「あの鯨…! 殺してやる…!」
「ニア」
 私は白い猫の胸元を抑える。冷静に、刺激しないように言葉を選んで、穏やかに話しかける。
「貴女の目的はササであって、ルーじゃないでしょう? 貴女がルーを殺せば、テテラからバルダニガに伝わるわ。どうなるか、読めなくなる。ササとバルダニガが融合した状態で、私と戦わせたいのでしょう? 私がやり易いように、協力してよ」
 ニア。貴女の言葉が血を吐くように辛くて、私も聞いていて辛かった。
 自由だと叫んでも、どんなに力を持っていても、満たされていない。孤独で、寄る方がないのが伝わってきた。彼女の本当の目的のためなのだろう。ニアは私の言葉に考えを改めて渋々と矛先を収めた。
 貴女は、一体何を望んでいるの? それは、貴女の孤独を満たしてくれるの?
 私は怒りを噛み締めて飲み込んだ白猫を、優しく撫でた。その心が少しでも和らぐように…と。