近藤美亜はミアリアークを知っている

「はーい! 姉貴、約束のテキーラ! かんぱーい!」
 この男はトーレカの来世に違いない。そう確信する怠そうな同年代の男が、杯を挙げる。
 目の前のテーブルには所狭しと食事が載っている。肉料理やサラダ、揚げ物に卵料理にふんわりと餡が掛けられたものもある。驚いたのはテーブルの上に火の出る板が載っていて、その上に陶器の器が置かれてぐつぐつと煮えている料理だ。どれも見たことのない料理だが、良い匂いに腹の虫が主張する。
 よく見れば、アーゼの郷土料理が混ざっている。捕虜の時代に何度か食べたことがあって、懐かしく思う。
「その、かんぱい。絶対、乾杯の意味じゃないでしょ! 完敗の方だろ! ばか透!」
 力が全く入っていない掌で、ササがトールと呼んだトーレカそっくりの男を叩く。来世であっても前世のイゼフとトーレカくらいの年齢差がありそうで、家族ならではの親しみが溢れている。その様子を眺めていると、胸が苦しくなる。
 ササが小さい硝子のグラスを呷ると、大きなため息なのか呻き声なのか分からない声を上げる。
「夜勤明けから帰ってきたら、一部とはいえ生活必需品が近藤さん家に持ってかれてるとか! 非常識にも程があるよ! どうして、そんな強引なことしてくるんですか!」
 最後の言葉は私に向けられているらしい。
 いや、来世の私が何を思って、そうしたかは知らない。来世の世界に帰ってしまったニアに接触しようと思うと、来世である近藤美亜の中に入ってしまうらしく、気がついたらこの宴席に座っていたのだ。席を外す機会を逸し、彼らと酒を飲み始めてしまい今に至る。それ以前のことなど、把握できようか。
 答えに窮していると、トールが爆笑しバルダニガだろう大型の黒犬を撫で回す。
「そりゃ、姉貴。相手は近藤だぜ? だーから言ったじゃん、姉貴が勝てるわけねーよ…って!」
 トーレカは父親の影響で酒を全く飲まない男だったが、素面とは思えぬはしゃぎぶりだ。ササも呷っては小さい厚い硝子のグラスをテーブルに叩きつけて、酔っているような顔色ではないが興奮してまくし立てる。来世の私の行いが話題の中心らしいが、それに対して怒っている感じはなく楽しくて興奮しているようだ。そんな二人に挟まれて、バルダニガは嬉しそうにじゃれついていた。
 話の流れから、この家は来世の近藤美亜の家なのだろう。ササの家に比べれば、広々している。木々の温もりを感じるシンプルな家具、植物があって、目に付く小物の趣味も私好みだ。外は暗くなっているのか、カーテンの向こうは闇が広がっている。
 視界の中にはニアはいない。今後の相談を兼ねて色々と探ろうと思ったのだが…。ササの家にいるのだろうか? ニアに会えなかった場合は、自動で本来のミアリアークの中に帰れるのだろうか? きっと帰れはするだろう。私はニアに協力すると宣言し、裏切るような行動は一切していないのだ。利用する価値がある以上、このまま美亜の中に残されて消滅することはあり得ない。
 賑やかな2人と1匹を眺めながら考えていると、掌に汚れがあるのに気がついた。いや、汚れではない。文字だ。
『ポケットにメモ』
 そう、認識する。私が普段使っている文字ではなく、来世の世界の言葉だろう。見たことのない直線や曲線の組み合わせた塊がいくつか連なっているそれの意味が、ふと脳裏に浮かんでくる。ポケット。無意識に向かった手が上着のポケットに触れると、かさりと乾いた感触が指先に触れる。抜き出して二つ折りになった小さい紙を広げれば、来世の言葉が書かれている。
『部屋の机の真ん中の引き出し。青いノート』
 綺麗に整ってバランスの取れた文字だと思う。目の前の二人のどちらかなら言えば早いのだから、これを私に寄越したとは考えにくい。なら、誰が渡してきたのだろう。ニアだろうか?
 席を立った私に、ササが顔を上げる。
「近藤さん。どうしました?」
「ちょっと、部屋に用事が…」
 言葉尻を濁したが、ササもトールも了解と言いたげに宴会に戻って行く。バルダニガがササに飛びついて、ササの悲痛な呻き声とトールの笑い声が廊下に流れ込んでくる。薄暗い廊下にはいくつかの扉があるが、美亜の部屋だろう扉は直ぐに分かった。
 ベッドと机、クローゼットだろう作り付けの扉があるだけの部屋だ。必要最低限しかない部屋で、目的の机も直ぐにわかる。机には座り心地の良さそうな椅子と、金属の板のようなものと、棚が収まっている。棚が紙に書かれた引き出しだろう。
 底の浅い引き出しが二つ、底が深めになった引き出しが一つの三段式の棚だ。触れると棚ごと動いてしまって、びっくりする。下に車輪が付いていて動くようになっているようだ。棚を動かす必要性などあるのだろうか? 来世は不思議だ。気を取り直して真ん中の引き出しを開けると、青いノートは直ぐ取り出せる位置にあった。
 真新しいノートだ。表紙を開けると、掌や紙に書かれたものと同じ文字がびっしりと書き連ねられている。
『始めまして、ミアリアーク。私は近藤美亜。貴方の来世なんですってね』
 びくりと体が強張った。
 近藤美亜。私の来世の名前であり、この体の持ち主だ。なぜ、私のことを彼女が知っているのだろう?
 ファルナンは生まれ変わっても前世の記憶を失うことはなかったそうだ。ファルナンは来世の私のことを滅多に話題には上げなかったが、関係は良くないらしいことからミアリアークとしての記憶はないに違いない。私だって前世など覚えていない。前世を知らないことが、普通であるのだ。
 分からない文字でも、目で追えば意味が浮かんでくる。
『驚いたかしら。先日、貴女が私の中に入ってきた時に、どうやら貴女の記憶を私も知ることができるようになったの。普通は夢で片付けてしまうのだけれど、めぐ姉さんに危険が及ぶのかもしれないのでしょう? そんなことを知ったら、居ても立ってもいられなくなってしまったのよ』
 思わぬ人物の登場に、私は食い入るように文字を眺める。
 めぐ姉さんとは、ササのことなのだろう。ササに危険が及ぶというのは、私とニアの会話を記憶として認識しているのだ。しかし、私がルーと戦い水の神テテラの力を授かったことに言及していないのは、単にまだ話題に上げていないのか、私が美亜の中に入った時点で記憶が更新される仕様なのかもしれない。
『私も出来る限りの協力はするわ』
 文字は読みやすく美しい筆致で続いている。
『まずはどれくらい効果があるかは分からないけれど、めぐ姉さんと白猫ちゃんを引き剥がすことから始めるわ。元々、シェアハウスするつもりだったし、部屋からめぐ姉さんが必要としている荷物を引き上げるくらい、業者に頼めば数時間も掛からない。めぐ姉さんが夜勤三昧なのも好都合ね』
 なかなか強引。嫌いじゃないわ。
 しかし、ササがあれほどまでに感情を荒立てて、理解できないと叫んでいるのを見ると理由を告げてはいないのだろう。前世の世界に連れて行かれ、バルダニガの器にされ、イゼフという前世の彼女と行動を共にしてきたことを思えば、近藤美亜がミアリアークの記憶を持っていたなんてことは驚く程のことではないはずだ。実際にファルナンは、前世の記憶のことを早い段階でササに打ち明けていたと言っている。
 説明をしなかったことには、理由があるのだろう。文字を追う。
『ミアリアークは猫は好きかしら? 仕事が忙しくて飼えないけど、私は好き。あの白猫ちゃんは本当に美人さんだったから、悪いことをしたと思ってはいるの。めぐ姉さんの部屋に、餌を持って行って面倒を見るついでに動向も探っているわ』
 魔力も魔法もないこの世界において、なんと勇敢なのだろう。感心を通り越して無謀にすら思える。
 私の考えを予測していたかのように、美亜がノート上で言い返す。
『氷の魔女だなんて大それた二つ名を持っている貴女なら、私の行動を無謀と思うでしょうね。でも、無知のフリをして相手を油断させるのも立派な作戦よ。ニアはこの世界の力のない人々を侮っている。とても、気持ちの良いことではないわ』
 死んでも、生まれ変わっても、私は私なんだな。思わず笑みがこぼれた。
 きっとササと戦う準備している私を知ったら『貴女も十分無謀よ。ルーが手加減してくれて、良かったわね』と、書き込まれていることだろう。有利だからと誰にも知らせず、独りで抱え込む。私も美亜も大差ないわね。歯に衣着せぬ物言いで、なんだか気分が清々するわ。こんな姉妹が欲しかったと、今更ながらに思うくらいだ。
『ニアちゃんはめぐ姉さんの家に居着いているわ。可愛いから許してあげるけど、なかなかグルメよ』
 ノートには事細かに必要と思われることが書かれている。
 美亜の家からササの家への行き方。ニアがリクエストしたらやってほしいと、ササの家に置いてきた猫缶の開け方が描かれているのには助かったけれど、ちょっと説明の絵が下手すぎて開けられる自信がないわ。
 家にいて宅配などが来た時の対応。ボタンを押して、エントランスの扉を開ける? 小さい黒い筒の蓋を開けて、配達員の指定した場所に押し付けるってどういう意味かしら? 来世は色々と面倒なことが多いのね。
 電話は無理に出なくていいって、出ちゃったらどうすればいいのか教えてくれないと困るわ。
 難しくて半分も頭の中に入ってこなかった。そうして、文章は終わりに差し掛かる。
『解離性同一性障害みたいで、面白いわね。こういう障害を持った人は、他の人格と交換日記をつけて交流していたと聞いているわ。情報を交換する方法として何が一番優れているかは、互いに探って行くしかないわね。ミアリアークの記憶は残るけれど、重要なことはこのノートに書き残してくれると助かるわ』
 逆に近藤美亜の記憶を私が知れないので、ノートの存在はありがたい。
 記憶は得られないが、こうしてこの世界の文字を認識できるのだ、互いに影響は受けているのだろう。分からないことだらけではあるが、体が覚えているのか必要最低限が理解できているのも助かる。
『貴女はめぐ姉さんのことを『ササ』と呼ぶみたいだけれど、私の体を使っている時はきちんと『めぐ姉さん』と呼んでね。めぐ姉さん、隠し事が苦手なのよ。白猫に私達が繋がっていると感付かれたら、私がニアちゃんに警戒されて接触できなくなってしまうわ』
 ふふ。勇ましいわね。思わず笑い声が漏れた。
 きっと、これからも美亜は私に対して色々と書き残してくれるのだろう。彼女なりにササを守りたい気持ちが伝わってきて、心強くなる。最後の一文になるだろう次の言葉は、『これからよろしくね』というような、定型文ではなかった。
『ねぇ、ミアリアーク。本当に高槻くんの前世であるファルナンって男性と夫婦なの? 私、高槻くん好きじゃないのよね』
 思わず吹き出した。
 好きじゃないのね。好きじゃないんだ。堪えなければ声をあげて笑ってしまいそうだ。
「近藤。どうしたんだ?」
 半開きになっていた扉からトールが覗き込んで尋ねてくる。私は『なんでもないわ』と答えながら、ノートに一言書き込んだ。
 私もそんなに好きじゃないかも。と。