ランフェスバイナは闇と向き合う

 ファルナンは相変わらず優秀だった。
 失われなかった剣術と我が力を合わせて、ただ直線に光を穿つだけではなく、剣に乗せて薙ぎ払い鋼の刃に覆いかぶせて攻撃力を純粋に上げる。早く、応用ができ、今のファルナン自身の力を最大限生かせる方法だ。我と呼吸を合わせるのが比較的難しかっただけで、ファルナンは難なく我が力を体得したと言える。
 ファルナンは持てる力と新たな力を合わせて、危機に立ち向かおうとしている。人間の割には、良く出来る方だろう。
 力の使い方を体に叩き込もうと、跳ね回るバルダニガと実戦に近い対戦をしている。それを少し離れた木の枝の上から見ていた。鎧を脱いだ軽装はぐっしょりと汗を吸い、ファルナンの榛に近い茶髪から汗が飛び散る。ファルナンは服を脱いでそれで汗を拭い、傍らで絞って大量の汗を大地に落とした。
 バルダニガが元気を持て余しているように、ぐるぐるとファルナンにまとわり付く。
『ファルナン頑張るねー。筋が良いから、そんなに頑張らなくても良いのにー』
「皆の命を背負ってるんだ。努力を怠って負けるだなんて、したくない」
 ふぅん。バルダニガが興味なさそうな返事をする。奴は修練を遊びと捉えていて、ファルナンが遊んでくれるのが楽しいだけなのだ。我としては腹立たしいが、ファルナンはバルダニガの性格を理解しているらしく激怒することはなかった。
『真面目だな。俺には真似できそうにないよ! ファルナン、まだまだ遊ぶ?』
 乾いた服に袖を通しながら、ファルナンは『ちょっと休憩する』と返した。時刻は太陽が最も高き頂にのぼる頃。人間達は食事をとる頃合いだ。修行場所としてバルダニガの器の子供が提供したアーゼ・ナシュームは、深い山が荒波のようにそそり立つ山岳地帯。そこに、ファルナンとミアリアークの子供達も来ているのだ。
 ファルナンは修練を離れて休憩する間は、子供達と過ごすようにしているようだった。
 背を向けようとするファルナンに、魔王はしゅんと耳と尻尾を垂らす。その様子を見て、ファルナンは苦笑しながらバルダニガの頭を撫でた。扱いが完全に犬である。それが魔王であると、獣の神であると、どうして忘れてしまうのだろうか?
「また、後で修練に付き合ってくれよ」
『うん! 俺、ここで良い子にして待ってるからな! おるすばんっていうんだろ? 違う。まて、かな?』
 来世の言葉なのだろう。意味はわからないが、ファルナンの呆れ顔から魔王には相応しくない表現なのだろう。
「あの人、本当に魔王に何教えてるんだ」
 じゃあな。そうファルナンは手を振って坂道を駆け下りていく。それをバルダニガは見えなくなるまで見送っていた。見えなくなると千切れそうになる程に振った尻尾が、ようやく落ち着いて垂れ下がる。バルダニガは毛繕いをすると、日のよく当たる岩場の上に乗って寛いだように座った。
 バルダニガは微動だにせずに前を見ている。
 角度は違うが、我もバルダニガと同じ方角を見た。目の前に山々の谷が連なり、遥かアーゼ自治領の全てが見下ろせた。真下にある技術都市ナシュームの石造りの街並みは、白い蒸気を吐き出し山の雲と合流する。谷底の川は合わさり、パセカを潤す大きな流れとなる。かつてアーゼ王国であった荘厳なロハニウは、ここでは精巧な美術品のようだ。小さくダルフとその背後に広がる商業の中心地が、モザイクのように霞んで見える。唯一見えないのは、バルダニガの眠る地だけだろう。
『良い眺めだろ。俺の器が竜の時代…ナシュームが大好きだったんだ。その後の器達も、この地が生まれじゃないササも好きって言ってた。嬉しいな』
 そういえば、ナシュームという器がいたな。竜であった彼の登場は、バルダニガの器の一つの転機であった。
 バルダニガは穏やかに我を見たようだ。闇に瞳はないが、視線が向けられているのがわかる。
『ランフェスバイナと、こんなにゆっくり一緒の時間を過ごすって初めてだな。面白いね』
 我の鋭い視線に、バルダニガが跳ねた。バルダニガが座っていた場所に、細く煙が立つ。
『我は薄汚い獣と馴れ合うつもりはない』
『まじめー』
 バルダニガは軽い口調でそう言うと、定位置だろう先ほどの場所に戻ってきた。前足を舐める仕草は、滑稽なほどに獣そのものだ。この闇には全く意味のない行為であるのだが、この世界の理の外の常識を持った器が、闇である獣の神を理解せずに認識した結果なのだろう。神が器の影響を拒否する方法があるとしたら、器を呑むしかない。
 闇は呑気に日の光を浴びる。光を吸い込んで真っ黒い塊が、我に語りかける。
『でも、良いんじゃない。だって、君は俺を止めるのが使命だって思ってるんだもんね。情が移ったら殺しにくくなっちゃうもん。こんなに面白いことばかりだから、俺は殺されるのは全力で拒むけどさ』
 我は闇から視線を外した。
『俺はランフェスバイナになら、滅ぼされても良いと思ってるから』
 うるさい。
 聞きたくもない言葉だった。視線の外にいる闇に吐き捨てる。
『なら、今すぐ滅ぼされろ』
 視界が光に爆ぜた。燦々と光が照らす世界は、我にとって有利である。例え力無き蜥蜴に堕ちたとしても、光の中ではバルダニガをどこからでも突き刺すことはできた。案の定、バルダニガは短い悲鳴を上げて、岩から転げ落ちたようだった。眼下の木の根本から、獣が恨みがましく見上げてくる。
『痛いなぁ。そんな短絡的な勇者様じゃ、嫌われちゃうぞ』
 理の外に器がいるのだから、希薄な状態でしか存在できないバルダニガに痛覚はないだろう。ただ、バルダニガが生命として認識されているから、痛覚を演じているのだろう。癪に障る。
『ねぇ、ファルナンにどうして教えてあげないんだい? 君が、世界を救った英雄だって』
 ふん。思わず鼻で笑う。
 随分と懐かしい話だ。バルダニガという名前が、まだ獣の神の中に存在していない古の話だ。
『知らせる意味がない。我が貴様を滅ぼす為に、アーゼ侵攻を唆した事実は変わらぬ』
『でも、事情があるじゃん。獣の神が手に負えない暴君だったから、君は全ての生命の希望を背負って戦った。器は破壊の化身で獣の神の残虐非道な行いを世界に振りまいたから、殺さないといけなかった。だから、君は俺を滅ぼそうとするんじゃないか』
 そうだ。その通りだ。
 だが、それを理解できる人間がもういない。
『神話は、もう現代にはそぐわない』
 残虐非道で天災のような獣の神は、バルダニガのさらに深い所で今も微睡んでいる。バルダニガの器達は語り継いだ周囲からの経験を糧に、獣の神と折り合いをつけられるようになった。理性を保つことに優れた竜が器であった時代に、獣の神は器から言葉を学び、知性を得た。アーゼの王が器であった時代に、闇は他者に好意を持ち失う苦しみを知った。
 いつしか、獣の神は死を恐れるようになった。大事にしている己の名を冠した大地に生きるものの死を、恐れるようになった。器に求める。将軍になって、己の名を冠する大地とその命を守って欲しいと。それは、驚くべき変化だった。
 獣の神の器達は途方もない年月をかけて、獣の神の心を育てたのだ。自分達のために、仲間のために、世界のために、そして孤独で狂った獣の神のために。
 今度の器は理の外を見せる。この目の前の闇は何を思うのだろう。
『ランフェスバイナ。俺、変わっただろう?』
 変わった。もう、世界は何事もなければ平穏に時が過ぎ去っていく。我が古の認識のままに続けていた、獣の神を殺す理由は失われつつあった。
『君も、良い加減変わったら?』
 変わる。
 我はその甘美な誘惑を振り払った。
『貴様は何も変わっていない。バルダニガ。お前は我が獣の神アーゼから切り出した、ほんの一部でしかない』
 我が本来あるべき獣の神の名を魔王バルダニガとして人々に浸透させ、獣の神を作り替えたのには意味がある。獣の神アーゼは強大で残虐で気まぐれな存在だった。大きすぎて、複雑で、己自身を持て余す。だから名を与えた。名は存在に食い込み侵食し、バルダニガは獣の神の一部であり、獣の神もまたバルダニガの一部として共存するようになった。
 それでも、まだ脅威は失われたわけではない。
『貴様は相変わらず世界を滅ぼす脅威でしかない』
『真面目だな。可哀想に』
 心の底から憐むような声だった。
 闇は私を見上げる。どんなに覗き込んでも底が見えない闇を、我はこの世界に存在した時から凝視していた。いくら貫いても照らせぬ深く泥濘んだ黒もまた、我を覗き込んでは果てが見えないと思っているのだろう。互いに相容れない。我々はそうあるべきだった。
『俺はランフェスバイナになら、滅ぼされても良いと思ってるから』
 言うな。
 そんなことを言うな。
 我は望んで貴様を滅ぼしにいくのだ。残虐非道な暴君に苦しめられる全ての生命のために、その暴君に苦しめられ殺される哀れな器達のために、そして自分自身を制御できぬ哀れで孤独な獣の神のために。全てを解放してやるには、貴様が滅ぶのが一番良いのだと思えなければ、我は背後に庇うべき全てを死なせてしまう。
『ササが教えてくれたの。大事なことは、二度言うんだよって』
 なんだそれは。
 二度も心を刺す言葉は、聞きたくもない。