バルダニガの器は前世に介入する

 アーゼ・バルダニガがざわついている。その原因が、この揃い踏みしたアーゼの領主達だ。
 俺はタシュリカの刺繍が施された白いフード付きの外套を翻し、神殿の中心を目指して歩いていた。その後に他の地域の領主達が続く。なかなかに凄い絵面らしく、獣交官達が慌てて脇に避けては、振り返ってひそひそ話が聞こえてくる。
『もうそろそろ、バルダニガ様の器がお見えになるそうですね』
 そうアーゼ・パセカの領主が言う。立派な角を持った牡鹿で、パセカの深き森を統括する種族の長だ。背にパセカの紋章を施した美しい織物が掛かっている。パセカの領主は大抵温厚な性格の者が着任することが多くて、それぞれの領主達の仲介をしてくれて助かる。そのまま王様でもやってくれりゃあ楽できるんだが、人間社会が絡むと途端に面倒になるらしく聞き入れちゃくれないのな。
『俺、見たことあるぜ。バルダニガ様に押し倒されて、もだもだしてた。ありゃー、鈍間で直ぐに喰われる奴だな』
 立派な角に留まっているのが、アーゼ・ナシュームの特使である大鷹だ。特使の証である金とルビーの輪が足首にきらりと光る。アーゼの宝を意味する地はナシュームの名を襲名する竜の一族が長を勤めていて、現在は過去にバルダニガの器を担った竜の孫が治めている。アーゼの長老と呼ばれるナシューム様は図体がでかいので、基本的に領主の集まりには特使を出す。
 大鷹の言葉に眉を顰めたのが、強面の偉丈夫の男。ひと睨みで心を手折る威圧感でありながら、治癒の魔法に秀でたアーゼの知識を収集し発展させるロハニウの学長だ。学長の正装は重厚なローブで、王宮時代の名残でもある。
「全く、イゼフ殿は…。これほど重要な事態を隠匿されるお人ではなかったのだがな」
「まぁまぁ、細かいことは良いじゃないか。バルダニガ様の器は、ランフェスバイナの戦争が片付いたら、帰っちまう契約だったんだろ? あんな速攻で片付けちまったんだ。事後報告の方が書類が少なくて楽ちんじゃない」
 頭から突き刺してくるような甲高い笑い声に、領主達が半歩間を開ける。アーゼ・ダルフの長は同盟軍と商業組合の話し合いで決める。だが、同盟軍のあり方が大幅に見直されて商工組合の組長が領主を兼任することになった。ササの物語に速攻で食いついてダルフ中を歩き回って、出版劇団大道具を作る職人お針子など、あらゆる業界を繋いで大成功したやり手の女将だ。
 そしてアーゼ・バルダニガの長は必然的に器だったイゼフの息子である、俺だったりする。仕方がねぇのはわかってるよ。親は選べねぇもん。親父もよく申し訳なさそうに謝ってたし、親父はなんだかんだ言って良い父親だったし、この地位は致し方ないと思ってる。
 でも、この状況だけは、親父のやつ俺に上手く面倒事押し付けやがってって恨むわ。
「ぱぱっと器の儀式を見届けちゃいましょう。ランフェスバイナ消滅で市場が大混乱なんだもの、こんなくだらない儀式に参加する時間も惜しいんだからね!」
「バルダニガ様の器になる儀式は、アーゼの歴史と文化の象徴です。くだらない、は感心しませんな」
 うわー。ロハニウもダルフも近づくんじゃねーよ。お前ら聞き流すって文化を活用しようぜ…。
 親父がファルナンによってバルダニガの器としての力を打ち消された後、後任の器としてやってきたササ。実はササのことはアーゼの領主達には報告していなかった。ササのことを知っているのは、あの時前線にいた兵士達だけだ。
 事情は色々あるが、一言で片付けるなら『面倒だった』だろうな。
 陥落寸前までランフェスバイナに侵攻していた状況を中断して、捕虜にした『氷の魔女』を小脇に抱えて、バルダニガの新しい器についてのあれこれを説明するのが面倒なのはわかる。俺も、ササのことを説明するのはとても面倒だ。
 面倒に拍車をかけたのが、親父が死ぬまではササの存在はバレなかったという事だろう。なにせ親父がバルダニガの器でなくなったなんて、領主達は疑うことすらできない。ナシューム様だけは勘付いて特使を飛ばして確認はしたが、それを他の領主に態々知らせるほどの甲斐性はない。しかし、噂話が大好きな鳥類が噂を運んで広げるだけ広げて、ダルフに忍び込んだネズミ共が情報を漏洩しまくり、シルフィニア女王が崩御した時にはバルダニガの新しい器の噂は誰もが知るところになってしまった。
 噂で終わったのは、ササが来世の世界にとっとと帰ってしまったからだ。あまりにもあっさり帰ってしまったので、名残惜しさなんか感じてる暇すらなかった。それが功を奏して『新しい器が居たけど、帰っちゃいました』で終わったはずだった。
 だが、ランフェスバイナが消滅して事情が変わった。
 ササは一時的とはいえ、バルダニガの器として介入して来る。
 戻ってくるのだ。噂のバルダニガの新しい器。戦争を終わらせた、影の英雄。今やアーゼで最も有名となりつつある、物語の執筆者。バルダニガはファルナンを連れて来て世界中あちこち出没しているから、新しい器がいるという事実だけが一人歩きしている。背鰭尾鰭に翼や角まで好き勝手つけられた、噂の人物の登場にアーゼがざわついている。各領主が集まれば、いまかいまかと秒読みだ。どこから聞きつけて来たのか、めちゃくちゃ鳥が集まって来てる。お前らがちゅんちゅん五月蝿くて、俺は隣の会話も聞こえねぇわ。
 ここで問題になるのが、器の儀式である。
 バルダニガの器になるには、手順がある。魂を宿した器が、無条件に神の器として窓口になるわけではないらしい。親父は魔王の話を幼少に聞いてから認識し、目の前に現れるようになった闇に器になって欲しいと頼まれたらしい。親父は最終的にそれを承諾して、バルダニガの器になった。ササの器になる経緯が異常なだけで、互いの了承が不可欠なのだ。
 魔王が望み、器が受け入れる。バルダニガと器の間ではそれで終了なのだが、社会的にはそうはいかない。その受け入れた状態をお披露目し、各領主達や民がバルダニガの器と認める儀式があるのだ。いうなれば、器の誕生に託けた祭りだ。
 絶対、ササはそういうの嫌い。頼んでもやってくれない。だって、ササの目的はランフェスバイナを消した奴をぶっ飛ばすためであって、『世界の危機より重要?』ってお披露目を拒否するのが目に見えてる。親父もそうだったが、優先順位を土返しできないなら頑なだ。絶対無理。
 そこで俺は考えたのだ。
 ササが来る、そのタイミングに儀式をぶつけるのだ。
 自画自賛じゃねーけど、天才的発想だ。
 要は皆の前でバルダニガとの融合している状態を見せつければ良いのだ。ササはこの世界にくる時、バルダニガと融合した状態になって来るだろう。それを皆に見せれば良い。そしてバルダニガの器の証である、黒の獣交官の外套を着せれば完璧だ!
 あー! 俺ってばあたまいいなー! これで、全部解決だ! 絶対、これしかないな!
 バルも神殿でササを招くのは構わないって言ってたしな。ただ、ファルナンと違って『ササなら何処にいても連れて来れるんだけどね』と、首を傾げはしてたけどな。
『イゼフも甘い男だったが、新しい器は腑抜けも同じだぞ。あんなのが新しい器でバルダニガ様も良いんかねぇ?』
『確かに鈍臭くて直ぐに狩られて淘汰されそうな人間とは聞いていますが、それを判断するのは我々ではありませんよ。ナシュームの特使。貴方は長老の代弁者として来ているのですから、少しは口を慎まれた方がよろしいでしょう』
 お前ら、ササをよく知らないから適当に物言いやがって…。
 ササが来る本番前から疲労感が凄いが、噂が広がって親父が死んで言い逃れてた日々から、いきなり儀式の準備に駆けずり回る羽目になった日々も終わる。後もう少しだ。がんばれ俺。
 アーゼ・バルダニガの中心に踏み込むと、そこは既になかなかの密度だった。鳥達は枝という枝にぎゅうぎゅう詰めに留まっているし、獣交官も全員集合の状態だ。大樹の根本には毛繕いしているバルダニガに向かい合うように、ファルナンとランフェスバイナが立っている。ファルナンがこちらに気がついて、目を見開く。
「アーゼの要職が全員集合とか、何かあるのか?」
「ここにいる全員、ササが見たいんだってよ」
 全員。その言葉にファルナンが周囲を見回した。全員。小さく、ファルナンが呟く。
 バルダニガが領主達に戯れつくと、領主達もそれぞれに挨拶をする。最近はアーゼ領土を飛び回っているバルダニガに、領主達も親しげな笑顔を見せる。挨拶が一通り終わり、ダルフとロハニウの領主達が冷え切った会話を始めた頃だった。
 バルダニガがぴくりと動きを止め、俺達を見た。
『ササが来るよ』
 燦々と降り注いだ日差しが突然曇る。いや、雲で太陽が遮られたわけではない。太陽に蓋をするように、黒いものが太陽を遮っている。太陽を隠した黒い丸から光がこぼれ、まるで空に大きな輝く指輪が浮いているかのようだ。
 日食だ。ロハニウの領主が隠れた太陽を見上げて呟いた。
 まるで夜のようになった世界の中で、闇が傍に立っている気配がする。後ろ足で顔を掻いていたはずのバルダニガは、もう、そこにはいない。風が肌を撫でるように、闇がふわりと触れて来る。まるで肉食獣が仕留められる獲物かどうかを品定めするような、舐め回すような視線を感じる。もし、指一本でも動かせば殺されてしまうかもしれない。ひやりと本能が不安を煽る。
 あれほど五月蝿かった鳥達は一つも声を発することなく、飛び立つこともしない。声を出すことも、逃げ出すこともできず、ただ脅威が過ぎ去るのを待つしかない。時が止まったかのような静寂は、日の光と共に動き出す。
 太陽を覆っていた闇がさらさらと崩れて、黒い雪のように舞い降りて来る。それは蝶であったり鳥であったり魚であったり、世界に存在するありとあらゆる形になって空間を泳ぐ。くっついては大型の生命の影になり、崩れては小型の獣になる。風もなく舞う黒が集まり圧縮する。闇は人がすっぽり包まれる程度の大きさに凝縮されていた。
 闇から白い腕が生えた。腕が横に流れ静止すると、闇は大型の犬を彷彿とさせるバルダニガに変じる。変じると同時に凝縮された闇は人と分離した。獣の神である闇の頭を撫でる、自信の無さそうな表情を浮かべる女性。ササが立っている。
「やぁ。皆さんお揃いで」
 控えめだが嬉しそうにササは笑った。
 その言葉の暖かさに、息を呑んだ者達は安堵の息を吐き出しただろう。ざわめきが戻って来る。おそらく、歴代の器の中では最高の実力者だろう力の一片に触れた畏怖と、滅多にできない経験に興奮した感情がアーゼの生命を細波のように伝っていく。
『随分と派手な登場だったな』
 ランフェスバイナの刺すような言葉に、ササは眩しげに手を翳した。
「あぁ、ランフェスバイナさん。バルダニガ経由で予々存じておりますが、お久しぶり…ですかね? 敵意をざっと探ったんです。引っかかりませんでしたから、悪意は今のところ攻撃の意思はないのでしょうね。開幕狙撃がなさそうで安心しました」
『融合している状態では、世界に貴様が来たことを宣言するも同じだぞ。敵の思惑の裏をかこうと思わぬのか』
「え。早速ダメ出しされてるんですか? えぇ。うーん。ど、どうすれば良いのか教えてくれないと困りますよ」
 目を刺す叱責に、ササがおろおろと周囲を見回す。いや、どうすれば良かったなど、俺達が分かる訳がない。答えに窮して偶然隣に立つことになった隣人の顔を見合わせるしかない俺達に代わって、光る蜥蜴を両手で握り締めたファルナンが叫んだ。
「口の減らない蜥蜴の言葉は聞かなくて良いよ! 佐々木さん、来てくれてありがとう!」
 ファルナンの厚手のグローブすら光が貫通しそうだ。そんな手元をきつく抑え込み、ファルナンはササに頭を下げた。蜥蜴を押さえ込もうと悪戦苦闘するファルナンの後頭部から、視線をバルダニガに向けるとササは眠そうなくらい穏やかな声で言う。
「バルダニガ。ちょっと確認に行って来てくれますか?」
 闇は不満そうな声を上げる。
『俺、ササと一緒が良いから行きたくない』
 ササの目がすっと細められる。表情の抜け落ちた顔は、温度のない人形のように不気味で恐ろしい。
 怖い時の親父の顔だ。怒鳴りはしない。相手を罵ることもしない。ただ、見捨てられ、関心が失ったとわかる冷たい感情が顔を覆っているのだ。実際には一瞬のことで永続することはないのだが、相手を縮み上がらせるには十分だ。やはり、ササは親父の来世だ。こわいこわい。
「メンチカツ」
 何を言っているかはわからない。しかし、来世の言葉だろうそれは、バルダニガには伝わったらしい。
『ササのご飯が美味しいのが、いけないんだからね! うぅ、そんな怖い顔で見ないでよ。俺のために余分に作ってくれてるくせに、素直じゃないんだから』
 逃げるようにバルダニガが跳ねると、タシュリカの形になって空を舞い上がった。そして旋回してナシュームだろう方角へ飛んでいく。
 ふぅ。溜息と共に冷たさを吐き出したササに、俺は歩み寄った。
「ササ。これ」
 親しげな顔で迎えたササは、俺が差し出したものに首を傾げた。
 それはササがこの世界にやって来た時、親父が貸し与えた獣交官のフード付きの外套。しかし明らかに違うのは、外套の色が漆黒であることだ。獣交官には地位や実力を見分けるために、外套が3種類存在する。見習いの純白、得意な獣が刺繍された一人前、そして最上位である全てを飲み込む黒。様々な獣を金の刺繍で縁取った漆黒の外套は、バルダニガの器しか着ることが許されていないのだ。
 ササがこれが親父の外套だと察しないのは、親父が将軍として前線に立つ時は着なかったからだ。その代わり全身黒づくめではあったが。
「白じゃないんですか?」
「探したんだけど、丁度無くなっちゃってね」
 ごめんな、ササ! 俺、ササがバルダニガの器だって知らせて歩かせるようなもん着せるのは、どうかなーって思ってはいるんだよ。でも、規則だし、色々面倒だったし、ササが自分で説明してもらって良い加減楽したんだよね!
 騙してるみたいで悪いと思う。俺を信頼してくれてるのか、ササがあっさり受け取ったから、申し訳なさが半端ない。
「そうなんですか」
 躊躇いもなく羽織った姿を見て、背後で感動する声が上がる。終わった。とりあえず、儀式が終わったわ。頑張ったよ、俺。
 ちょっと泣きそうになった俺を、ササが見上げている。顔全体に広がった心配と労りが、俺の涙腺を容赦無くこじ開けようとする。懐かしい。気配が親父そのもので、とても心地がいい。もう二度と会えないと思ってたからこそ、親父の死と再会を自覚させて来る。
「トーレカさん、大丈夫ですか?」
「う、うん。大丈夫」
 やめてくれよ。泣きそうになるじゃん。
 黒い外套の内側から闇が獣の形で首を伸ばす。ササの胸に前足を乗せ、顔をぺろりと舐める。
『見て来た! ササも見た? なぁなぁ、俺、お願いきちんとやってきたよ! 偉い?』
「はいはい。偉い偉い」
 あまり心がこもっていないと、傍からでも分かる手つきでバルダニガを撫でる。その手はそのまま口元に上がった。大きなあくびが漏れて、ササは涙目になる。バルダニガはそんなササを見上げて首を傾げた。
『ササ、眠いの?』
「あぁ、まぁ、眠いですね。夜勤は基本眠れないですから…」
 やきん? 不寝番の意味が伝わってくる。そういえば、ササは従軍医師の補助みたいな仕事をしていると聞いたな。
 言い終わらぬうちにバルダニガは外套の内側に入り込み、ササの体にまとわりついているようだ。ササの体がぐらぐらと揺れている。
『ササ! あの木の下でね、俺はいつも寝てるの! ササも一緒に寝よう!』
 あの木。アーゼ・バルダニガの中央に聳える巨木だ。花々が咲き乱れ、柔らかな草が覆う根元は確かに昼寝にはもってこいの場所だろう。しかし、その下で眠る者が誰なのか知っていれば、誰も眠ろうとなど思わない。
 ササは『ちょっと待って』と声を張り上げるが、バルダニガは聞いちゃいない。バルダニガはササを木の根元に押しやって、体当たりして木陰の心地良さそうな場所に転がした。逃げ出さないようにバルダニガが布団代わり言いたげに覆いかぶさって、ササがもだもだと抵抗している。いやぁ、ササの力じゃバルダニガは退かせられそうにないなぁ。
 黒い獣の影から、白い腕が伸び上がった。
「高槻さんー」
 顔を上げたファルナンに、ササの言葉が届いた。
「ミアリアークさん、生きてますよー」