ファルナンは妻と喧嘩する

 前世の頃から愛馬である栗毛の馬を、アーゼ・ナシュームに向けて駆けさせる。山岳地帯はアーゼ自治領では最も奥まっていて、馬を休まず駆けさせても1日は掛かる。俺の馬はランフェスバイナで一番の駿馬ではあるが、それでも半日を切ることは難しいだろう。アーゼ・ナシュームの子供達を預かってもらっている家にたどり着くのは、夜も更ける頃合いになりそうだ。
『ファルナン。考えもなしに飛び出すのは感心しないぞ』
 鎧の隙間に身を潜めるように風をやり過ごしているランフェスバイナが言う。佐々木の言葉を聞いて俺が駆け出した時も、トーレカが同じような事を言ったような気がする。
 ランフェスバイナ王国の滅びに巻き込まれたミアリアーク。その彼女が生きていると言うことは、彼女は敵の手に落ちていた可能性がある。どんな状況であるのか、全く予測できない。本来なら取り押さえることが出来る程度に戦力を伴って行くべきなのだ。トーレカに頼めばタシュリカに乗せて運んでくれたかもしれない。
「わかってる。冷静に考えれば無駄な行為だって思ってる」
 それでも、俺は急いでいる。
 一刻も早くミアリアークの無事を確かめたかった。
 ミアリアークが敵の手に落ちて、俺達の敵になってしまったとしたら子供達を安全な場所に避難させなくてはならない。
「でも、気持ちだけが先に行ってしまって、こうせざる得ないんだ」
 本当に危険なら、バルダニガが止めに来ただろう。だが、バルダニガが来ないのは佐々木がミアリアークが安全であること、ミアリアークが俺の行先にいることが分かっているからだろう。ランフェスバイナも『仕方のない奴だ』と呟いて、鎧の隙間に引っ込んでしまった。
 来世ではファンタジーものではお約束の魔物は、この世界には存在しない。ランフェスバイナであれば深い森も夜の闇も、恐ろしい獣が支配する恐怖の時間であった。しかし、獣の神を崇め獣と共存するアーゼだからこそ、魔物という概念が存在していなかった。星空が美しく大地を照らすアーゼは、長閑な程に平和で隣国が滅ぶ脅威など無かったかのように静かだ。
 馬が駆ける音と、等間隔に揺さぶる心地よさ。流れる景色の平穏さは、俺の中にあるミアリアークへの想いを募らせる。
 どうか。どうか無事でいて欲しい。そう、願いながら時間は過ぎ去り目的地が近く。
 アーゼ・ナシュームの工房が立ち並ぶ街並みを抜け、領主ナシュームが住む山へ続く道の途中で馬を留める。大きい庭がついた小さくとも手入れの行き届いた屋敷は、ナシュームに配置された獣交官の居住地だ。子供達は馬の足音を聞きつけたのか、馬から降りた時には玄関の戸が開いた。
「おとうさま!」「おとうさまだ!」
 前世のファルナンとミアリアークの子供達だ。高槻守としての血縁関係はないが、子供達は俺を父親と慕ってくれる。
 双子だが性別も違うし、パッと見ても見間違えるほどに似てはいない。二人とも日に当たれば金にすら見えるファルナン譲りの榛色の髪と、空を彷彿とさせる美しい空色の瞳だ。顔立ちはミアリアーク譲りで、ふっくらとした幼子らしい顔立ちでも絵画のような整った美しさがある。男の子がミルファークで、大人しくてミアリアークの魔法の才を引き継いでいる。女の子がアシュリアーナ。誰に似たのか分からないが、男勝りのお転婆娘だ。
 飛び出した二人を抱きとめると、二人ともはち切れんばかりの笑顔で俺に言う。
「かあさまが かえってきたの!」「かあさま いきてたの!」
 あぁ、やっぱり。俺は子供達から玄関へ視線を向ける。玄関の明かりで逆光になってはいるが、見間違えるはずがない。美しいさらさらとした長い髪。すらっとした輪郭。ランフェスバイナで普段着る、文官としての装束は真新しいままだった。美しい青い瞳が宝石のように光を吸い込んで輝いていた。
「ミアリアーク…」
 子供達を伴い、ゆっくりと近く。闇から浮き出た白い肌、通った鼻筋、凛々しい眉根、愛らしい唇。一つ一つ確認するように見つめて、俺は安堵を吐き出すように言った。
「無事でよかった」
 本当はそのまま何処にも行けないよう抱き締めたかったが、ミアリアークはだらりと下ろした片腕に手を添えて頑なに動こうとしない。まるで拒絶しているような気配に、俺は思い留まった。子供達に『大事な話があるから、中で休んでいなさい』と伝えて室内に入らせる。子供はもう寝る時間だ。子供達も不貞腐れながらも入っていった。
 子供達を見送ると、ミアリアークはぽつりと呟いた。
「無事…。そうね。無事ではあったわ。私だけ…ね」
 後悔の念の籠もった呟きだった。その拒絶は自分だけが助かった自責の念なのだろうか。責任感の強いミアリアークなら、そう思うことは不思議じゃない。しかし、不思議だ。あれほどまで完膚なきまでに消滅した国の中心にいた彼女が、なぜ助かったのだろうか?
「誰が、助けてくれたんだ?」
 ミアリアークが美しい瞳を瞬かせた。
「ニア。世界を滅ぼそうとする脅威よ」
 俺とランフェスバイナは顔を見合わせた。世界を滅ぼそうとする脅威。それが本当ならランフェスバイナを滅ぼした張本人が、ミアリアークを助けたことになる。一体、何のために?
「私を生かす条件として、ニアに協力することになっているの」
『敵の協力ということは、この世界に益することではなさそうだな。何をしろと言われているのだ?』
 ランフェスバイナが鋭く光って問いかける。
 故郷を守れずに自責に駆られる彼女に、世界崩壊を助長する行為をさせるとは…。ニアという敵は恐ろしく残酷だ。バルダニガが言っていたが、理の外からやって来た敵の目的は確かに俺には理解できないかもしれない。恐ろしいくらいのニアの敵意と悪意を、俺は感じていた。絶対に倒さなければと、ふつふつと怒りと闘士が湧き上がってくる。
「バルダニガの器を融合の状態で打倒すること」
 ランフェスバイナが愉快そうに笑った。
『それは、人の身では無理なことだ。もう、ササは貴様を把握している。不意を打つことも難しかろう』
 この世界に来た佐々木は融合の状態で世界を探ったらしい。その時に見たあの圧倒的な力に勝てるとは、とても思えなかった。融合していない、ただの佐々木恵を相手になら殺害も可能ではあるだろう。バルダニガの守護があっても、融合の状態よりかは可能性が望める。
 なぜ、融合状態の彼らを打倒するのか? いや、それを問い詰めるよりも先にするべきことがある。
「承諾したのか?」
「そうしなければ、生きていないわ」
 俺は妻を見た。それは世界で一番愛しい女性を見る夫としての顔ではなく、ランフェスバイナの騎士団長としてのファルナンとしての顔でだった。そんな俺の顔を見て、ミアリアークも表情を引き締め背筋を伸ばした。
「ミアリアーク。君は佐々木さんのことを知らないだろうが、あの人は本当に今回の件に何の関係もないんだ。ランフェスバイナを滅ぼした未知の脅威に立ち向かうために、恥を忍んで無力を認めて頼んだんだ。命の危険から最も遠い人でなくちゃいけない」
 本当なら協力を断られても仕方がないことなのだ。ここは佐々木恵の生きる世界ではない。彼女の前世であるイゼフが生きた世界だ。佐々木には何の関係もない世界で、その世界の危機に力を貸して欲しいと、世界の脅威と戦うという危険なことをして欲しいと、頼むのは筋違いも甚しかった。この世界の者でどうにかしないといけないのに、佐々木の人の良さに付け込んだのだ。
 分かっている。佐々木は自分の意思で来たのだと、笑うに違いない。それに救われている自分がいる。
 恥ずかしいことだと思っている。情けないことだと思っている。俺はどうして無力なんだろうと、呪いすらする。
 だからこそ、佐々木を守らないといけないと俺は思うんだ。何の関係もない彼女を無事に来世の世界に帰すことが、俺に課せられた使命だと思っている。
「例え君でも、佐々木さんを傷つけようとするなら、敵として見做さなくてはならない」
「承知の上よ」
 俺はたまらずミアリアークの両腕を掴んだ。顔を覗き込み、俺は声を荒げた。
「どうしてなんだ? どうして、そんなことを引き受けた…!」
 ミアリアークの表情は凍りついたように美しいままだった。沈黙がしばらく続いて、ミアリアークは呟いた。
「ファルナンは、私にどうして欲しいの?」
「どうして欲しい? 佐々木さんと戦うなんてことはしないで、ニアという脅威の情報を教えるんだ。俺達がニアを倒す!」
 そうだ、そうすれば全て丸く収まる。どうして、そうしないんだ? もうこの世界で整える全ての戦力が揃った。ランフェスバイナの力を賜った俺、バルダニガの器であるササ、場合によってはタシュリカを繰るトーレカの力も借りれる。そこに氷の魔女として力のあるミアリアークが加われば、ニアという脅威と戦えるだろうと思える自分がいる。
 確かに敵の力は未知数だ。ランフェスバイナを一瞬にして消滅させた力を軽んじるわけにはいかない。それでも、同志討ちのような真似をして戦力を削る必要が何処にあるというのだ。
 これは、ミアリアークのわがままだ。
 俺が今連ねたことが分からない彼女じゃない。だからこそ、分かった上で佐々木と戦うことに拘っている。
「ねぇ、ファルナンは私の好きな宝石がなんだか知ってる? 私が好きな花は? 私が苦手なことも、きちんと知ってる?」
 突然の問いに息が詰まった。え。と、声が漏れる。
 ミアリアークが好きな宝石。俺は彼女の誕生日に深海石を贈った。深い海のような濃い青が美しい宝石だ。彼女に似合うと思ったし、実際によく似合っていた。花は華やかでいい香りのする白い花を贈った。女性なら誰もが喜ぶ美しい花を受け取ったミアリアークも、嬉しそうに受け取ってくれたのを覚えている。
 苦手なこと? そんなことがミアリアークにあるのだろうか?
 がたん。と背後の窓が開いた。子供達が揃って顔を出して、声を上げる。
「アシュリアーナ しってる! かあさまは しんりょくせき がすきなの!」
「ミルファークはね えっと かあさまは しろくて おはなの かんむりが できる はなが すきなの おみせには うってないの」
 え? えぇ? 俺は目を白黒させて、とりあえず子供達を家の中へ戻した。いい加減、寝なさいと言い含めて。
「知らないよね。貴方は私が喜びそうなことを想像して、私に贈ってくれた。私を想ってくれた気持ちは嬉しいわ。でも、もう私達は恋人じゃないのよ。夫婦なの。私は貴方の望んだ美しい人形じゃないのよ。ミアリアークという一人の人間なの」
 背中に投げかけられた言葉は、悲しみが含まれていた。
「ねぇ、ファルナンは私のことを、どれだけ理解してくれているの?」
 どれだけ理解している。仕事の仲間として、彼女の力の出すタイミング、剣術の腕は知り尽くしていた。連携も上手くて阿吽の呼吸で相手に攻め入る自信がある。ミアリアークが騎士団で浮いていたのも知っていて、彼女を守ろうと色々考えた時期もあった。実家のご両親にも挨拶に行った。俺との交際を涙ながらに祝福してくれたのを覚えている。二人で過ごした甘い喜び。
 なぜだろう、思い返す様々にミアリアークの表情が見えてこない。
 俺は背筋が寒くなるのを感じていた。
 来世である近藤美亜のことが浮かんだ。透が俺をストーカーと呆れた顔で言う。佐々木がどうして二人は仲良くなれないのかと、頬杖ついて考えている横顔。俺は、近藤美亜のことを、何も知らない。それはミアリアークもそうだったのか?
「お、俺は君の全てを…」
「知らないじゃない!」
 ミアリアークがついに声を荒げた。初めて聞いたミアリアークの悲痛な声は、俺の心を打ちのめした。世界で一番幸せにすると誓った女性が、俺から顔を背ける。
 俺は、どうすれば。
『なにそれ、ふーふげんかって奴なの? ササが俺ですら食わないって言った奴だよね。食べ物じゃないじゃん!』
 俺とミアリアークの間に闇が湧いた。大型の黒犬が不満そうに座っていて、か細く佐々木の声が聞こえる。
「そんな絶賛炎上中の場所に、どうして顔出しちゃうんですか。帰りましょう」
「帰るな!」
 バルダニガの中に手を突っ込むと、虚無の闇の中で布の質感を捕らえる。力いっぱい握り込んで、全力で引っ張るとバルダニガの中から佐々木が引き摺り出された。お前は神をどこでも扉みたいに瞬間移動の道具として使えるのか。便利だな!
 変な声を上げて俺の前に転がった佐々木を指差し、ミアリアークに言い放つ。
「ミアリアーク、佐々木さんと戦う理由を話すんだ。彼女には、知る権利がある!」
 黒い外套越しでも佐々木がびっくりしたのが伝わってくる。バルダニガに覆いかぶさられて、俺にフードを掴まれて、佐々木は起き上がることもできず、もだもだともがいている。
「え? 私、ミアリアークさんと戦うんですか? どこでそんな話になったんです? んんっ! バルダニガ重い、どいて!」
 いやいやと戯れつくバルダニガをどうにか退かし、佐々木はよぼよぼと立ち上がる。
「はじめまして、ササ。私はミアリアーク」
 ミアリアークが佐々木に笑いかける。初めての相手に向けるような作り物の笑顔ではない。家族に向けるような、友人に向けるような、親愛を感じる暖かい笑顔だ。ミアリアークの氷のような美貌が溶けて、慈愛の温かみが伝わってくる。
 佐々木はその顔を見て、なぜか驚きに身を固くした。ぎこちなくおずおずと頭を下げる。
「…あ。はい。ササです。はじめまし…て?」
 最後がなぜ疑問形になるのだろう? 佐々木の挨拶が帰ってきて、ミアリアークは表情を引き締めた。
「私はニアという世界の脅威に、貴女とバルダニガが融合した状態で戦うよう求められました。ぜひ、私と戦ってください」
 バルダニガがミアリアークに歩み寄り、品定めするように見上げる。ミアリアークが真剣であるのを感じ取っているのか、冗談に受け取るような真似はしない。
『ねぇ、ミアリアーク。俺とササが融合した状態って、すっごく強いよ。大丈夫なの?』
「問題ありません」
 ふぅん。バルダニガはこれ以上聞くことはないらしく、佐々木に振り返った。
 佐々木はと言うと、口元に手を当て真剣な顔で考え込んでいる。メガネの奥の瞳はミアリアークを見ているようで、見ていない。その奥の更に向こう側にいるだろうニアを見ているような、全てを見ようと研ぎ澄ました光が点っている。
 しばらく考え込んでいた佐々木は、ゆっくりと手を下ろした。そして小さく頷く。
「わかりました。貴女が望む通り、バルダニガと融合して戦いましょう」
「佐々木さん!?」
 俺は叫び声に似た声を上げて、宿敵の来世を見下ろした。
「敵の罠の可能性が高いんだぞ! どうして応じるんだ!」
 佐々木は先ほどの真剣な表情を崩し、へらりと笑った。
「彼女には彼女の考えがある。その考えはこの世界のため、そして私のことも含めてくれていると感じました。信じましょうよ。ミアリアークさんの望む未来を…ね」
 佐々木がミアリアークを見て微笑むと、ミアリアークは恍惚に似た顔で佐々木に笑い返した。どうして、そんな顔するんだ。俺にそんな顔、見せたことないじゃないか! あぁ、こんな場面で嫉妬心が胸をかき乱すだなんて…!
「私は勝った方が良いですか? それとも、負けた方が良いですか?」
「勝ってください。絶対に」
 ミアリアークの言葉に佐々木は頷いた。眼鏡を外し覚悟を決めた笑みは、俺達にはとても馴染みのあるもの。竜将軍として立ち塞がるイゼフの、悠然とした笑みだった。全ての希望を一切合切なぎ払い、敵を絶望に叩き落とす魔王の化身の笑み。
 俺はファルナンとして初めてイゼフに遭遇した時のことを思い出す。
 黒竜を駆り戦場を圧倒するその様は、正直、かっこよかった。敵として震え上がるほど恐ろしい存在だったからこそ、手の届かない憧れのようなものを抱かせる。
「貴女が私に勝てるかも知れないなんて不安を、一切抱かせることはありません。安心して全力で、本気の私から生き延びてください」
 ミアリアークの笑み、美亜の信頼、バルダニガの器としての力、どれもこれも持っている佐々木が悔しいほどに羨ましい。
「あ、でも今日はもう遅いので、明日にしましょうね」
 そう眼鏡をかけ直して笑う佐々木は、やはり敵であって欲しい。