白猫は望んだ結果に微笑む

 ササはミアリアークの来世であるミアに家財道具一式を持っていかれたと嘆いたが、大抵のものは残されている。本棚もそこに収まっている本も、食器や鍋の類も残されている。一体何を持っていたのだろうと首を傾げるが、ササがいつも座っている場所から手が届く範囲のものはごっそりと消えていた。それを見たササが叫び声を上げたのだから、大事なものなのだろう。
 ササが座っている場所で唯一残されたものは、とても柔らかいクッション。私もこのクッションに乗ると埋もれてしまう。冗談ではなく埋もれるのだ。包み込まれて暖かくて柔らかくて、ササの匂いがして眠くなる。ササがこのクッションにもたれてうたた寝する上に、丸くなって寝るのは好きだった。
 ササは私が部屋に入り込むのも出て行くのも止めなかった。体の上に乗っても文句を言わない。優しく迎えてくれる雰囲気は居心地が良かった。
 食事に関しては、彼女の無知に感謝している。人間の食事と変わらないものが出てきたからだ。私はこの世界では猫と呼ばれる生き物に似た姿をしているが、猫ではないのだから死ぬことはない。食事は美味しいものが良いに決まっているもの。
うとうとと微睡ながら世界を覗き見る。日差しが暑いくらいの快晴で、風は爽やかな昼下がりが視界いっぱいに広がる。眼下に視線を下ろせば、神を肩に乗せた勇者と美女と魔王と獣の神の器が、のんびりと山道を登っている。燦々と降り注ぐ日差しを、木の葉が柔らかく透かして彼らを包み込む。一番遅れて歩いているササが、深々とため息を吐いた。
「はぁー。こんな天気の良い日に、戦わなくてはならないとか拷問だよ。早く、元の世界に戻ってお弁当とお酒を持って、海にでも行きたい。早く終わったら連休中に帰れるかもしれないし、頑張ろう…!」
『海! 俺も行って良いんだろ?』
 嬉しそうな黒犬の頭を白い手がぺしりと叩く。魔王はしゅんと尻尾を垂らしたが、全くめげている様子はない。それもそうだ。行こうと思えば行けるのだから、ササに伺いなど立てる必要はない。これはバルダニガとササのコミュニケーションなのだと最近理解するようになった。
 他愛のない雑談を交わしながら、彼らは山道を登って行く。頭上をタシュリカが過ぎ去り、少し前に降り立つ場所が彼らの目指すべき場所。アーゼ・ナシュームでも山奥で開けた場所だ。ササとバルダニガが融合した状態で戦って、最も被害が少なく抑えられるべき場所として選ばれた目的地だ。
 タシュリカから降りたトーレカと親しげに挨拶を交わすと、ササは徐に眼鏡を外して差し出した。
「私の命の次くらいに大事な眼鏡。トーレカさん、預かってください」
「あぁ。わかった」
 緊張した面持ちのトーレカは、ササの眼鏡を布に包んで胸ポケットにしまった。飛び出してしまわないように、ボタンで留めぽんぽんと軽く叩く。こんなもんで良いだろう? そう問うようにササを見たトーレカに、小さく頷いた。
「では、始めましょうか。準備は宜しいですか?」
 えぇ、準備は万端よ。私は微笑んだ。この瞬間を心待ちにしていたわ。長い長い時間、待ったつもりだったけれど迎えてみると、あっという間だったのかもしれないわ。
 ファルナンとミアリアークが頷くのを認めると、ササはフードを目深に被り寄り添う獣に呼び掛けた。闇が膨れ上がりササを一瞬にして呑み込む。まるで凶暴な獣が獲物を一飲みにするような、不安と恐怖がこみ上げるような映像だ。闇は凝縮し、バルダニガの器だけが着ることを許された漆黒の外套がふんわりと風に揺れた。外套の内側は闇に沈み、静かに佇んでいる。
「佐々木…さん?」
 ファルナンがおずおずと声をかける。
 闇が人のように顔を上げたように見えたのは、フードがそう動いたからだ。
『はじめまして人の子。ひさしいね、ランフェスバイナ。俺達はアーゼ。きみたちには、獣の神のほうが分かりやすいかな?」
 その声は闇とササの声が混ざった、不快で不明瞭な言葉だった。二つの世界の言葉が混ざり、神が媒介することによって意味だけが脳裏に伝わってきて理解しようとする知識を撹乱する。それでも、声は穏やかだった。まるで新月の空を見上げるような、眠気を誘う程の平穏がそこにある。
 ランフェスバイナが息を飲んだのがわかった。彼こそが目の前の存在の変わりように驚いているだろう。
『アーゼ。貴様が喋る日が来るとは思わなかった』
 獣の神アーゼ。かの世界の全ての生物を司る、神の一柱。バルダニガはかの神の一部分に過ぎない。闇に潜んだ暴君たる存在が、日の光の中で穏やかに立ち尽くしている姿を誰が想像できたであろうか? 神を止める為に立ち上がり死闘を繰り広げたランフェスバイナは、震える声で宿敵に語りかけていた。
 アーゼはランフェスバイナの言葉に、幼子が話すような覚束無い声色で返す。
『話すのは、はじめてだ。はじめての時は、あいさつ。だいじ、なんだろう?」
 おそらく、アーゼは融合したササとバルダニガの知識を元に、常識を演じている。しかし、バルダニガよりも幼い言葉遣いの神を見たファルナンが、肩に乗るランフェスバイナに訊ねる。
「アーゼって無口な神なのか?」
『いや、言葉を繰る知性と理性を持っていなかった。融合したバルダニガと器が、アーゼを制御できているのだろう。我も驚きを隠せぬ』
 アーゼは生物の原点。知性も理性も生まれる前の存在には、本能と野生しか備わっていなかった。暴君と呼ばれた存在ではあったが、それも生命の有り様から見れば仕方がないことだった。後から生まれた生命達が知性と理性を備える中で、原始の神は疎まれるようになってしまった。
 神は変わりにくい。神が変われば、属する者達も変性を強いられる。
 世界が重ねた長い年月。器達の気の遠くなるような、神への献身。そして勇者が与えた別の名前。それらが複雑に絡み合って今の奇跡に導いた。それは感動すら覚える偉業でしかない。
 ランフェスバイナが首をもたげ、ファルナンとミアリアークを見た。
『ファルナン。お前もミアリアークと一緒に戦え。アーゼが出てくるとなると、手加減されていても死ぬぞ』
 その通りだろう。器がアーゼを理性で包んで生み出す存在がバルダニガである。器に集中力と認識力を求められるのは、アーゼを包む量の増減に直結するからだ。ササは歴代でも最も集中力に秀でた器故に、アーゼを包み込める量が膨大でバルダニガの力をよりアーゼに近しいものにできたのだ。
 今までの器達の成し遂げた融合も、バルダニガとの融合だ。自分達が生み出したアーゼの一部との融合。
 しかし、目の前の存在はそんな生易しいものではない。ササとバルダニガとアーゼが融けて混ざり合った、獣の神に最も近いもの。魔王バルダニガと呼ばれた脅威以上の存在。
『人の子。ランフェスバイナのことば、やさしくて正しい。『アーゼ』だけではなく『俺達』で、うごくの、はじめて。てかげん、よく分からない」
 アーゼが両手を広げた。漆黒の外套の下から黒い竜の手と鉤爪が現れ、ファルナンとミアリアークを抱擁するように包んだ。二人の顔色が青ざめ、一瞬にして空気が冷える。
 理性を頼りに留まっていたタシュリカが、ついに羽を広げて飛び退った。トーレカが恐怖に逃げ出しそうになる巨鳥の上に乗り舞い上がらせるのを見送ると、アーゼは嬉しげに言った。まるでバルダニガのように、遊んでくれるのを強請るように。
『さぁ、人の子。俺達と遊ぶんだろう? おいで?」
 外套の内側の闇が爆ぜた。闇が霧のように広がり、砂塵のように舞う。アーゼが差し出した手に相応しい巨体の黒竜が、目の前に現れたのだ。咆哮が空気を震わせ、獣達は原始の恐怖を呼び起こされて半狂乱になる。逃げる者達で森はざわめき、鳥達は叢雲のように湧き出して空を駆ける。
 私もぶるりと震える。理の外から覗いていて危害など加えられないとわかっているのに、恐ろしさが心を掴んで縛り付ける。
 アーゼと相対する二人は私以上の恐怖に竦んでいるだろう。立ち向かう気力すら刈り取る、暴君としての威圧感が死を予告する。
 ファルナンは震える手を、剣を強く握りしめることで、気力を奮い立たせることで止めた。剣を掲げる姿は、ランフェスバイナの希望と言われる騎士を体現したかのようだ。騎士団長として多くの騎士達を導き、希望を示した声が闇の中で光のように響く。
「いくぞ、ミアリアーク!」
 ミアリアークも応じて本を開く。大地から突き上げるように鋭い氷の刃を、竜の尾がなぎ払う。砕けた氷に、ファルナンの剣に乗せた光が入り込んで拡散する。ファルナンは剣に乗せた光を竜の長身に負けぬほどに膨らませ、一瞬怯んだ竜を両断した。光と闇は相反する属性。ランフェスバイナの力を授かったファルナンは、いともたやすく竜を切り裂く。
 しかし、手応えはない。
 闇は闇。広がり包み込み、そこに溜まって残り続ける。
 両断した竜の形をした闇は、形を崩し再び凝縮する。再び竜の形を取った闇から、ファルナンは距離を置く。剣を構え目を凝らすファルナンは、ふと一点に目を留めた。闇の中に光るほどに白いものが浮かぶ。小さな人の両手。おそらくも何も、アーゼと融合しているササの手であろう。
『遊ぶと宣言しただけのことはある。あそこまで理性がアーゼを支配しているとはな』
 ファルナンの肩に乗ったランフェスバイナが、忌々しげに言い捨てた。ちろりと舌を出し、闇から出た手へ向けていた視線をファルナンへ向ける。
『お前達は先代のバルダニガの器であるイゼフと戦っていたから、わかるだろう。神の器は神の弱点でもある』
「あぁ。黒竜をいくら攻撃しても埒が明かない。イゼフを止められれば、黒竜も消える。イゼフに物理攻撃を叩き込むのが一番効果的だったな」
 ファルナンとミアリアークが頷いた。
 長年アーゼと戦争状態にあったランフェスバイナにおいて、最前線に立つ竜将軍イゼフをどう止めるかが防衛の要でもあった。融合した深度の問題でイゼフと比べ物にならないが、それでも基本が変わらないことを感じているのだろう。先ほどまでの恐怖は薄らぎ、頼もしい表情の団長と副団長がそこにいる。
『弱点を補う為に、融合状態にあれば器は神の属性に溶け込める。ファルナン。貴様がバルダニガから器を引き摺り出したのが、それだ。闇の中であれば、器は何処にでも存在しどこにも存在しない。勝つ為ならば、普通は器を露呈させぬ』
「アーゼは私達に敢えて弱点を晒しているということなのですね」
 ミアリアークの言葉に答えたのは、アーゼだった。白い手が拍手をし、『そのとおり」と肯定する。
『互いに、きぼうを目指すのは、楽しい。エンタメは力を合わせることで、せいこうする」
 えんため? この世界の言葉なのだろう。神の媒介があっても、いまいち理解ができない。唯一理解できたのだろうファルナンが、額を抑えて項垂れた。
「また変な言葉を教えたのか…いや、伝わってしまったのか…」
『エンタメとはなんだ?』
「獣の神には最も縁遠い言葉ですよ」
 獣の神は愉快そうに笑う。白い手が注意を促すように叩かれる。手がひらりと横へ動くと、バルダニガに似た黒い大型犬が二匹現れる。獣の形をした闇を頭をぽんぽんと叩くと、優雅な動きでファルナンとミアリアークへ手を差し向けた。
 獣達が飛び出す。人の動きを凌駕する、獲物を駆る野生の動き。まるで引き絞り放たれた矢のように、闇は一直線にファルナンとミアリアークの喉笛を目指す。剣を構えたファルナンから一歩下がったミアリアークが、叫んだ。
「ファルナン。私に考えがある。奴らを頼むわ!」
「わかった!」
 応じるや否や、ファルナンは自身に襲い掛かった獣を一刀のもとに切り捨てた。ミアリアークに迫る獣を、ランフェスバイナの力で貫く。形を崩しても消えない獣がファルナンの方へ向き直り襲い掛かる! 黒い闇から迸る敵意を、銀の小手で食い止め差し込んだ剣から光を放って霧散させる。闇は崩れて沢山の小さな動物になり、小さな動物同士がくっつけば大きくなる。目まぐるしく変化する攻撃手段に、ランフェスバイナの力で一撃で潰せるとはいえファルナンは守りに徹せざる得ない。
 ミアリアークはその間に魔法を放つ。彼女の周りに浮かんだ雹を、次々とアーゼに向けて放つ。闇の竜が軽々と払った雹は足元に白く厚く積み上がる。無駄な行動だと思った次の瞬間、雹は溶けて水になり、浮き上がった! 粒は瞬く間に触れて大きくなり、一抱えもある水の塊が手の上の闇に沈み込む。
 白い手が慌てたように動いた。肉体は融合していても、最低限の生命活動に必要なものは変わらない。水で顔を覆われては溺れかねないのだ。
「ファルナン!」
 ファルナンが駆け出し、光を帯びた剣を闇に刺し入れる。光が水に触れたのだろう。水は光を拡散し、闇の中で虹を伴って爆ぜた。
『!」
 闇が晴れる。闇から切り離された器は、苦しげに水の中から逃れようともがいていた。 ササは膝をつき、ごぼりと口からたくさんの泡が溢れ出る。そんなササをファルナンが支えた。
「ミアリアーク止めろ! 溺れてしまうぞ!」
 今だ。ありがとう、ミアリアーク。今ならば、確実だ。
 私はひらりと理を超えた。世界を跨ぎ、ササとファルナンを見下ろす空中に飛び出した。
 冷たい空気が体を包む。ミアリアークの雹を生み出した為の冷気かと思ったが、違う。水の中からのササと目が合った。こちらを見ている。私が放った力を、瞬く間にササを取り巻いたアーゼの力が相殺する。
 これほど完璧な不意打ちを防いでみせるのか!
「ニア!」
 ミアリアークの声が聞こえる。獣の神の器が激しく咳き込む声が聞こえる。外れない視線と、私を見た複数の目。
「猫? こいつがランフェスバイナを滅ぼしたのか…!」
 不意打ちは失敗したが、それでも勝機はある。ここに集まった彼らを蹴散らすだけの力が、私にはあった。この世界の理よりもずっと強い理で構成された世界で生きてきた私にとって、この世界の魔法はママゴトだった。
 獣の神の器が立ち上がって、ミアリアークとファルナンの前に立った。ぽたぽたと顔から水が滴って、地面に落ちる。
『今のこうげきで分かった。ニア。きみはつよい。きっと、この世界の、だれよりも」
 闇が太陽を覆い、闇が迫る。傍にアーゼが私を品定めするように見ている気配がする。もう、アーゼの胃袋の中にいるような気分だった。それでも、私はその腹を食い破り逃げ出す自信があった。
 ササの姿をしている獣の神は笑っていた。
『でも、俺達はみんな負けるのが大嫌いだ。…君に勝つ為に、『私』は全ての知識と力を合わせなくてはならないようだ」
 言葉が変わる。舌っ足らずな子供っぽい口調ではない。厳格な賢者の風格を感じる、大人びた識者の言葉選び。
 しまった。私は身がすくむ。
 今、アーゼを構成する全てが一つの意思のもとに統一された。
 私に勝つ。
 その一つの目的のために、アーゼとバルダニガとササの意識が完全に統合されたのだ。目の前にいるのは獣の神と融合した器ではない。獣の神そのものだ。
『はじめまして、賢く強い理の外の者。私はアーゼ。君を殺さんとする者だ」
 私はとっさに力を振るう。ランフェスバイナを消滅させた力が、目の前の全てを薙ぎ払うはずだった。しかし、力は全て闇が飲み込む。底の見えない滑る闇から、穏やかな白い顔が私を覗き込み、冷たい手が私の頬に触れた。触れ方が分からないと一切触ってこなかったササの、初めての手の感触だった。
『さぁ」
 睫毛が触れ合うほど近くに目がある。視界をアーゼの目が覆いかぶさってくる。くろい、黒い、闇を固めたような黒目。そこに私は映っていない。白い猫の姿のニアも、美しい空色の青い瞳も、吸い込んでなお暗い闇が私の目を覗き込んだ。
『賢き子。君の心の闇が吹き出す。己の願望と現実に潰されてしまえ」

 闇。見渡す限りの闇。誰もいない。ファルナンも、ミアリアークも、ササの姿をした獣の神も、光る蜥蜴の姿のランフェスバイナもいない。
 どうしようもない不安が、体の奥底から吹き出してくる。この感覚を知っている。私が生まれて間もない頃、これからどうなるのか分からなかった時の気持ちだ。小さい女の子が泣いている。決まった未来から逃れられない不幸に、泣くことしか出来なかった私がいる。
 いやだ。いやだよ。どうして、どうしてわたしなの?
 わかる。わかるよ。どうして、私だったのだろう? 疑問をいくら呟いても、誰もわかってはくれなかった。誰も分かろうとしてくれなかった。全て薄い硝子のような隔ての向こう側にいて、隔てられたそれを破ることはできなかった。その向こうは目まぐるしく変わる。人は入れ替わり立ち替わり、違う人がそこにいた。誰も、私に寄り添ってくれなかった。
 どうして、私なのだろうな? 意味があるのかもしれない。
 隔ての向こうの竜を見つけた時、私と同じだと思った。賢い彼は獣の神に言葉を教えた。しかし、次第に闇の意識に侵食され、狂う前に頼んだ親族の手で葬られた。可哀想だと思った。私と同じなのに私よりも可哀想だと思った。
 どうして、俺を選んだんだい? 何かの縁だし、一緒に考えようぜ。
 竜の姿ではないが同じ魂だと分かった。飄々として楽しげに闇に語りかけて、隣を歩かせた。それでも闇に近づきすぎて、闇に深入りしすぎて、魂は闇に呑まれてしまった。光り輝く騎士が魔王を討伐しましたと、私に報告した。私は泣いた。だって、私と同じなのに、どうして殺されてしまったんだろう。私も殺されてしまうのだと恐ろしかった。
 どうして、俺に頼むんだよ? しょうがないなぁ。俺もアーゼが滅ぶの嫌だし、頑張るよ。
 次に私の前に現れた魂は、私を殺そうとしていた。どうしてそんな事をするの? 貴方は私と同じなのに。それでも、心のどこかでは、彼が苦しんでいるのを喜んでいた。彼も私と同じ。彼は人を殺すのが嫌だと、私の国を滅ぼすのを嫌だと、どんなに叫んでも聞き入れてくれないのに苦しんでいた。
 愛おしかった。私と同じ苦しみを持つ、私と同じ存在が、特別で、とても愛おしかった。話したことのない魂と、苦しみを分かち合っている気がしていた。
 いつの間にか魂が増えている。隔ての向こうで、同じ魂が並んでいる。
 どうして、私の所にきたんですか? あぁ、もう。戦争なんて、人を傷つけるなんて、したくないです。
 愛おしい魂と同じなのに、私と同じなのに、苦しんでいなかった。二つの魂は寄り添って手を取りあって、私の目に見える所から遠ざかっていこうとする。嬉しそうに、苦しみから解き放たれて去っていってしまう。
 待って。行かないで。縋ろうとしても隔てが遮る。
 嫌だ! 嫌だよ! おねがい、行かないで! 私を一人にしないで!
 気がついた時には隔ては消えて、私は一人だった。一人で生きてきた。魔力に優れていた私は、多くの他人に囲まれて生きてきた。私を利用する人、私を消そうとする人、私を恐れて近づかない人。私を理解してくれる人はいなかった。いたのかもしれない。でも、私は誰にも寄り添ってもらったことがなかったから、理解してもらったことがなかったから、分からなかった。
 皆、私を恐れていた。気に入らないものを消してしまう気まぐれな空の悪魔。そう呼ばれた。気にならなかった。私は隔ての向こうへの憎しみと、あの魂が欲しかったことしか心に残っていなかった。
 私と同じ、私と同じ苦しみを知っていた、あの魂が欲しかった。
 目の前にいるのに、触れてすらいるのに、体が痛い。痛くていたくてイタクテ、体が崩れていく。この世界とは異なる理で出来た器が崩れていく。あの世界では猫と呼ばれた形が保てなくなる。いたい。いたい。痛い。心が暴れて、焦がれる想いと成し遂げられない現実が体をすり潰す。
 いやだ。いやだ。思い出す。長い間この世界で生きてきた、名前が、姿が、生まれ変わった私を否定する。
 私はニアなの。自由になった。なんでも好きに決められて、どこへでも行ける。この世界を壊したいと思えば、壊せる。だから、目の前の魂も欲しいと思うから手に入れられるんだ…!
 私は何も出来ない、シルフィニアじゃない!
『あ」
 驚くような声が聞こえた。闇が晴れて体を貫く痛みが、意識を鮮明にしてくれる。
 ササが驚いたような顔で私を見ていた。茶色掛かる黒い瞳は困惑の色を浮かべながら、私の大嫌いな完璧な少女の姿を映していた。私はなんて幸運なんだろう。なんて彼女は不運だったんだろう。彼女が私を覚えていなければ、私の姿がシルフィニアの形になるのが少しでも遅ければ、アーゼは私を殺せたはずなのに。
 私はササの外套の襟首を掴んだ。鼻が触れ合うほどに顔を近づけると、黒い瞳に青い色が映り込む。
「ありがとう、私を覚えていてくれて」
 ササが崩れ落ちる。視覚に直接魔力を流し込まれると、視覚による認識に頼る生き物は拒むことが出来ない。力なく私にもたれかかった重い体を抱きとめた。
「シ、シルフィニア様!?」
「ニアよ」
 振り返る。生まれ変わって百年ほど離れていた感覚だったのに、驚くほどしっくりするシルフィニアの肉体。背丈も力加減も視線の高さも、私がニアではなくシルフィニアだと嘲笑うようだった。ファルナンもミアリアークも変わらないのも、腹立たしかった。ランフェスバイナは面白い形になっていて、見ていて愉快になる。
「私は一度死んで、自由を手に入れたの」
 気を失ったササの背に手を当てる。力を流し込むと、ササの体が淡く光り、すっと光が彼女の体から離れた。淡く温かい光を放つ塊。獣の神の器の魂だ。ニアの姿を構築し、ふわりと魂に寄り添って浮かびあがる。私が求めたものは、温かい気がした。
「ずっと、ずっと、欲しかったの」
 私は魂を抱きしめ、世界を跨いだ。
 もう、この世界には用は無い。あとは、消え去るだけなのだから。