勝者は力無き者に挑まれる

 扉の鍵が開く音がした。この部屋の鍵を持っているのは、ササとトールとミアだけだ。
 顔を上げると、ミアが中に入ってきた。いつもなら嬉しげに『白猫ちゃん、いる?』と部屋に声を投げかけてくるのに、今回は無言だ。緊張している気配が、静寂に浸された空間を張り詰めたものにする。ミアリアークの来世は、前世と変わらぬ美貌のまま私を見下ろしていた。
 私は首をもたげて、立ち尽くしているミアを見上げた。
「貴女、私のことを知っていたのね?」
 ミアは小さく頷いて肯定した。いつから知っていたのかしら? 前世の記憶を引き継いでいる素振りは微塵もなかった。考えられるのはミアリアークを彼女の中に引き込んだ時だろう。魂同士が接触して影響を及ぼした可能性が一番高い。
「ミアリアークが教えに来てくれたの。貴女がめぐ姉さんの魂を抜き取って、去ってしまったって」
 氷の魔女さんは、手際がいいわね。この世界での協力者はとても優秀よ。流石、ミアリアークの来世だわ。
「どうして、ここに居ると思ったの?」
 真っ直ぐササの部屋を目指してきただろう彼女は、ふと緊張を緩めて微笑んだ。何か飲む? と聞いてきた。私は牛乳と答えたわ。本当は牛乳と砂糖を多めに入れた紅茶が好きで、ササは猫だったら絶対に飲まないそれを出してくれた。でも、希望しない。ミアがミアリアークの来世だとしたら、何かを作ってもらうのは避けた方がいい。
 冷気が籠められた箱から牛乳で満たされた紙の箱を取り出すと、それを深めの皿に注いだ。ミアも硝子のコップに注ぐ。ササの部屋の隅から折り畳み式の小さいテーブルを取り出して組み立てると、牛乳が注がれた皿とコップが載せられた。お茶請けなのか木の器にお菓子が入っているものも持ってくる。
 斜向かいに腰を下ろしたミアは、私を見た。好奇心で瞳が輝いている。
「ねぇ、ニアちゃん。めぐ姉さんの魂、私も触ってみたいわ」
 私は手に力を込めた。折角手に入れた宝物を、奪われてしまう気がして恐ろしかった。
 私の気持ちを察したのだろう。ミアは安心させるように、落ち着いた声色で語りかけてくる。
「大丈夫。盗ったりなんかしないわ。ただ、興味があるの。私の尊敬する大事な人の、滅多に見れない姿を見たいわ」
 探るようにミアを見る。ミアリアークは目的の為なら少しでも強引な方法も辞さないが、嘘は決して言わなかった。ミアも言葉を違える真似はしないだろう。奪われてしまいそうでも、この世界の理でできた器を押さえ込むなど赤子の手を捻るくらい簡単なことだ。私が恐ろしい存在だと教えてやってもいい。
 私は抱きしめていた腕を少し緩める。ふわりとササの魂が空中に浮かんだ。月の光のような淡く柔らかな光が、私とミアの顔を健康的な色で照らし出す。ミアは恐る恐る触れて、うっとりと微笑んだ。
「綺麗ね。少し、あったかい」
 ミアは両手で包み込むと、そっと胸に抱いてみた。目を閉じて動かないまま、どれくらい経っただろう。ようやく目を開けて私を見たミアは、羨ましそうに魂を返してきた。戻ってきた魂の暖かさに、驚くほど安堵する。
「いいなぁ。欲しくなる気持ちがわかるわ」
 そうでしょう。私は誇らしい気持ちになる。
 私が大事に思っているものを、褒められたのは初めてかもしれない。皆、私の容姿や魔力を褒めた。私にとってはどうでもいいことを、素晴らしいと褒め称えるのは苦痛でしかなかった。私が宝物と思っている大事なものを褒められたのは、純粋に嬉しかった。
「でも、つまらないわ」
 びくりと体が強張った。ミアは値踏みするように、私の宝物を見る。
「だって、めぐ姉さんとお喋りできないし、美味しいご飯を一緒に食べれないもの。ニアちゃん、これからどうするつもりなの?」
「これから…?」
 思わず、声に出た。
 これから。求めた獣の神の器の魂を手に入れた、この後のこと。何も考えていなかった。頭の中が真っ白になる。
 私の様子を見て、ミアはくすくすと笑った。
「やっぱり、貴女も目的達成頑張っちゃう子なのね。私も同じ気持ちだったわ。めぐ姉さんと晴れてシェアハウスしたけど、めぐ姉さん全然楽しそうじゃないんだもの。失敗だと思ったわ」
 完璧なミアリアークの来世も、隙のない完璧な女性だった。ササが言うには国の重役になれそうな道を歩いているらしい。そんな彼女も失敗をするのね。意外だわ。それをあっさりと認めるところが、ミアリアークに似ていると思う。
「私の世界に連れて行って、器を見繕って育てようと思う」
 これから。何も考えていなかったけれど、今のニアとして生まれた世界に戻ろうと思い立った。ササやファルナンの来世が暮らす世界で器を見繕うのは大変だし、シルフィニアとして生きていた世界はアーゼの暴走によって滅ぶだろう。消去法で私が生きてきた世界が、一番融通が利くと思った。
「人間にするの?」
「考えてないわ」
 ミアに言われて咄嗟に思い浮かべたことだ。今思いついただけで、何も考えてなんかいない。
 そう思うと苛立ちが募ってくる。これからどんな器を見繕って、どんな生活をしようかとか考えるのが楽しいかもしれない。でも目の前にミアがいて、とてもそんなことを考える気分にならないのだ。
 ミアは私の気持ちも知らぬままに笑う。
「生き物を育て上げることは簡単じゃないわよ。私みたいな悪い子になって、手を焼くかもしれないわよ」
「悪い子? 貴女が?」
 驚きに目を見開いてミアを見る。ミアリアークは完璧な淑女として、幼い頃からランフェスバイナでは有名だった。見た目の美しさに加え、気高く博識で、善良。さらに魔力に優れた彼女に、悪意など宿っていないとすら思っていた。多くの男達が美貌を尊び、立ち振る舞いに魅了された。人離れした精霊のような佇まいは、神聖さすら感じられただろう。
 そんなミアリアークの来世が、自身を『悪い子』と言う。とても信じられなかった。
 ミアは、小さく笑った。皆が同じ反応を返すのに呆れたような、温度の低い笑み。
「親に反抗して家を飛び出したら、行く先は決まってめぐ姉さんの部屋。親は火でも点けられたように怒って、玄関先に押しかけるの。警察まで来たわ。めぐ姉さんは親の話を辛抱強く聞いて、落ち着いたら『もう、美亜さんは寝てしまいました。近所迷惑にもなります。明日、責任を持って送らせていただきます』って頭を下げてくれたわ。迷惑だったでしょうね。親は私のことを自慢の娘に育てようと躍起になったけど、私はそんな両親が大嫌いだった」
 親。そういえば、ミアリアークは親の話をしない。唯一、仕事の忙しさから疎遠だと聞いていた。
「ミアリアークも親が嫌いなんですって! お互い、親の愚痴でノート3冊分使い切ったわ!」
 前世も来世も悩みは同じなのか、ミアは楽しそうに笑った。笑いを鎮めると、部屋をゆっくりと見回す。
「この部屋では、私はすごく自由だった。私が食べたいって希望した献立は、その日のうちじゃないけど必ず作ってくれた。行きたい場所があると連れて行ってくれて、興味のありそうな本を借りてきたり買ってきたりしてくれた。悩みや愚痴をずっと聞いてくれて、他愛のない話で笑ったわ。それなのに仕事も勉強も趣味も、生活も、全部卒なくこなしてた。私が欲しいものを全て持っていて、私がしたいことを全て実現できためぐ姉さんを、私は心から尊敬していた」
 ミアが私を見た。青味を帯びた黒が、白い猫を映している。
「ねぇ、ニアちゃん。ここでの生活、楽しかったでしょ?」
「…楽しかったわ」
 認めた。認めざる得なかった。ミアの言葉を聞くと、私もこの部屋では自由だったと思う。出入りも自由で、長く滞在しても何も言われなかった。ササに乗っても怒らない。おかずを食べることをササが知れば、私の分も用意されるようになった。『やぁ、美人さん。また来たのかい?』そう穏やかに迎えてくれる場所は、居心地が良かった。
 ランフェスバイナでは、今のニアの生で生きてきた世界では、得られなかった感覚だった。
 心が暖かくなる。満たされる。私が求めた魂が、もっと欲しいものになった。
「めぐ姉さんに『私は家事が何もできないから、迷惑でしょう?』って聞いたことあるの。めぐ姉さんは『君が嬉しそうにご飯を食べたり、楽しそうにお話ししてくれるから、私は毎日が楽しいんですよ』って言ってくれた。受け入れられてるって実感して、幸せな気持ちになったわ。私は愛されてるって満たされた」
 ミアは幸せそうに笑う。ササが言いそうな言葉は、私にも向けられている気がした。
「幸せとか楽しさとか、一人じゃできないのよ。誰かが傍にいて応えてくれて、より幸福を感じるものだって思ってる」
 私はミアを見た。話に引き込まれていたけれど、どうして私がミアと話していなければいけないの? そう、諭すような言葉を聞いて、疑惑が首をもたげたのだ。
「貴女は私を説得しにきたのね」
 ミアは笑みを深くした。ミアリアークに瓜二つの美貌は、激しい感情を潜ませているのに気がついた。
「違うわ。提案をしにきたのよ。私の戦い方で私は貴女に挑んでいるの」
 なるほど。確かにこの魔法のない世界の理で出来た肉体を持つミアが、私に抵抗できる方法はほぼ無いだろう。だから知恵で、言葉で、感情に訴えて、私に挑んでいる。私からようやく手に入れた魂を取り戻そうとしている。
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ミアは身を乗り出した。
「ニアちゃん、私が良いこと教えてあげるわ。めぐ姉さんと楽しく過ごす為のイロハ。まずはそうね、めぐ姉さんが言ってた海に行くって話。透が車を出すだろうから、そこに押しかけることから始めるの。めぐ姉さんも透も、あぁ見えて大食らいだからお弁当もいっぱいあるわよ」
 面白そうだと思った。そう思った一瞬に畳み掛けるように、ミアは言葉を続ける。
「行くも行かないも、貴女が決めればいいわ。めぐ姉さんを何処かへ連れていくのも、私は止めることはできない」
 でも。ミアは私の心に訴えるように、ゆっくりと語りかけてくる。そっと、前足に指が触れた。
「ここでの生活が楽しいなら、居て良いんじゃない?」
 焦がれた気持ちが揺らいではいけない。全てを水泡に帰してしまうような選択を選んではいけない。私は魂をぐっと抱きしめた。
「いや。ササとして生かしたとして、私の傍にいてくれる保証なんかない。ようやく、ようやく手に入れたんだもの…!」
 それでも、心のどこかで思うんだ。
 手に入れて、閉じ込めて、私の思うがままにしたそれは、この魂が望んでいることなのかしら?、と。私があんなに隔ての向こうに焦がれたように、魂も私の元からどこかへ行ってしまうかも知れない。どこへも行かさない。それで苦しむのかも知れない。それを、私はどう思うのだろうか? 魂はどう思うのだろうか?
 そんな不安を抱いて生きるなら、ササに寄り添っていた方が未来を簡単に思い描けた。
 魂が震える。熱を帯びて、光を強く放つ。どうしたの? 私は魂を強く押さえ込む。
 光が部屋を白く染めた。光の中に溶けていた人影が、落ち着いた光の中から形作られる。白銀の鎧に青いマントをつけた騎士団長であるファルナンが、黒い獣の神の器だけが着れるフード付きの外套をしっかりと抱きしめている。互いに固く目を閉じ、唇を重ねていた。
 その場の誰もが驚いて声を上げる前に、ミアがファルナンの頭を叩いた。力はないが、それでもファルナンの精神には大打撃であろう。
「高槻くん! ようやく来たわねって言いたいところだけど、めぐ姉さんに何してるの!」
 言うが早いか、ぐったりとしたササを引き剥がす。ぎゅっと抱きしめて、厳しい視線でファルナンを睨み付ける。
 ファルナンは慌てふためいて、ばたばたと両手を振った。
「近藤さん!…いや、これは、誤解、いや、仕方がなかったんだ!」
「高槻くん。君のめぐ姉さんへの想い、よく分かったわ。でも、私の大事なめぐ姉さんを、特に君なんかに渡すつもりはないわ! 君に渡すくらいなら、私がめぐ姉さんと結婚するわ! 同性婚よ! うちの地区でも認可されるよう推進してやるわ!」
「ち、違う! 佐々木さんを連れてくるのに、必要なことだったんだって!」
 なんなの! どうなってるの!
 アーゼに取り込まれて暴走するはずだった空の器を、この世界に持ってきたの? 息を吹き込んで、器の中をランフェスバイナの力で満たしてアーゼから切り離した? いえ、今はそれどころじゃない。肉体に戻ろうとする魂の力が強くて、押さえ込むので精一杯だ。
 早く、私が生まれ変わった世界に戻るんだ。そうすれば、ファルナンは追ってこれない…!
 部屋の入り口の扉が、がちゃがちゃと鳴る。それに気がついたファルナンが、急いで作り付けの戸棚を開ける。かなりの物が詰め込まれたスペースがあったが、人一人が入り込む程度の隙間がある。ファルナンはその隙間に入り込んで、急いで戸棚をしめた。鮮やかな青いマントの切れ端が、戸棚に挟まれて見えている。
 がちゃんと開ける音がすると、呆けたような声が聞こえてくる。ササの弟、トールの声だ。
「あれー? 姉貴、まだいんの? 今日、遅番だったろう? 遅刻しちまうぞー?」
 魂が強く抵抗した。あまりにも強くて、押さえつけていた私は弾き飛ばされテーブルから転げ落ちた。
「ち こ く !」
 ササが跳ね起きた。