佐々木透は傍観者に徹する

 シフト変更があったらしく、俺が遅番だと思った日は休みだったらしい。飛び起きた姉貴にぶっ叩かれた。まぁ、姉貴の力なんか大したことねーから、痛くも痒くもねーけどな。
 その詫びとして海に行きたいから車を出せと来たもんだ。海ねぇ。いいんじゃねー?
 いつの間にか姉貴の犬が増えた。バルと名付けた少し前に飼い始めた犬と同じ、真っ黒くて大型の犬でアーゼという名らしい。やんちゃなバルに比べて、大人しい奴だ。姉貴曰く貰い手がいないので引き取ったらしい。引き取らなかったら保健所なんだろうし、姉貴はそういうの聞くと放って置けないところがあるからな。
 しかし、バルもそうだがアーゼも、犬なんだろうか?
 大型の毛深い犬は、目元も完璧に隠れてしまっている。触ると柔らかい毛並みでふかふかで最高に気持ちがいいのだが、目で見ると真っ黒くて光すら吸い込んで空間の中にぽっかりと黒い穴が開いているように見えるのだ。バルは無邪気で可愛いし、アーゼも甘えん坊の良い子だけどよ、こいつら本当に犬なの? 姉貴がドックフードじゃなくて人間と同じ飯食わせてるけど、大丈夫なんだろうか? しかも姉貴は家に居ついた白猫にも人間と同じものを出してる。他所様の飼い猫じゃないからいいけど、猫は食わせちゃいけない物があるんだぜ?
 姉貴は割と変なところで抜けていて、『よく食べるから、いいんじゃない?』と調べるつもりもないらしい。
 俺? 俺は調べないよ。だって、姉貴が飼い主なんだもん。俺が口挟んだら面倒じゃん。
「今日は良い天気になって良かった、良かった!」
 ご満悦な姉貴は、風呂敷3つ分の重箱を車の後ろに積み込んだ。更に一升瓶とお茶や俺の好きな炭酸飲料、お菓子でパンパンに膨らんだ大きいビニール袋も積み込んでいる。流石に、俺と姉貴でも食べきれない量だと思うだろう。これ、バルとアーゼの分も入ってる。あいつらもめちゃくちゃ食うんだよ。確保しないと俺の分が消える。
 バルとアーゼが待ちきれないと言いたげに、まとわりついてくる。そんな二匹をごしごしと撫でてやる。本当に毛がふわっふわでさ、おひさまの香りがするんだよな。癒されるわ。そんな黒犬達の背中をそっと押す。
「朝から元気だなぁ。もう、出発するから乗ってろ」
 賢い奴らだ。俺の言葉が分かってるとしか言い様がないくらい、物わかりがいい。訛りの強い同僚と交換して欲しいくらいだね。専門用語は流暢だが、日常会話や冗談になると途端に訛りが酷くなって聞き取れなくなるんだよ。まぁ、この国の言葉も他国で通じないので、おあいこだと思っちゃいるけどね。
 犬達が揃って後部座席に座る。アーゼは大人しく丸くなっているが、興奮しているのかバルは忙しなく前の座席を覗き込んだりアーゼに乗り上がって風呂敷の匂いを嗅いだりしている。後ろで姉貴が部屋の鍵を閉めた音が聞こえた。俺もレンタカーの運転席に座り、鍵を差し込んでエンジンをかける。
 点灯した計器の数々を癖でチェックし、あまり好きではないがカーナビゲーションシステムを操作する。海浜公園に近い公営駐車場は事前に調べていたので、そこの電話番号を入れて目的地に設定する。経路が表示されると、大きな道路が渋滞を起こしていると表示された。全く、裏道くらい網羅していてもらいたいもんだぜ。お前さんの示した経路通りになど行くもんか。
 姉貴も回り込んできて、助手席を開けたところだった。ふと、姉貴が動きを止める。
「めぐ姉さん! どこか出かけるの?」
 顔を上げるまでもない、快活明瞭な声。幼馴染みの近藤の声だ。
 同年齢で近所だったから、物心ついた時から幼馴染みだった近藤は美人ではあった。俺の男友達は、あんな美人と幼馴染みで羨ましいと挙って言う。高槻とかいう坊主も魅了されて、ストーカーと化すほどだ。芸能界のスカウトも度々舞い込んできたと聞く。それらを引き締まった足で一蹴するのが近藤美亜という女だ。
 俺にとって幼馴染みは兄弟みたいなもんだ。姉貴に懐いていて、毎日のように家に遊びに来た。近藤は家族と仲が悪くって、姉貴が一人暮らしを始めた頃には警察沙汰になるほどに姉貴の家に駆け込んだもんだ。頑固で強引。けっこう、わがまま。友達ってやつは基本いない。美人で頭が良くて将来有望な未来を全部台無しにできるくらい、家事が出来ない。俺も近藤も、お互い結婚できねーなって笑ちゃいるよ。
「あれ、今日は平日…のはずなんだけど?」
 ちらりと画面から視線を上げると、クールな美女の装いで近藤が歩み寄ってくる。風になびく長い髪。ナチュラルメイクにうっすらと微笑んでいるのがわかる程度の濃さのサングラス。麦わら帽子に白い花が飾られ、白いブラウスに紺のロングスカートは住宅街の一角とは思えぬ空気を醸し出してくれる。花束のように抱いている、鮮やかな風呂敷でラッピングされた長いものは姉貴への手土産だろう。
 足元に姉貴の家に居ついた白猫がいる。真っ白い毛並みに青い瞳の、一眼見ただけで美しいと思う雌猫だ。近藤がプレゼントした、どこのブランド物だよって思うような金のネームタグネックレスが首に掛かっている。首輪じゃねーだろそれ。
 その後ろにいる人影に目を止めて、俺は思わず眉を潜めた。
「つーか、近藤の後ろにいるのストーカー野郎じゃん。なんで一緒なんだ?」
 近藤に荷物持ちにされているのだろう。美味しいと評判のテイクアウトの店のロゴが入った紙袋を両手に持った、高槻守も一緒だ。
 イケメンで運動神経が良く、男性ファッション雑誌の読者モデルとしてたまに小遣い稼ぎする、この近辺じゃあ知らぬ者はいない有名人だ。学校じゃ羨望の的で女子共から告られ放題だろうに、なぜか近藤に執心してストーカーにまでなってる残念野郎でもある。ある意味、人生すら狂わせて近藤と結婚しようとしてるようにしか見えない。近藤にそこまで魅力があるとは、俺にはとても思えないんだがなぁ。
 そんな残念な男が、最近、もっと残念になった。ペットを飼い始めたみたいなんだが、爬虫類なんだよ。アルビノの蜥蜴だ。白くて青い瞳で珍しいし、よく見りゃあ可愛いけどさ、何故に蜥蜴。もっと大衆受けするの飼って良いと思うんだけどな。いるいる。紙袋の中から顔が見えた。
 つーかさ、お前ら、一緒に海行く気満々なの?
「今日は有給使って休んできたの! ほら! めぐ姉さんが気になってた、お酒も持ってきたわよ!」
「お酒は嬉しいですけど、近藤さんが一緒に行くだなんて聞いてないですよ。高槻さんもですよ!」
 強引に酒瓶を抱かせて、近藤は後ろの席に手を掛ける。俺が面倒そうに見ると、にっこり笑って扉を開けた。その間に姉貴はストーカー野郎に詰め寄っていた。君は学生だろう、学校はどうしたんだと問い詰めているようだ。
「俺は少し前の全国大会に参加した代休です」
 よろしくおねがいしまーす。車に乗せさせてくれることに対して、礼儀だけはあるようだ。挨拶しながら真後ろの席に高槻が乗り込んだ。姉貴だけがおろおろと、展開の速さに付いていけてない。茫然と車に乗り込んだ面子を凝視しているようだ。
「姉貴、車出すぞ。乗れよ」
「え? だって、私と透で行くんじゃ…?」
 めんどくせぇなぁ。猫が笑うように鳴いてらぁ。
 助手席の扉を開けてやって、姉貴を座らすように促す。変なところで鈍臭いんだよなぁ。姉貴は助手席に座って靴を脱いであぐらをかくと、後ろの席で窮屈そうにしているアーゼを足元のスペースに招き寄せた。バルがズルイと言いたげに声をあげたが『バルは帰り』と窘められる。甘えん坊のアーゼは姉貴の膝に前足と顎を乗せて、すっかり寛いでるな。
 車を発進させ、裏道を縫うように進む。高槻が買ってきたのだろう、ファストフードの期間限定シェイクが回ってくる。マンゴー味。俺、結構まったりとした味が好きなんだよな。ありがたくいただきながら、他愛もない会話が車の中で交わされる。
 他愛もない会話だと思うんだよ。
 姉貴が高槻の全国大会の戦果を聞くのは良い。今回は団体戦で優勝したらしいので、学校に横断幕が掲げられるだろうと笑っている。あの学校は高槻のおかげで強豪校になりつつあるので、それはそれで良いだろう。警察学校から入学の推薦状が来たとも言っていて、姉貴は凄いですねと純粋に褒めている。他愛もない話だ。変じゃない。
 しかし、高槻と近藤とでの会話の内容はなんか変だ。
「ランフェスバイナを元通りに戻してもらえて良かったわね」
「本当に良かった…。シルフィニア様は、本当は滅ぼすつもりなんかなかったんですね。…痛っ!噛まないでくださいよ!」
 なんだそれ。姉貴にそんな話題を振るのは良いんだよ。姉貴はゲーマーだからな。ランフェスなんたらなんて横文字のファンタジーっぽい名前も、滅ぶとか不穏なワードも、いかにもゲームに出てきそうだしな。でも、なんで高槻と近藤の間でそんな意味不明な横文字が出てくるんだ。
 しかも、話の内容が高槻と近藤と、まだ何人かいそうな形式で展開している。後ろにいるのって誰だ? 高槻と、近藤と、バルと、姉貴の家に居ついた白猫…ニアって名前にしたって言ってた奴と、高槻の飼ってるアルビノの蜥蜴だ。まてまてまて、喋れるの二人だけだろ。幽霊でもいるのかよ。
「透。お煎餅とクッキーあるけど、どっち食べる?」
「クッキー食べるわ」
 姉貴はクッキーの包装を開けて、赤信号のタイミングで渡してくれる。姉貴は変に思わないのだろうか? アーゼが煎餅を食っているのだろう。ばりばりと良い音がして、嬉しそうに声を上げる。そんなアーゼに嫉妬してバルが吠えるのだ。
「式典に呼ぶんですって? 変な格好させないようミアリアークに頼んでるけど、写真くらい撮ってきてよ」
「断られるんだよ。どうしたら、来てくれるんだろう…」
「押しに弱いからって、手加減したらダメ。崖から突き落とすくらい強引で良いのよ」
 なんの話をしているんだ…! っていうか、近藤は高槻のこと嫌ってるくらいだったろ! 俺は聞く限り、近藤が高槻に声をかけた内容は『嫌よ』の一言くらいなもんだぞ! なんなの。お前ら一体何があったんだよ!
 俺はこそりと、姉貴の啜るシェイクの太い音に消されそうな声で訊いた。
「あ、姉貴…。後ろの二人、仲良くなったのか?」
「あぁ、ねぇ。何があったか知らないけど、近藤さんがあんなに自然体で接する人が増えて嬉しいよ。なんか、女王様と下僕って感じの関係性で、見てて新刊のテーマにしちゃおうかなって思うもん。やっぱりラストは女王様と下僕の心が通じ合って、結婚するハッピーエンドだよねー。でも、分岐次第で複数のエンディングがある、変わり種でも作ってみようかなー。設定とプロット立てよう」
 変わんねぇ。姉貴が不動ってくらい、いつも通り。めちゃくちゃ安心する。
 しかし、姉貴も知らねぇのか。それでも、姉貴が二人の距離を縮めたのは確かだろう。姉貴が間に入らなければ、話し合うことから無理な二人だったからな。姉貴の宅飲みに同席していることもあるのだろうし、その時に仲良くなったのかもしれない。
 姉貴の言う通り女王と下僕みたいだが、あの近藤を三歩下がらせて従わせるような男など、この世界には存在しないだろう。
 姉貴がアーゼの首を軽く叩いた。アーゼが顔を上げて、そのまま窓から落ちそうなほどに身を乗り出す。海岸線に出て、海が真横に広がっている。天気が良くて海も穏やかで良い色だ。後部座席からも歓声が上がって、皆が海を見ているのをバックミラー越しに見た。普通に海見て喜ぶのな。変だと思う俺が、変なのかもしれない。
 海浜公園の駐車場から浜辺へはそんなに距離もない。バルとアーゼが大砲の弾かと思う速度で海に突撃していったのを見送りながら、俺達は弁当を広げて青空の下に宴席を作る。重箱にぎっしりつめたお稲荷さんを早速失敬したのは、白猫のニアだ。なぜか高槻の蜥蜴も食ってる。こいつらもバルやアーゼ並みにグルメだな。警戒しておこう。
 高槻と近藤は海に近いところで隣り合って立っている。何を話しているかは知らないが、高槻が嬉しそうなのは分かる。近藤と結婚するとか、マジでねーわ。高槻にやめとけって忠告するのも面倒だが、恋は盲目って言うし聞きゃしねーだろ。
 お酒の瓶を抱えて飲む姉貴の横で、俺はだらだらと横になる。
「はぁー。こうやってだらーっとしていられるの、しあわせだなー」
「わかるー」
 そんな俺達の目の前で、弁当を失敬しようと狙う鳶をバルとアーゼが撃退している。その姿、どう見ても犬じゃない。黒い姿が伸び上がって、犬じゃ届かない少し上を何かがなぎ払うのだ。なんか、おかしくね?
「なぁ、姉貴」
 姉貴はコップの中身を飲み干すと、俺を見下ろしてくる。度のキツい眼鏡の奥の目は、どんなに飲んでも酔って淀んだことはない。へらりと笑う姉貴は、俺が生まれた時から知るものと何も変わらない。変わったことと言えば、膝の上で丸くなっている白猫を撫でていることくらいだ。バルを飼い始めた姉貴は、動物が苦手なのを克服したようだった。
「なに?」
 姉貴の周り、なんか、変じゃない?
 そう喉から迫り上がる言葉を飲み込んだ。
 姉貴は変じゃない。俺の知る、俺の姉貴だ。姉貴を取り巻く何もかもが、なんか変になっているのだ。それでも、姉貴は変わらないなら、別に良いんじゃないかと思う。姉貴が変わらないなら、俺もきっと変わらない。
「いや、なんでもない」
 俺に害がない限りは傍観者になった方が楽だ。俺は見て見ぬ振りを決めた。