騎士団長は高らかに平和を宣言する

 ランフェスバイナの大聖堂前広場には、美しいモザイクの石畳が見えないほどに人が犇いた。広場が見える建物の窓という窓、ベランダというベランダ、屋上にも溢れんばかりに見物人が身を乗り出している。全員がアーゼとランフェスバイナの和平締結の節目に行われる、パレードを見るためだ。
 だが、今回はそれだけじゃ無い。
 ランフェスバイナの復活を祝うための、盛大な祭典でもある。消滅していたランフェスバイナは、時を止められ次元の間に移動させられていたらしい。それでも不安定な場所だ。いつ、崩壊して消滅してもおかしくなかった。実質消滅と表現しても大袈裟ではなかっただろう。あれほどの規模を、移動させる前となんら変わらず留め置けたのはニアとしての膨大な魔力の成せる業だった。
 ニアは、いや、シルフィニア様は結局ランフェスバイナを憎んでいても、壊すことはできなかったのだ。
 消滅に巻き込まれた人々も一人も欠けることなく戻ってきた。巻き込まれなかった生存者達の喜びに、次第に自分達が危険な状態にあったと察した。今では復活したランフェスバイナを、アーゼも共に祝ってくれる。盛大なパレードは多くの喜びと祝福が詰まっていた。
 そして、特別な客人が今回限り現れる。
 アーゼの方角からタシュリカと黒い竜が飛んでくる。それは上空を旋回し、ランフェスバイナの民の上に濃い影を落とす。人々は恐れ慄きながらも、上空を優雅に舞う脅威に見入っていた。広場で展開していたパレードの隊列がバラけていき、ランフェスバイナの国章のモザイクが施された石畳が見える。その上に、タシュリカと黒竜は降り立った。
 俺も、ミアリアークも、そしてランフェスバイナの兵士達もが息を飲む。黒竜の存在は一度見れば、一度脅威に曝されれば一生忘れることなど出来やしない。戦場の暴君。魔王の化身。竜将軍イゼフの力が具現化した、俺達に向けられた敵意。それが、ランフェスバイナの大聖堂前の広場にいることは、和平を結んだ今でも肝が冷えるような不穏さを醸した。
 タシュリカからトーレカが降り立つ。毎年、この時期はタシュリカで訪問するトーレカは、白に真紅の巨鳥を刺繍したマントを翻す。黒竜の前に立てば、光ってすら見えるほど。その傍に黒い人影が立って数歩進み出る。
「やぁ、団長君。ランフェスバイナを守れないだなんて、とんだ失態だったね。君が不甲斐ないから、俺は地獄でおちおち寝てもいられないよ」
 総毛立つ。イゼフの言葉がランフェスバイナに響いた。奴だったらそう言いそうな言葉、奴に似た口調、そして低い声。
 黒竜が崩れて二つに分かれ、黒い人影がふんわりと掲げた両手の下に凝縮する。大きな二匹の黒犬の姿になると、白い手は犬達を撫でた。ぱっと広がった青空の下に、トーレカよりもずっと小柄な人影がいる。バルダニガの器だけが着ることを許された漆黒の外套は、様々な獣に見える複雑な金糸の刺繍を星のように輝かせた。目深に被ったフードの下で、口元が朗らかな笑みを浮かべた。
「なんてね。どうですか? イゼフさんに似ていましたか?」
「心臓止まる程にそっくりだったよ」
 それはそれは。佐々木は小さく、しかし、確かに声を出して笑った。控えめな彼女が声を上げて笑うのは珍しい。
「フードを外さないのか?」
「見たいんですか?」
 うっすらと口紅を施されて、血色の良い口元が笑みを深めた。今回の式典に参加するにあたって、佐々木を着飾るとは聞いていた。いつもの化粧っ気のない、髪を結っただけの、ワイシャツとズボンだけのような装いは許さないとミアリアークと美亜が結託したのだ。ミアリアークが言うには美亜がデザインした外套と合うドレスだそうだ。トーレカ曰く、着付けや髪結はアーゼで一番の美容師が担当するとか。
 フードの下はいつもと違う佐々木恵がいるわけで、興味がないわけじゃない。むしろ写真を撮ってこいと美亜にせがまれているので、外してもらわないと困る。
 にやりと笑みが歪む。おかしい。佐々木が見せる笑みではない。
『ねぇ、ファルナン。ミアリアーク。俺達は負けず嫌いなんだよ。今度こそ勝ちたいんだよねぇ」
 三つの声、二つの言語、一つの意味。それらが織り混ざって、聴覚と知覚をかき乱す。佐々木が融合した状態の発語だ。俺は剣の柄に手をかける。なんで、融合などする必要がある。勝ちたいとは、どういう意味だ?
 佐々木はゆっくりと両手を広げた。黒犬達はいつの間にか消えている。
『俺達にゲームで勝ったら、顔を見せてあげるよ」
 ゲーム? 首を傾げる俺の首元から、ランフェスバイナが顔を覗かせる。ちろりと舌を出し入れすると、嘲笑うように闇を見て言う。
『アーゼもバルダニガも奴らの器も、随分と根に持つ性分のようだな』
 根に持つ。その言葉がパッと疑問を晴らす。
 先日、ミアリアークが佐々木に頼んで融合状態で戦った。結局、シルフィニア様の乱入で決着は着かなかったと思ったが、ミアリアークの力で佐々木は溺れかけたのだ。あれを佐々木とアーゼとバルダニガは敗北と取ったのか。だから、勝ちたいと言うのか。
 真後ろに気配が湧く。黒犬が二匹、俺とミアリアークの子供達を背に乗せている。黒犬の一匹がアシュリアーナを俺たちの後ろに下ろし、もう一匹が佐々木の後ろにミルファーク連れて行って下ろした。二匹は子供達の頬を舐めて、柔らかい声で囁いた。
『ここで待ってて』『大丈夫、お迎えが来てくれるよ』
 バルダニガは俺がランフェスバイナの力を賜ってからアーゼ・ナシュームで修行している間、子供達の遊び相手をしていたこともある。子供達もバルダニガとアーゼの言葉を信頼しているのか、大人しく立っている。子供達が怯えたり泣いたりしていないのを確認したのか、子供達から視線を戻した佐々木は話しかけてくる。
『先に相手の背後にいる子供に触れる、または相手を降参させたら勝ちだ。妨害攻撃なんでもあり、観客も遊び手も楽しいゲームだよ」
「こんな余興をするとは、聞いていないぞ」
 俺の言葉に獣の神の器は笑う。
『ササは君の我儘を聞いたよ。ギブ アンド テイクだ。安心してよ。これは遊びだ。誰も傷つけないと誓おう」
 相変わらず、変な言葉ばかり覚えるのな…! だが、理解はできる。拒絶に近い佐々木を式典に連れ出した対価は考えていたが、佐々木の方から要求してきたのだ。応える必要がある。
 俺は剣を抜いた。ミアリアークも背後で魔力を練り始めているのを感じていた。
 白い手が打ち合わさり軽快な音を響かせた。俺達を迎えるように、ゆっくりと両手が開かれる。
『さぁ、人の子。ランフェスバイナ。俺達と遊ぼう!」
 獣達が飛び出した。バルダニガとアーゼであろう黒い獣達が、息を合わせて獲物の喉笛を食い破ろうと迫る。それを光の刃で切り払えば、獣の体は崩れて小さき獣になる。以前戦った時と同じ戦い方。
 ミアリアークが優雅な手つきで水を操る。美しいドレスの裾のように、美しく長い髪の一房のように、水は舞うような彼女に従って流れるように動く。放たれた水は黒い外套の内側に向かって、真っ直ぐに放たれる。内側の闇が膨れ上がり、黒竜の形に変じた闇は佐々木と水を一緒に飲み込んだ。さらに黒竜は翼を広げ羽ばたいて生み出した黒い風で、ミアリアークの周囲にあった水を全て巻き上げた。
 竜はのけぞり、口から空に向けて圧縮された水の玉を吹き上げた。それを竜は飛び上がり、空中前回転を決めて尾で打ち壊す。ミアリアークが生み出した膨大な水が、霧雨になってランフェスバイナ全土に降り注ぐ。快晴の空に描かれた大きく丸い虹を見て、人々が歓声を上がる。
 水と太陽の光が生み出した輝きに、竜は消える。佐々木は変わらぬ場所に立ち、外套の内側から二匹の黒犬達が現れる。佐々木は獣の神の首を軽く叩くと、俺達に差し向ける。迎え撃つ為に剣を構えた俺は、獣達の影の奥で外套から白い腕が上がるのを見た。
「よく見えないな」
 佐々木が自分からフードを剥いだ。
 眼鏡を掛けていない、本気で俺達に挑んでいる佐々木の顔が露わになる。編み込まれて作られた前髪が新鮮だ。いつもは結って後頭部で膨らんでいる髪は梳き解されていただろうに、ミアリアークの生み出した水を吸い込んで重く肩に落ちている。こちらに向かってくる足元に、点々と滴が滴っている。
 いつもとは違う。綺麗にされていると思う。
 でも、俺はそれとは違う意味で、佐々木の素顔を嬉しく思った。
 俺に勝とうと輝かせた目。互いに出方を探り、凌ぎを削り合う為に結ばれた視線。高揚して赤い色の差す頬と、持ち上がった唇の隙間に見えた食いしばった白い歯。一挙一投足示し合わせた舞踏で、最回答を奪い合って踏み込んでいく。佐々木は俺に向けて、俺も佐々木に向けて、暴力じみた戯れあいに興じている。
 目まぐるしい攻防の合間に、闇で出来た獣達の会話が耳に触れる。
『ササも熱くなって、仕方がないな。いつもと違う姿にされたのを、腹立たしく思うなんて理解できない』
『もー! アーぜったら分かってないなー! いつもと違うササは今だけなんだよ! 期間限定なの! 俺達も楽しまないと置いてかれるぞ!』
 イゼフ。来世も俺の敵でありたいと願った気持ちが、俺にもよくわかる。お前と戦うのが、俺は楽しい…!
 佐々木。きっとお前も、同じ気持ちなんだろう。そう願っている俺がいる。
 白い手が掲げられると、石畳の影から大量の影が湧き出す。それは俺もミアリアークもランフェスバイナも、バルダニガもアーゼも飲み込んだ。一寸先も見えない闇。ランフェスバイナの光が、加護を受けているミアリアークをうっすらと輝かせている。
 どこだ。どこへ行った。
 剣を片手に周囲を見回す。ミアリアークの警戒する姿が見え、娘のアシュリアーナの気配が背後にある。佐々木は俺達に勝ちたいと言った。この勝負に勝つ方法は二つ。相手の背後にいる子供達に触れること、どちらかを降参させること。俺達は降参するつもりは更々ない。ならば、佐々木は子供達を目指す。
 佐々木は、アシュリアーナの前にいる。
 俺は振り向き様に剣を振り上げる。アシュリアーナの気配の方へ、真っ直ぐなぎ払う。そのままなぎ払ってしまえば、子供すら傷つけるだろう踏み込んだ角度で、俺は剣を振った。俺の腕に手が触れる。予想していた感触に、俺は腕をピタリと止めた。
 闇が霧のように流れて、晴れていく。
 俺の剣は佐々木の首にピタリと添えられていた。佐々木の真後ろにはアシュリアーナが立っていて、目の前に突然現れた佐々木を驚いたように見ている。佐々木は苦々しい顔で、俺の腕に触れていた手を下ろした。
「高槻さん。君は狡いなぁ。私が子供を庇うの、見越したでしょう?」
「俺は俺の敵のことを、仲間より分かってるつもりだから」
 そう答えると、俺は剣を鞘に納めた。
 佐々木は肩を落とし、深い深いため息を吐く。慰めるために寄ってきた獣の神達に、しゃがんで顔を埋める。佐々木が顔を埋めたのはアーゼだったようで、バルダニガが『ずるい』と喧しく吠えた。そんなバルダニガの頭を抱き寄せて、佐々木は黒犬達を撫でる。
「はぁああ。悔しいなぁ。本当に悔しい。バルダニガ、アーゼ、お疲れ様。ありがとうね」
 ゆっくりと立ち上がった佐々木は、外套を脱ぐ。アーゼ・ロハニウの伝統美が光る、足元まですっぽりと覆う黒いロングドレスだ。ストンとしたシルエットに、金糸の刺繍が外套と同じデザインで施されている。外套で隠れていた部分はノースリーブになっていて、肩から露わになった白い肌が光ってすら見える。大きくはない胸元は、首から腰へ向かう布の流れに美しく強調されてすらいる。華美でもシンプル過ぎもせず、佐々木に似合うよう誂えた品だと良く分かる。
 しかし、なぜ脱いだんだろう。あれか。途中でフードを外してしまったから、代わりに外套を脱いだのか。律儀だな。
 佐々木は恥ずかしそうに、手に持った外套に顔を埋めた。
「あー、もー。こんな恥ずかしい格好させられて、遺憾の極みです」
「いや、き、綺麗だよ…」
 佐々木は外套から顔を上げる。俺をひと睨みした後、外套を羽織った。
「お世辞は結構です」
 そっぽを向いた佐々木と入れ替わるように、トーレカが歩み寄った。
「さぁ。団長君。盛り上がったことだし、最後の仕上げといこうじゃないか」
 見回せば、歓声が湧き上がる。神々の戦いを目にした民達は、興奮したように湧き立っていた。
 俺達は互いに目配せして、広場を見下ろす礼拝堂の入り口へ続く段差をあがる。俺が、ミアリアークが、子供達が、トーレカが、佐々木が、ランフェスバイナが、バルダニガが、アーゼが、この世界の命運を背負った壮々たる面々が並んだ。俺は一歩前へ踏み出し、声を張り上げた。
「まずは、アーゼの尽力と神々への感謝を捧げます。ここにいる全ての人々の協力があって、今、素晴らしい笑顔と未来を取り戻すことができました。私、ランフェスバイナ王国騎士団長ファルナンは、ランフェスバイナ王国の復活と平和を宣言する!」
 歓声が空をも震わせる。人々の喜びに溢れた笑顔が、再会を喜び抱き合う姿が、広場のあちこちで繰り広げられる。終わることのない歓声のどこかで楽器が奏でられ、人々は手に手を取って踊り出す。子供達は駆け回り、乾杯の音頭と掲げられた杯が打ち合わさる。祭りが始まる。
「シルフィニア様。貴女の民の顔が見えますか? 本当に素敵な笑顔よ」
 ミアリアークの言葉を横に聞く。佐々木の部屋で、人を駄目にするクッションに埋まって微睡んでいた白猫の姿を見たのが最後だったな。シルフィニア様は頑なに今回の祭典への出席を拒否した。猫の姿でも嫌だと動かず、爪を立てたクッションを一つ駄目にした。パウダービーズが佐々木の部屋に飛び散って収集がつかなくなり家主が激怒したんだ。ひっそりと姿を消して有耶無耶のままに、彼女の出席は叶わなくなった。
 それでも、この光景を見ているだろう。どんなに憎く思っても、故郷を壊さなかったのはシルフィニア様なのだから。
 俺は満足げに目の前の光景を見ている。望んだ結果を得られたことを、心の底から嬉しく思うと口元が誇らしげに持ち上がる。
「やっぱり、格好良いですね」
 声の方を向けば、トーレカから眼鏡を受け取って拭いていた佐々木と目が合う。
 やっぱり? 格好良いですね? 佐々木が俺を褒める言葉としては、初めてのものだ。
「佐々木さん?」
「負けを認める。私の、完敗だったよ。イゼフさんのように君の好敵手を演じることは、私には難しいようだ」
 眼鏡を掛けて、控えめな笑みを浮かべる。俺の良く知る、佐々木恵のものだ。彼女はバルダニガとアーゼを引き連れて、立ち去ろうと身を翻す。ふんわりと広がった外套から一瞬覗いた佐々木の腕を俺は掴んだ。もちろん、痛くしないよう優しく。
「帰らないで、見ていけよ。もう、お前だって前世の続きは無関係じゃないだろ?」
「無関係でいさせてくれなかったのは、どこのどいつでしたっけ?」
 振り返った不満げな顔に、俺は不敵に笑って見せる。どこのどいつでしたっけね?
 お互い前世の続きをするのは悪くないだろ。俺の前世が、お前の前世に殺されたことから始まったんだ。来世である俺が前世の続きを始めて、お前も仲良く巻き込まれた。それで、なかなか上手くいったじゃないか。神々の争いは終わり、女王の孤独は癒された。こうして世界は救われて、平和になったんだ。良いこと尽くめだろ?
 佐々木は立ち去らなかった。前世の俺達が見ることのできなかった光景を、来世の俺達がいつまでも並んで見ている。