夢の住む世界

 城の廊下は騎士と仕官が互いにぶつかり合いになる程に慌ただしく、声は響かぬものの足音は絨毯に吸収しきれず真っ直ぐに伸びる廊下をざわめかせる。時には城に避難して来た城下の住人の喧噪も耳に触れる。帝国騎士団長アレクセイが帝国に叛旗を翻し、先日まで次期皇帝候補エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインを利用し帝国首都を混乱させてまだ間もない。
 騎士の多くはエアルにて異常成長を遂げた植物や、その陰に潜む魔物の駆除を終え城下の修繕に大忙しである。仕官は評議会で決定されたもう一人の皇帝候補ヨーデル・アルギュロス・ヒュラッセインへの全権委任の調整で、右も左も分からぬ程の紙吹雪のごとき書類のやり取り。さらには新たなる騎士団長代行が任命された直後である。シュヴァーン自身も今回の件の報告書と言う膨大な量の書類を書き上げ提出した間もなく、各隊の状況把握と調整が山積みになっている。シュヴァーンは人ごとではないと内心溜息を零さずにはいられなかった。
 足早に歩を進める一人の壮年に差し掛かりつつある騎士を前に、騎士も仕官も足を止め軽く会釈をし敬礼をして通り過ぎる。その都度、彼は目礼を欠かさず毅然とした態度を崩す事無く通り過ぎて行く。後ろ姿を見送る誰もがその佇まいに尊敬の視線を投げ、己の心を鼓舞して歩き出す。彼こそ帝国騎士団隊長主席、シュヴァーン・オルトレインである。本来ならば彼が団長代行になるのを、己の隊の特殊性と団長の陰謀を見抜けなかった罪として辞退した。真相を知らぬ者達はその謙虚な姿勢に、さらに好意を募らせたと言って良い。
 極秘任務にて殆ど帝都に戻らなかった隊長の帰還は、騎士団の士気を確実に上げ一つに纏まったと言える。
 光の加減で黄金に見える甲冑に、深紅の肩当てが光る。オレンジに染め抜いた衣がふわりと歩くたびに舞い、剣に添えた手がその衣を優雅に押さえた。足早に進める歩から足音は響かず、鎧甲冑が擦れる音は周囲の音に溶け込んで無音で進んでいるかの様だ。漆黒の髪に隠れた碧の瞳が、そっと通り掛かった扉を見る。
 彼の部下が誘導した下町の住人が滞在している部屋からは、賑やかしい声が漏れ出していた。一枚戸を隔てれば、権力争いや陰謀に渦巻いて淀んだ空気であるので、開けてはならないと彼はそっと目を閉じて視線を逸らした。本来ならば部下が修繕に出ている下町の状況を伝え、安心させてやるべきだと思っているのに、それが出来ない自分の器の小ささを僅かに悔いた。
 通り過ぎて直ぐ。
 ほんの数歩先に進んだ時点で扉が開く音が響いた。子供が笑い声と共に飛び出す音、それを咎める声に思わず振り返った。
 子供は誰にもぶつからなかったらしい。迷惑そうに騎士や仕官が見つめる中で、さっさと部屋に子供を押しやる老人は小さく頭を下げて悪気も無く謝った。そして、驚いた様に視線を留める。
「シュヴァーン君じゃないかね?」
 まさか声をかけられるとは思わなかった。そう態度に滲み出てしまったシュヴァーンは、背の曲がった老人に改めて向かい合った。記憶では背は曲がっていてもまだ背筋が伸び、雷親父さながらの風情を漂わせていたのに今ではすっかり老け込んだ。白髪が若かった時の髪の色を尽く蝕み、皺が増えて窶れた感じが漂う。眼鏡の度も上がったのか、目元がやや小さく見える。それでも、その声は聞き違えようの無い響きで持ってシュヴァーンの記憶を叩いた。
 シュヴァーンは軽く会釈をし、穏やかな声で話しかける。
「ご無沙汰してます」
「まったくじゃわい。お前さん達が戦争から帰って来て偉くなった途端に、ぱったり姿を見せやせぬ。噂ばかりはえらく凄いのばかり聞くが、お前さんが顔を見せんから大層心配しとったんじゃぞ」
「任務で多忙を極めておりましたので…。ご心配をお掛けして申し訳ない」
 苦笑を滲ませながらも、騎士では良くある平民への見下し感は微塵も感じない。やり取りを聞いていた者達は老人のあまりにも無礼な言葉に怒りすら感じたが、当人が咎めぬのなら何も言えぬと佇んでいる。
「今、各隊の騎士が下町の状況を確認しています。危険が取り除かれた時点で、住人の外出が認められます。もう少し御辛抱下さい」
「あぁ、フレンもそうだが、お前さんが居るからなぁんも心配しちゃいないよ」
 騎士団長代行すら呼び捨て。周囲に一瞬ざわめきが走った。
 それでもシュヴァーンの毅然とした態度でありながら、敬語を崩しもしない。
 平民を数多く隊に組み込んでいるシュヴァーン隊の隊長であるからだけではなく、平民から成り上がった騎士だからでもなく、どのような相手であっても敬意の姿勢を崩さぬ彼自身の人柄がそこにあった。ハンクスも十年来の再会に口調は変わったが本質は変わっていないと感じたのか、シュヴァーンを懐かしげに見上げた。世間話が今では柔らかくなった口調によく似合い、城の廊下に染み込んだ。
「イエガー君やキャナリちゃんも元気かね?」
「はい」
 シュヴァーンは意識よりも先に突いた言葉に、己の欺き方がこれほどまでに上達して良かったと思った事は無いと心に思った。元々己の持っていた頑なまでの真面目な態度が、唇が紡いだ言葉の意味によって僅かに苦笑するのを微笑みと相手に受け取らせる。
「元気にやってます」
 一人は海凶の爪の頭首として。一人は天国で。シュヴァーンは事実を言えなかった。
 この老人の目の前では、シュヴァーンは隊長ではなく駆け出しの見習い騎士で、夜ごと騒いで叱られた若者なのだ。様々な問題を解決するべく頭を抱えるような偉い人でも、多くの部下に慕われる帝国騎士団の隊長でもないのだ。あの二人も彼の目の前では、頭が悪く不器用だったが若くて大人には眩しくて純粋な夢を持った見習いの騎士だったのだ。だからこそ、シュヴァーンは嘘を訂正しなかった。
 ハンクスはシュヴァーンの多忙さを知っている。シュヴァーンは隊長になって人々に噂になって名を聞かれる様になって、同期であった二人も同じようなものなのだろうと思っていたのだろう。シュヴァーンの言葉に深く詮索をしなかった。ハンクスのさっぱりとした人柄を、シュヴァーンは好ましく感じた。
「そうかい。もうちっと早く会えれば良かったんじゃがなぁ。昔、お前さん達が大騒ぎして漬けた果実酒はこの騒ぎで駄目になってしまっただろう?」
 ハンクスは昔を懐かしむように、眼鏡の奥の瞳を和ませた。
 シュヴァーンも昔を想い、沈黙に身を任せる。
 シュヴァーンは元々平民出身の騎士で、貴族のイエガーやキャナリとは財布の温度が明らかに違った。下町の酒場で平民出身の仲間達と馬鹿騒ぎしたのが昨日のようで、しかしテムザ山で別れた者達の顔はぼやけて思い出せない。まるで自分自身の涙で見えなくなっているかの様で、シュヴァーンは泣かなかった分の涙が思い出に漏れてしまったんだと笑った。
 それでも何の縁だったんだろう、貴族出身の好奇心だったのかイエガーとキャナリもいつの間にか下町の酒場へ行くのに同行していた。
 随分と回数を重ねて果実酒造りが出来ると聞いて、大量の見当違いな果実を両手一杯に抱えキャナリが押し掛けてきた。あの木造の階段を蹴る軽やかな足音と、楽しげな声は今でも鮮明に耳に残っている。大量の氷砂糖と果実の甘い香りが、酒場で一番度の高い酒に浸されて消え失せて安堵した自分。完成を楽しみにしていたキャナリを前に、宿舎に持って行けば誰かに飲まれると冷静に分析していたイエガー。結局、ハンクスの善意で保管しておいてやろうと言ってくれるまで、三人は頭を付き合わせ唸っているばかりだったろう。
 輝かしく、何もかもが新しかったあの時。幸せだった。シュヴァーンは思い出の甘さと、現実の辛さに胸焼けを起こしそうになる。
「悪ガキ共から守るのが大変じゃったというのに、お前さん達に渡せなくって本当に残念じゃ」
 苦々しく笑うハンクスの思い出。そこに出て来る悪ガキ共に見当が付きシュヴァーンは笑った。
 果実酒に漬けた宝石細工のような果実。氷砂糖は透明な泡になって、液体は濃厚な琥珀の色。1年漬けたら飲み頃と手帳に印を付けていたキャナリだったが、その豊潤な香りと色に一ヶ月後には開けたがったのを二人掛かりで押し止めたのを覚えている。戦争で1年後には戻れなかった若者達は、いつの間にか酒の事など忘れ果てていた。
 老人の家の奥にひっそりと隠された甘い香りのする飲み物は、子供達にはさぞ妖艶で不思議で神秘的に映ったのだろう。悪戯を怒鳴り声で叱る老人が殊更大切にしているとなれば、あれはどんなお宝でどんな曰く付きがあるのだろうと想いを馳せて語り合っていただろう。青空に展開する結界の下で真剣に語り合う子供達の背中を、老人は思い出していたのだろう。
 それはシュヴァーンの知り得ぬハンクスの記憶。シュヴァーンの導き出したハンクスの笑顔から察した仮想。
 それでもシュヴァーンも、その笑顔から心地よい想いを感じる。
 やがてハンクスは現実に意識を戻したのか、厳しい表情を顔に張り付け身を翻した。
「また新しく漬けておいてやろう。必ず、引き取りにくるんだぞ」
「はい。三人揃った時に頂きます」
 駄目になったその酒も天国に一足先に行っているだろう。キャナリの奴、独りで酒を飲み干しちまわなければ良いけどな…。脳裏に浮かんだ満足げな彼女の顔に、シュヴァーンは呆れてしまう。三人。もう、二度とそんな事出来ないに違いないのに、あの頃の楽しげで輝いていた日々が今もハンクスの中では続いている。シュヴァーンは白昼で酔っているかのように、ふわふわした心地を感じていた。
 隊長主席が下町の老人に深々と頭を下げる光景は、人々の目に不思議に映る。
 シュヴァーンは微笑んだ。とても楽しそうに、想いを噛み締めて。