現に現る

「シュヴァーン隊長、失礼します」
 自室で参謀と職務に勤しんでいたシュヴァーンの下に、フレン騎士団長代行がやって来たのは夕刻に迫ろうかという頃合いだった。
 短くも長くも感じない長さに揃えた毛髪は、彼の直毛で剛毛な髪質によってより短く見える。騎士隊長用に誂えた洋服は騎士らしく、威厳ある佇まいでありフレンのピンと伸びた背筋と非常に良くあった。納められた剣もだいぶ馴染んで来たのか、騎士団支給の剣の中では相当の重量を持っている剣であってもその存在感は彼の敬礼の前には飾りに過ぎない。少々真面目過ぎて接し難い所もあるかと外見から思われてしまうやも知れないが、フレンは表情豊かでまだ若い故のあどけなさも残っている。
 代行としての仕事が一段落し、ヨーデル殿下の承認待ちという状態なのだろう、シュヴァーンは生真面目な青年の有能さに内心唸った。
 それでも、団長代行と隊長主席とで業務の量が違うかといえばそうではなく、実際は同じか修練の指導に当たっている故に主席の方が多いくらいだった。むしろ、シュヴァーンは普段の倍以上の仕事をこなしていたといえる。フレンの真っ直ぐな理想への想いは、昔見た背中に良く似ていた。一人で背負っていた重圧の重さと汚れは凄まじく、目の前で崩れていった姿を今でも痛たましく思い返す。昔とは様々な条件が異なるだろうが、この若者にそう言う事をさせたくはない。シュヴァーンはより自分を厳しく律して仕事に取り組んでいたし、フレンもまた憧れすら抱いた隊長主席の心遣いを心から感謝していた。
 そしてその二人の隊長が協力する姿勢は、騎士団に今までに無い調和性を生み出していた。
 参謀は微笑んで茶器の用意をする為に部屋の隅に向かい、シュヴァーンも席を立って立場的には上官に当たるフレンを迎えた。オレンジの隊長服は左右非対称であるが、シュヴァーンは騎士団で支給されるありとあらゆる武器を使いこなせる事で有名で、どのような武器を用いても妨げにならぬよう工夫されている。肩当ての大きさ、マントの形に至るまで当時にしては異色とまでに改良が施されている服だ。
 シュヴァーンは一体何の用件で来たのだろうと小さく首を傾げる。代行と主席間で行われる中間報告や会議は終えた後で、特に話し合わなくはならない問題など無い筈だ。だが、急遽出た問題で己が把握していないなら話は別だ。シュヴァーンは真剣な顔つきでフレンを見た。
「何か、急な事態でも起きたか?」
「あ…いえ、大した事では無いのです」
 少し、気恥ずかしそうにフレンが言葉を濁す。本当に大した事でもないのに、わざわざ言いに来た事を恥ずかしく感じてしまった様にシュヴァーンは見受けられた。
 しかし、次の瞬間その部屋に元々居た二人は凍り付く事になる。
「実は、シュヴァーン隊が任務に酒を携帯していると…聞いたものですから」
 全く『大した事では無い』で済まされる話題ではない。シュヴァーンと参謀であるヴィアは、長年相棒をしていたからこそ分かる程度に青ざめた。
 騎士団長代行に知れ、代行は規則違反に目を瞑るような人物では当然ない。推測で動くほど無謀でもないのなら裏は確実にとられているだろうし、それなりの罰は下して来る準備もある筈だ。だが、長く騎士団に属し、騎士団としての体質を骨の髄まで染み込ませた二人は視線を合わせるまでもなく腹を括り応じる。
「…あーらら、ついにバレちゃったわね。ディノイア君にもバレなかったのに、こんな若い子に知られちゃうなんてねぇ」
 参謀のヴィアは豊満な体を押し込めたオレンジの長衣を揺すって、残念そうに頭を横に振って両手を上げた。シュヴァーン隊は諜報部を独自に持っており、騎士団とは異なる情報収集と伝達を持った異色の隊でもある。要因は極秘任務と称して帝都に滅多に戻らぬシュヴァーンとの連絡等諸々に特化した為であるのだが、その話は別の機会に。その諜報関連の責任者を長年していたヴィアにしてみれば、情報の漏洩は非常に残念な事だった。隊の者にも徹底的に口止めさせ機密中の機密事項であった事もあって、信じられない気持ちも彼女の表情には含まれていた。
 シュヴァーンも特に顔色一つ変えずフレンに告げる。
「騎士団から内密で飲酒の携帯を許可していたのは事実だ。今日中に報告書を提出する」
 ほぼ間髪無く肯定され、罰も甘んじて受ける態度の二人を前にフレンが慌てて手を振った。
「あ、いえ、携帯は規則違反かもしれませんが、飲酒は禁じてはいない筈です」
 実はシュヴァーンとヴィアが堂々とまであっさりと肯定したのは、規則違反には抵触しそうでしないからである。実際任務中の飲酒の携帯や禁止を規則に組み込まれれば、制限される対象は調理酒にまで及ぶだろう。騎士団では任務で自炊を強いられる場面は常々あり、一般的な調味料のみならず調理酒まで持ち歩く腕利きは想像以上に多く存在した。自炊で不味い飯を食わされるとなれば、暴動が起きる覚悟が必要である。
 勿論、宴席で酒を飲まねばならぬ場面も出て来る。目上の者から勧められれば規則だからと断れば失礼極まり無いだろう。またシュヴァーンは抜かり無く飲酒は任務遂行外の時間とすると決めており、隊長主席でありながら宴席ですら酒を断っている事実から、フレンもその徹底振りは理解できた。シュヴァーンだとて、取り決めた時間外での飲酒は非常に厳しく取り締まっている。
 先人が試行錯誤して摺り合わせた、微妙なニュアンスの規則。それはこれから先も揺るぐ事は無いと、シュヴァーン達は分かっているのだ。
 フレンもまた、この二人がこれほど堂々としている理由を余さず理解しており、反応に驚きも怖じ気づく事も無く落ち着いた様子で言葉を切り出した。窓から流れ込む夜の気配を感じさせる空気が、室内のカーテンを揺らし髪を揺らして過ぎ去る。
「それよりも、そういう規則に厳しい隊長が黙認していた理由をお聞きしたいと思いまして…」
 シュヴァーンは前団長のアレクセイや将軍のドレイクよりも厳格な隊長として知られている。戦争経験者というのもあり、練習量は騎士団の歴史上では屈指の量を誇り、規則を重んじ礼節においては貴族でも容赦しない指導力で徹底されていた。結界外への任務に酒を携帯するという事を認めるとは、到底思えぬ人物である。『生還する事』を第一に命じる隊長が、生命が危険に晒される事態を助長するだろう要因を敢えて黙認していた事実をフレンは知りたかった。
「……」
 なるほどな。シュヴァーンはそう顔に描いた様に黙り込んだ。
 この寡黙なまでの隊長主席は、己の事を問われるのを嫌っている。人魔戦争の帰還者であったが、シュヴァーンの口から戦争の事について一度も言及された事は無かった。それは敵が何者であったとか戦争の目的がなんであったのかという事ではなく、己が戦争に行って来たという事ですら発言した事の無い徹底振りだった。それ以外にも極秘任務を数多く任され、毅然とした態度に接し難かった点も彼の謎を深めるのに一役買った。フレンにとっても目の前に居る隊長を今まで構成していたのは、他者から聞いた評判や僅かに会う事で得た印象のみ。それはフレンのみならず、騎士団の殆どの騎士がそうだった。
 シュヴァーンは沈黙が耳に痛くなって来る程の間黙り込んでいたが、小さく息を吐いてフレンを見た。
「代行、お時間は大丈夫か?」
「えぇ、もちろん」
 フレンが日が落ちて照明の明かりが室内を明るく照らし出した室内で、陽光のような眩しい笑みを向けた。
 恐らくも何も、フレンは長話をするつもりでやって来たのだと笑顔が物語っている。シュヴァーンは新たな団長代行の有能さに、本日2回目の唸り声を内心に漏らした。罪に問われないとしても、罪という負い目に目を瞑ってもらうにはこれくらいしても良いと己を言い聞かす。碧の瞳が参謀に目配せをすると、ヴィアは小さく笑って茶器の用意をする。
「あいにく、珈琲しかないんだけど、許してね」
 さりげなく席を促されると、少量の菓子の盛り合わせがテーブルに載る。砂糖とミルクは白くシンプルな陶器の中に納められ、フレンの前に銀のトレイの上に乗せて置かれた。
 騎士団では最高齢の女性であるヴィアの洗練された茶を供する仕草は、城の給仕よりも古典的で優雅とさえ思わせる。部屋の隅で長い時間を掛けて水出しされた珈琲は砂糖を入れなくても苦みを感じず、香りの高さが部屋を満たすのに時間はいらなかった。フレンが珈琲を楽しんだと様子で伺うと、シュヴァーンは呟く様に言葉を紡いだ。
「昔…戦争に行く前に俺は友人と果実酒を漬けた」
 城の全てが耳を澄ましているかの様に、語りを聞く者の周りは非常に静謐で小さくとも響く音量の様にフレンの耳は拾った。
「だが、友人の一人はどうにも待てなくて、遠征の最中に果実酒を漬けて戦地に持っていたのだ」
 全く…どうしようもない。
 シュヴァーンは苦笑に似た笑みで微笑んだ。寡黙で厳しい表情ばかりを知るフレンには新鮮に見えたが、笑顔には過去を思い出す柔らかさが滲み出ていた。殆ど知られていない彼の過去は案外甘いものなのだろう。フレンも崩しそうになる表情を真面目なままに保って話を聞いている。
 シュヴァーンと二人の友人。仲が悪そうに見えて、喧嘩が絶えない様に見えて、誰よりも信頼していた三人。仲が良さそうに見えて、いつも一緒につるんでいる様に見えて、殆ど一緒に居なかった三人。技量のある子、頭の良い子、突っ走るだけの自分が如何に二人に支えられていたか。自然に誇らしさが込み上げて来るのだろう、シュヴァーンは抑揚を出来るだけ欠いて口数少なく語っていたが言葉の端々に表れる感情を引き立ててしまっていた。
「果実酒の漬かりは想像以上に早く、遠征の最中は全く油断ならなかった」
 そのうんざりした表情にフレンは思わず笑い声を漏らす。
 人の性格とはそうそう変えられるものではなく、若き日のシュヴァーン隊長も生真面目な人だったのだろうと想像に容易かった。果実酒の納められた瓶を巡ってどのようなやり取りがあったかなど、その表情一つで十二分に伝わった。
 フレンはシュヴァーンの視線に『すみません』と謝り先を促した。
「戦場は地獄だった」
 それはたった一言。
 その一言で、シュヴァーンの顔は苦痛に歪み、参謀のヴィアは悲嘆のあまり顔を背けた。シュヴァーンもヴィアの表情の意味を察して、フレンが何かを思う前に言葉を紡いだ。
「そんな時、友人が持って来た果実酒を皆で飲み廻したのだ」
 俺の規則違反はそれほど昔からしていたんだよ。シュヴァーンは呆れた様に笑い、そして安堵したかの様に呟いた。
「とても……美味かったのだよ」
 フレンはシュヴァーンの言う戦争が人魔戦争であると、朧げながらに思った。シュヴァーンが若い頃、帝国は多方面で多くの諍いを抱えていた。帝国の圧政による市民との争い、ギルドとの闘争、魔物との戦いどれをとっても命を落とすような任務は多かった。しかし、代表格とも伝説とも言えるのが人魔戦争である。多くの騎士が戦地に向かったというのに、騎士団に現在も所属している生還者はシュヴァーンただ一人。どれほどの死者が出たのか、最近改められた報告書の数字を見て血の気が失せたのをフレンは覚えている。
 『地獄』と形容した言葉は、異様な重みがあった。
 だからこそ、その中で感じた口調に上らせた安堵はまぎれも無く本物で、これ以上の無い印象をシュヴァーンの記憶に刻んだのだろう。甘味を苦手とする彼が『美味しい』と評価する果実酒となれば、どれほど美味いかなど想像すらつかない。
「最初はね、シュヴァーンがこっそり始めた事だったんだけど、今では隊ぐるみで果実酒漬けるのが一種の伝統になってるのよ。誰がどの種類の果実酒美味く漬けられるか、口コミで聞いてこっそり飲み比べたり分けてもらったりしてるの。ま、隊内が仲良くやってれば連携が強まるし、良い事ばっかしだけどね」
 ヴィアの楽しげな口調に、シュヴァーンはふっと表情を和らげて立ち上がった。
「昔の話だ」
 フレンも『ありがとうございました』と立ち上がってシュヴァーンの背に頭を下げる。
 この隠された伝統の事実を、また一人若者に知られてしまった。たかが果実酒一つから始まった思い出は、シュヴァーンの心を優しくくすぐった。