嵐の脅威

 陸では帝国とギルドの諍いが、海では自然と人の諍いが繰り広げられる。
 今、目の前には海の猛威である嵐が吹き荒れ、乗っている船は木の葉の様に揉まれ流され荒波の上を舞っている。
 人同士の血腥い争いを見るよりも、自然と向き合っていた方が遥かに心落ち着くとラーギィは考えていた。しかし、その海の上ですら人間と諍いを起こさなくてはならないのかと、睥睨した視線を眼鏡の奥に隠した。ラーギィの人柄を知る人間が見ればその眼鏡の奥の瞳に驚くだろうが、波飛沫とも横殴りの雨とも言えぬ水が周りの視線から事実を巧妙に隠してくれた。
 彼の目の前には嵐の脅威の他に、巨大な黒塗りの帆船があったのだ。
 嵐の中でのみ現れる幻の海賊ギルド、海凶の爪だ。海を渡る船の財宝に目もくれず、相手の船との死闘を楽しむ海竜の夢から派生した一派とされている。ノードポリカやトリムの船乗りの間では魚人以上に恐れられた存在であったが、同時に嵐の時以外に現れる事の無い為に噂以上のものになった事が無い。嵐で彼等にあったら全ての船が沈んでおり、彼等と遭遇した上で生還した船など無かったのだ。
 嵐の中で海凶の爪に会ったら、死を覚悟しろ。船乗り達は口を揃えて言った。
 黒塗りの帆船の横っ腹にはいくつもの砲台が覗いていて、世界を白く霞ませる波頭の中に鮮やかな深紅の火花を散らす。互いに荒波の上で安定しない標準の上に、ラーギィ達の乗っている船は小さく軽く当てる事は非常に難しかった。貨物船ならば既に沈んでいたが、経済難の為に小型の船しか借りられなかった不運の中の幸運をラーギィは喜びと取るか不幸と取るか悩んでいた。まだ遭遇して間もないが、幸運はいつまでも続かない。必ずや砲弾が命中して沈められてしまうだろうと、ラーギィは奥歯を噛み締めた。
 ここは逃げるが勝ち。ラーギィは既に乗船している全ての者達に、駆動魔導器を調整し全速力で進む事を頼んでいた。
 しかし、それだけでは逃げられない事をラーギィは分かっていた。
 相手の船は大きい。駆動魔導器で速度を稼げたとしても、相手が逃がすつもりが無ければその畳んでいる帆を下ろし追いかけて来るだろう。この嵐の風を上手く捕まえてしまったら最後、その巨体にこの船が押しつぶされ木っ端微塵になる事は確実だ。
 どうにかしなければ。ラーギィは船内に走った。
 船内は荒波に酷い有様だった。発掘した物を詰めた荷物はひっくり返って散らかり、足の踏み場も無い。測量した図面や調査結果を記した書面は、大きく揺れる世界に納められていた場所から飛び出して床に落ちている。それだけならラーギィも笑っていられたが、慌てふためくギルドの仲間に踏みにじられ、海水に浸されてインクが滲んで読めなくなってしまった物も少なくない。ラーギィはその有様に深く深く落胆の意を滲ませた。目の前の海賊に殺されるよりも辛そうに、その顔が悲しみに沈んだ。
 ぎしりと嫌な音を立てて船が大きく傾いた。
 大きな音を立てて呼応する様に、船内をありとあらゆる物が転がりぶつかる音が盛大に響く!その音の一つにラーギィが転倒した音も含まれた。
 突然の事と発掘した品々の損害に気を取られて受け身を取るのに遅れた彼は、倒れた何かの角に大きく頭を打ち付けた。常人ならば痛みのあまりに悲鳴すら上げるだろう衝撃であるのに、ラーギィの口からは悲鳴を噛み締めるような呻く声が漏れた。青い髪を赤い色が濡らし、毛先に赤い玉を作っては雫の様に床に落ちていく。
 床に落ちていた埃にまみれた見事な彫刻に、その血は落ちた。
「あぁ…貴重な発掘品が」
 傭兵を雇う金もなければ、自衛するほどの力量も無く、掘り出した遺産を価値ある物と鑑定してくれる事も出来ず、例え価値があったとしても正当な値段で流通する流れも持たない。先立つ金も、立つべき腕も無い。それでもラーギィは一人で、利益もなく損ばかりしながら遺跡の発掘に心を傾けた骨の髄まで考古学を愛する男だった。古代文明の歴史を解き明かすのを30年は早めたと言われ、彼の登場無くば10年後に遺される遺産を1000は失ったと言わしめる『遺構の門』の首領だった。
 ラーギィは視線を走らせる。落石や危険を多く含む、発掘段階の遺跡を見渡す時の瞳は直ぐさま目的の物を認めた。海の荒波、海賊船の砲撃によって揺れる船体など無いかのような足取りで駆け寄ると、目的の物を掴んで踞り眼鏡を直して見入る。船の天井に吊るしていたランプを無造作に引き寄せ、濡れた手でなければ火傷してしまうような手付きで手元を照らした。
 それは発掘されて間もない魔導器。魔核も装着されて非常に状態の良い魔導器は、ラーギィの熟練した瞳には風に関する術式が組み込まれているのが分かった。
「…すまない」
 口元の髭を僅かに動かし、ラーギィはその魔導器に謝罪した。いや、魔導器に籠められた過去の記憶、魔導器が齎す様々な事実、それらに対する謝罪だった。
 その魔導器を手に甲板に戻る。狭い通路で擦れ違ったラーギィを頭首と慕う者達は、彼の手にした銃を見て驚いた。ラーギィの銃の腕は相当のものであったが、臆病で弱気な彼が銃砲を握る事は最近では特に稀な事だった。身内に銃術を学んだ者が居るからだとか、傭兵が雇える様になって来たからだとか、理由は様々だったが差し引いても好戦的ではない頭首の臨戦態勢は驚きを齎した。
 再び嵐の中に舞い戻って、海賊船を見上げたラーギィは驚いた様に視線を凍り付かせた。
 漆黒の巨体の甲板、ラーギィ率いる『遺構の門』の使用している小型船を見下ろせる場所に男が立っている。その男とラーギィの視線が合わさったのだ。
 黒色の長衣に金色の縁取りと貴族のような豪勢な身なりだが、体格はラーギィの倍はあり顔には巨大な傷跡が走り輪郭すら歪んでいる。だが、その顔が歪んでいるのは傷だけではない。男は嬉しそうに笑っていたが、笑顔を作るべき頬の肉にも深々と傷跡があって普通の人間が浮かべるような笑顔を作れずにいた。これから面白い事が分かっている子供の様に、男はラーギィを見つめていた。
 男の手が動いた。招く様に、早くやれと急かす様に、その動作は確かにラーギィに行動を促すべく向けられていた。
 ラーギィも待っていられるような状態ではなかった。
 飛沫を上げる海水は冷たく、横殴りの雨は痛く、風は鋭く突き刺さる様に体を冷やした。銃を持っている手が震え、爪先がカチカチと震えて金具の部分を鳴らした。眼鏡を掛けても目元に流れ込んで来る水は塩辛く目に痛く、視界を赤く染めていく。銃もあまり濡らしたくない。ラーギィの動きは速かった。
 魔法の詠唱の為の陣が浮かんだと同時に、緑の輝きが周囲の水に映り込んだ。まるで新緑の中にいるような輝きの中で手に持った魔核が呼応し、魔導器全体が振動する感覚が手を伝ってラーギィは知る。魔導器の暴走が始まりつつあるのを感じると、彼は大きく振りかぶり漆黒の船体に向けて投げ入れた。
 光るのと、ぐぐもった音と共に水柱が立つのは同時だった。
 漆黒の巨体はひっくり返りそうな程大きく煽られ、小型船も横波に大きく流される。ラーギィは垂直に近い程傾いた足場から狙いを定め銃口を光に向けた。
 水が高熱を掠めて蒸発する音が、雨音や荒波の音に聞き慣れた人間達の耳に異様な程鮮明に届いた。光が一際強い光を放ったと同時に、海賊船が異様な振動をしているのが視認できる。嵐の風よりも強い竜巻のような音と木が砕かれる音が、自然のあらゆる音を引き裂いて全ての生きとし生ける者の臓腑まで揺さぶる程に大きく響いた。
 意図的に暴走させた魔導器が、海賊船の船底を突き破ったのだ。
 砲撃が止み海賊船との距離も離れたお陰で、冷静さを取り戻しつつあるようで小型船は速度を上げて海賊船から離れようとしている。機動魔導器の調節が上手くいったのだろう。ラーギィは小さく安堵の息をついて、甲板に座り込んだ。
 遠くから笑い声が聞こえる。
 あの傷の男の声だろう。ラーギィはそう思って、今更震えた。