日向に在る

 リタ・モルディオは久々に見た青い空を見上げていた。
 彼女は先程までエステリーゼを前に術式のあれこれを試行錯誤していたのだが、エステリーゼも皇族故に公務があり長時間共に時間を過ごすというのも難しい。ただでさえエステルを調べていて一種の研究対象に見られ、気分など良くないだろうとリタは思っている。エステルは『私の為にして下さるのです。リタの心遣いを嬉しく思います』と微笑んでくれるが、リタの内心はとても苦く複雑な思いで渦巻いていた。それはリタが人を想う心がとても強くなった故の心情の変化ではあったが、それを肯定する程天才少女は素直ではなかった。
 食事もろくにとらず術式の計算と論理の推敲に費やしていたリタに、『今日はとても天気がいいですから、リタも少し外の空気を吸って来て下さいね』と城を追い出されたのはほんの少し前だ。仕方なく城下に降りたリタだったが、エステリーゼの言う通り空はとても澄んでおり眩しいくらいだ。日差しも強くなく、風はやや涼しげだったが無風ならば温かいくらいである。
 下町の噴水の前まで歩いて来たリタは、噴水に設置された水道魔導器を見る。日差しの光で鋭く光る輝きが透き通る水を透かして揺らめいており、魔導器専門の研究家のリタの目には不調無く正常に稼働しているように見えた。住人の生活用水を支える水道魔導器なのだから、何か異変があれば住人から直ぐさま声が上がるだろう。リタは大事に使われている魔導器ならば住人の訴えが無い限り特に干渉しない方がいいと、そっと視線を廻らせた。
「……?」
 オレンジの長衣を羽織った男が、両手に大きく膨らんだ麻袋を抱えて歩いていくのが見えた。
 普通ならそれだけで何の意も感じず流してしまうだろう。だが、リタにはそのオレンジの長衣の男が何者であるのか一瞬で分かってしまったのだ。あれは、シュヴァーンだ。リタは苦い記憶に一瞬表情を暗く沈めた。姿は違えどその歩く間隔や癖は変わらない。姿勢は正され背筋が伸びていても身長は大して変わらない。さらに神殿で戦った時に苦く苦しい思いと共に刻まれたあの姿に、リタは否応無し…敏感なまでに彼であると分かってしまった。
 しかし、シュヴァーンといえば騎士団隊長主席である。普段なら隊長服に身を包んでいる筈なのに、先程見かけた服装は騎士のものでもなく市民と変わらぬ質の物であった。それにあの両手の麻袋…リタはシュヴァーンには有り得ないその組み合わせに興味を引かれ彼の後ろ姿が消えた路地へ足を伸ばした。
 下町は家が隙間無く敷き詰められたような作りで、家と家の隙間など無い。石畳の隙間には舞い込んだ少量の土に根を生やした植物が、緑の葉を天に向けて広げている。路地の上には小さい鉢植えが燦々と日を浴びていて、鉢植えに植えられた香草の香りがリタの花をくすぐった。猫や人がゆったりとした足取りでリタと擦れ違う。水道魔導器から川を成す水の流れは耳に優しく、リタは夢の中にいるかのような心地で追いかけている人間の事など忘れてしまいそうになった。
「最近はそんなものまで漬けてみるのかね」
「俺も驚きましたが、意外に美味いと評判です。見た目は飲めたもんじゃないですけどね」
 リタの通り過ぎた家の扉が開くのと、聞き覚えのある声が背中を叩くのはほぼ同時だった。リタが振り返ると、そこにはユーリとフレンの知り合いである老人とシュヴァーンが連れ立って出て来た所だった。振り返って体を強張らせたリタだったか、幸いにもシュヴァーンはリタから背を向けていて気が付いていない。好奇心で追いかけて来たというのに、何も知らぬままリタは逃げる様にそこから去ろうする。
 背を向けたリタに、『おや?』と声が掛けられ背中が冷や汗にびっしょりになった気がする。
「モルディオさんじゃないかね?」
 魔導士の服装でもなく、仲間と共に行動していた容姿を知る者にはリタの服装は目立つどころの話ではない。衣の色彩は赤が基調になっており、左右比対称のアンバランスな構造は見間違えようも無ければ印象に残らないはずが無い。リタは今まで気にも留め無かった服装に関して、初めて関心を示して嫌悪の気持ちを感じた。
 ここで気づかれて、どうしたらいいのかしら。天才少女の頭には理解できない問題とぐちゃぐちゃになった答えでいっぱいになっている。
 仕方なく振り返ると、歩み寄って来た下町の老人の人の良さそうな笑みがあった。
「お陰さんで水道魔導器は順調に動いちょる。本当に下町の住人は皆感謝しとるよ」
「べ…別に大した事じゃないわ」
 わざわざ魔導器の第一人者たるリタが見る必要など無い程に、戻って来た魔導器の状態は悪くなかった。取り返しに結界の外まで泥棒を追いかけたユーリこそ、一番の功労者だ。リタは感謝の言葉に馴染めぬまま、顔が赤くなるのを感じてそっぽを向いた。
「全く、お前さんも見習うんじゃな」
 ハンクスが苛ついた様子でシュヴァーンに言い放った。
 苦笑を浮かべてシュヴァーンが肩を竦めた。その苦笑はリタが吃驚する程優しく、フレンから聞いたシュヴァーンの印象のどれにも当てはまらない。騎士団主席でも、帝国騎士でもない極普通の人としてのシュヴァーンなのだろう。調子を狂わされたリタは何を言っていいのか分からず、もう一つの姿を重ねて皮肉が口を付いた。
「帝国騎士団隊長主席様が、こんな所で下町のお爺さんと何するつもりなのかしら」
 正直、悪巧みなんか出来そうも無い組み合わせで皮肉の刺は大して鋭くもない。リタの言葉にハンクスは笑ってシュヴァーンと顔を見合わせた。
「なぁに、果実酒を漬けようと思ってのぅ」
 シュヴァーンも肯定する様に頷く。
 ハンクスの家の前のベンチに無造作に置かれた麻布を開く。準備を済ませて来た大量の梅が袋に入っていたり、倍以上の氷砂糖が袋の中に入っていたり、その他にも漬ける予定なのか様々な物が袋に分けられて麻袋の中には収まっている。麻袋を広げただけで広がる甘ったるい香りに、シュヴァーンが少し眉根を寄せた。ハンクスも抱える程にある口が大きく密閉できる容器を並べ、酒瓶を持ち寄ってシュヴァーンに見せる。
 外で漬けるのはハンクスの家では狭過ぎるという理由だったのだが、リタには酷く滑稽で馬鹿らしく映る。
 本当に彼等は果実酒を漬けるつもりなんだ。リタの呆気にとられぱくぱくと口が動く。仮に声が出たとしたら、とてつもなく情けない声だったろう。
 その様子に苦笑したのは、他でもないシュヴァーンだった。彼は麻布から小振りのボトルを取り出し中身を小さいグラスに注いだ。小さいグラスは本当に小さく、小さいリタの手に収まってしまいそうなくらいな大きさである。小さなグラスは非常に厚みがある硝子製で曇っているかの様に白く、持ち易いようにとオレンジの滑らかな肌触りの硝子がシュヴァーン隊の紋章を施したカッティングに流し込まれている。実はシュヴァーン隊の人間が知り合いに頼んで特注した、耐久性の非常に高いグラスだ。任務中に無造作に荷物の中に転がしても壊れないと評判である。
 手に落とす様に渡されたグラスに半分程度注がれた酒からは、濃厚な柑橘系の香りが立ち上った。
「度の強い酒だから、舐める程度に留めておけ」
 シュヴァーンの低い声がリタを促した。バクティオン神殿で聞いたような声色であったが、リタの興味は果実酒に向けられて気にも留めない。
 グラスに鼻を近づけると確かに酒独特の香りが果実の香りの影に感じられ、意識すればとても強く香る。リタはグラスの口に唇を寄せると、ぐいっと飲み干した! まるでウォッカでも飲み干すような勢いで呑んだ少女に、シュヴァーンとハンクスは吃驚して目を見張る。
「…不味くはないわね」
 甘みの強さに柑橘の酸っぱさが加わって甘酸っぱい。それでいて喉越した後に苦みが仄かに香って、飲んだ瞬間に纏わり付くと思った甘い香りを払拭する。リタは口の中に広がった味わいに感激すらしていたが、それを素直に口には出来ない。彼女の『不味くない』は美味しいという意味であるのを知っているシュヴァーンは、苦笑するような笑みを浮かべた。
 慎重にリタの様子を伺っていたシュヴァーンだったが、酔った様子を見せないので大丈夫そうだと安堵の表情を見せた。未成年の少女に酒を飲ませて酔わせたとなれば、一人の大人として大問題。酔った彼女を彼女の仲間の所に連れて行くなど考えただけで、シュヴァーンの気持ちは非常に重くなった。飲みやすい口当たりであっても果実酒は立派な酒である。一回呑まれてみないと実感しないのかもしれないが、今は止めてもらいたいものだとグラスを覗き込む少女を見遣る。
「気に入ったのなら、モルディオ殿の分も漬けてあげよう」
 相当美味しかったのか視線をグラスからなかなか外さないリタを見て、シュヴァーンが申し出た。
「き…気に入ってなんか無いわよ!」
 酔いとは違った意味で顔を真っ赤にし大声になって否定したリタの隣に、シュヴァーンはしゃがんだ。見下ろす位置に来たシュヴァーンの優しい表情を、リタは驚きを隠せず見てしまう。
「俺が出来なかった、下町の人々を救ってくれた僅かながらの礼だ」
 そこで前髪の多い左目だけが閉じられる。もう一人の彼が良くする癖のような動作は、彼の根底にある性格から来るものだとリタは思わされた。
 裏切られた時に刻まれたシュヴァーンの印象。しかし騎士としてではなく、人としてのシュヴァーン・オルトレインをリタは知ろうとも思わなかった。知らなくたって平気だった。レイヴンも悪いと思っているのか全く語ろうともしなかった。平民出身だからこそ、果実酒なんか漬けたりするんだ。偉くなったって、馬鹿は治らないのね。リタは何処かで呆れて、何処かで微笑ましく感じた。
 シュヴァーンは己の唇に人差し指を立てて軽く当てると、何処か必死さを滲ませて囁いた。
「ただし、代行と『凛々の明星』には内密にな」
 知れたら、何が起こるやら…。少しだけ考えを巡らせば面倒な事尽くしで、シュヴァーンは直ぐさまその想像を断ち切った。
 シュヴァーンは無理だろうと思いつつ、自分を見下ろすリタに微笑んだ。