冷酷な外気の冷たさ

 シュヴァーン隊は騎士団で随一の修練の量を課し、貴族や団長の隊とは異なり帝都外の任務を主に担う。
 帝都外の任務の内の数割が、貴族の部隊の後始末や失敗した任務の引き継ぎであると参謀が先日溜息まじりに教えてくれた。
 後にキュモールが隊長を務める事になる貴族の隊も、元々は貴族の持つ体裁を意識して作られた隊であり実力は語るのも恥ずかしくなる。貴族で複数の兄弟の一人として生まれ、跡継ぎとしての役目を得られなかった場合に騎士団員として名を挙げようとする者、跡継ぎとしての枠以上の野望を望む者、様々などす黒い思惑が渦巻いている。シュヴァーンからしてみれば全く絵空事か虹を追うような現実味の無い内容で、全くもって貴族らしい。人魔戦争前から徐々に平民出身の騎士も増えた為に、このような貴族の感覚と反発する事も少なくなく、不満や不平を抱えつつ貴族の部隊の必要性に異を唱える事は出来なかった。
 トリム港からダングレストへ向かう途中に結界魔導器があると報告があり、その確認の任務に就いていた貴族の部隊が尻尾を巻いて帰って来た。そんな情けない報告を受けたのは、シュヴァーンが帝都に戻って半刻もしないうちだった。団長のアレクセイは呆れ過ぎて疲れ切った顔を書面から上げると、報告書をシュヴァーンに向ける。それは『この任務を引き継げ』と言葉にするのも億劫になったアレクセイの無言の命令でもあった。
 何でも本来はシュヴァーン隊に回したかった任務だったが、名誉と華がある任務の内容の為に貴族の部隊にかっ攫われてしまったそうだ。結果この始末。逃げ帰った貴族の家からは任務を受けたという事実から抹消して欲しいという無茶難題を賄賂と一緒に押し付けようとしたり、評議会からは騎士団の無能さをここぞとばかりに突っついて来る。皇帝不在の為に歴代の団長が体感した事無い重圧に、アレクセイの見事な銀髪が白髪に見えてしまいそうだ。
 己の力量に合わせた任務に就いてもらいたいものだ…。シュヴァーンは目的地に到着して一つ息を吐いた。
 帝都から船旅をちょっとして、潮風と意外に強い日差しを抜けて、雨とむせ返るような湿気に体力がすり減る。例え馬を駆っていたとしても、開拓されていない森の中を走らせるのには必ず技量が必要で戦闘並みの集中力を必要とさせられる。目的地に辿り着くまでに貴族の隊が疲労困憊してしまったのも頷ける。だが、シュヴァーンの後に付いて来る部下には疲れを滲ます者は誰一人いなかった。
 地面に横たわる魔物の躯を認めるとシュヴァーンは馬を下りて剣を抜いて視線を巡らす。一点を見据えると、闇が動いた。
「騎士か…」
 低く響く声は直ぐさま溶けて、茂みを掻き分ける音が取って代わる。現れた巨体と引き締まった筋肉、肉体とほぼ同等の長さと幅を持つ剣が印象に残る男である。剣を握るその手から腕に掛けて盛り上がる筋肉は大木の幹の様に太く引き締まっており、迸る覇気は並大抵の修羅場をくぐり抜けただけでは得られないだろうとシュヴァーンは感じた。普通の戦士では滅多に見られぬ隆々とした筋肉に、彼の並々ならぬ努力と戦い抜けて来た戦場の凄まじさを見る。
 巨体から発せられる殺気に似た気迫に、シュヴァーンの背後では靴が地面を擦る音が聞こえる。
 肝の小さい人間ならば、悲鳴を上げて逃げ出すか腰を抜かすかするだろう。そこまで部下がだらし無くはないとしても、これほどの偉丈夫を前にして狼狽えるなとは流石に言えない。
 男の後からは数人の付き添いと思われる人間が現れた。服装から見て動きやすさを重視した形状以外では統一性は見られず、獲物も特殊な形状の物が殆どだ。傭兵とは違う独特の雰囲気を醸す彼等は、最近名が知られる様になった『魔狩りの剣』というギルドのメンバーである。
「ここは魔物の巣だ。騎士共の安全を保障できない。さっさと去れ」
 『魔狩りの剣』の首領であるクリントは、遭遇した騎士の中で身成も違うが気圧される事無く己を睨む小柄な男を見下ろして言う。身長はクリントから見れば小さい位で、引き締まって無駄の無い肉体は逆に小柄に見えた。しかし、左手に持っている剣の他に彼の腰回りには変形弓や小刀がポーチとともに邪魔じゃない位置に添えられている。よくよく見れば騎士らしい格式張った形式とは異なった装束は、自分達のような戦地に身を置く者に通じた形になっている。
 只の騎士ではないという事か。クリントは視線を真っ向から合わせてきた男の落ち着き払った声を聞く。
「残念だが、我々はこの奥に用がある。貴殿の申し出は聞き入れられん」
 穏やかな空気の裏で一触即発の緊迫感が張りつめる。『魔狩りの剣』も騎士団も、互いのリーダーが何もしない事から動く事も出来ない。ただ、己の獲物を握りしめ、神経を研ぎ澄ませて頬を伝う汗を流すがままにしている。拭う動作一つ躊躇うような周囲を包む魔物の気配。その魔物達もまた、睨み合う人間達の気迫に圧されて息を潜めていた。
 弦の様に張りつめた気配が弾かれた。
 獰猛な獣を描いたような咆哮が両陣営の人間達の鼓膜を激しく叩き、背筋に伝った汗を凍らすが如く冷やした。魔物は巨大であり獣毛は針金を連想させる程堅く、その体の形状を覆い隠す程に殺気で膨らんでいる。牙は唾液に塗れ、歯牙に掛けようととする獲物を映し込む。瞳が薄汚れて黒くすら見える獣毛に爛々と光る灯火の様に軌跡を描く。地面に横たわる同族と思われる魔物の死骸を踏み砕き、噎せ返るような濃厚な血の香りと肉と骨が砕ける音が否応無しに突きつけられる。
 突然の魔物の襲来に身を堅くした人間達の中、動じる事も無く即座にシュヴァーンとクリントが動く。
 クリントは真っ向から魔物の懐に飛び込んだ。クリントを踏みしだこうとする足は彼の体並みの太さを持ち、その巨体は深夜の夜の如く覆い被さった。足を切り落とすつもりなのか、心臓を貫くつもりなのか、それとも魔物の首を落とすつもりなのか、クリント本人以外は誰にも理解できない。
 クリントに殺意を向けた魔物は、攻撃を仕掛けようとした瞬間怒り狂った様に暴れ始めた。
 シュヴァーンはクリントが動いた時、木の腹を蹴って枝に飛び乗った。鎧を身に纏っていながら軽々としっかりした太い枝に乗り上がると、剣を納めず口に銜え変形弓を弓の形に変える。その動作は周囲に生い茂る木々の枝に一度も引っかかる事無く、洗練された舞の如く流れ弓を引き絞り矢を放つ。その矢は高く空気を引く裂く音を立て、怒濤の様に迫り大きく動くその瞳孔に吸い込まれる様に穿たれた。
 目に突き刺さった痛みに半狂乱になった魔物の声は、盛大な断末魔の悲鳴の後に泡の音をぷつぷつと立てる。
 クリントは木から降りて魔物の目に刺さった矢を引き抜いたシュヴァーンを見た。放った矢が回収できる状態である事も一つの弓使いの力量ではあるが、その矢を回収するという行動は戦場を知る人間しかしないだろう。矢は無尽蔵にある訳ではないなどとは、結界の内側しか知らぬ人間には有り得ぬ感性だった。矢を鋭く振って魔物の血を飛ばすシュヴァーンに、クリントは只ならぬ人間と認識して鋭い視線を向けた。
 クリントによって切断されたにも拘らず喉元の血を未だ泡立てるその魔物の生命力を見て、シュヴァーンは神妙に呟いた。
「魔物…手強いようだな」
 結界魔導器の噂の割にはどうして発見がこれほどまでに遅くなったのか、何となく理解できた。結界魔導器がある場所を巣窟としている魔物が強いからだろう。その魔物を避ける様に人間も先を急いで、その巣窟周辺の状況など知られる事もない。
 貴族の部隊が踏み込まず逃げ帰ったのは正解だったろう。このような魔物を相手にして、彼等程度の騎士が生きて帰れるとは考えられない。
 しかし、それは俺達も同じだろう。シュヴァーンは一つ頷くとクリントに向かい合った。
「魔物を狩る目的……まさか趣味ではあるまい。己の命を賭ける程大切な何かの為にその目的を掲げるならば、その目的の為に俺達騎士を利用するのも悪くはなかろう」
 同時に、騎士達も目的の遂行の為にギルドを利用するという意味を含んだ言葉。しかし、シュヴァーンが敢えて協力しようとは発言しなかったのは、根深いギルドとの確執や軋轢も然る事ながら相手に尊敬の意を示したこそだった。言葉とは相手の受け取り様によっては印象などがらりと変わるもの。シュヴァーンは騎士としては珍しく、人を立てる事が出来る騎士だった。
 クリントが愉快そうに笑った。声を出して、肩を震わせ仰け反る様に声を上げた。
「面白い騎士だな」
 ようやく落ち着いてシュヴァーンを見下ろしたクリントの瞳は、先程までと違う感情を宿していた。その瞳は戦友を見るような、一時的であれど信頼を置く事を認めた事を物語る熱さを滲ませていた。
「理想論ばかり傾ける騎士ばかりだと思っていたが、貴様のような奴もいるのだな」
 シュヴァーンも口元を和らげ、クリントの視線に応じる。
「貴殿のような存在には、敵うまい」
 己らの慕う存在が打ち解け合う様に、周囲の人間は同じ戸惑いに互いの顔を見遣ったのだった。