手の届く憧憬

 騎士団長の執務室は全く何も無くなっていた。
 整然と並んでいた大量の資料を納めた棚も撤去され、部屋の中央に大きく敷かれていた絨毯も無い。団長が常に座っていた椅子も、多忙にも拘らず誰よりも奇麗に整頓された執務用の机もそこには無い。カーテンすらも外され、奇麗に清掃され尽くした部屋は殺風景で寒々しかった。
 秘書も兼ねていた帝国騎士団特別諮問官クロームも行方を眩まし、溜まりに溜まった調書や書類の類いはシュヴァーン隊のヴィア参謀が下げたと聞いた。騎士団の運営等の重要書類が多数含まれていたそれは、前団長の行いの証拠と評議会が回収したがっていた物である。騎士団内の揉め事の為に何処に置いても不審がられてしまうが、『あのディノイア君がそこいらに陰謀転がしとく訳無いでしょ。閲覧したけりゃ、何時でも来なさい!』と評議会を相手取って啖呵を切って持ち去ったそうだ。上官であるシュヴァーンが謝罪に出向いて騒動は収まったそうだが、抜かり無く前団長の執務室の品々を騎士団管理の物とした。
 実際、広げられた書類は各部隊の運営に必要な物ばかりで、陰謀の匂いすらしない。『承認して下さる御方が途中で席を外されては困ります』と隠蔽を疑い見張りにやって来た評議会の人間の襟首引っ掴んで、延々と運営会議に参加させたとか。行動的には全くもって当然であるのだが、評議会の疑いの眼差しは消えなくとも口出しは完全に消失した。
 やはり、敵わないな。フレンは鮮やかなまでの手管に尊敬すら滲ませる。
 もしフレンがこの部屋の物を回収する事を行わなかった場合、評議会と口論を重ね騒動を起こすだろうが騎士団管理の物と出来たかどうか怪しかった。ヨーデル殿下の口添えがあれば回収は確実となったが、騎士団との在らぬ繋がりや代行の在らぬ印象を押し付けられてしまっただろう。ヨーデル殿下に在らぬ非を押し付けるなど、フレンには出来そうになかった。シュヴァーン隊の隊長と参謀の行った行動はとても正攻法とは言えなかったが、最低限の被害しか出さなかったのだ。
 代行に就任して半日しか経っていないというのに、フレンの中には不安が渦巻いていた。
 そろそろ明かりを灯す必要がある程、日は沈み部屋は暗くなっていく。執務室の天井のシャンデリアすら外され、光を灯す物はフレンの身の回りには何一つ無い。やがて暗闇の中に淡く差し込む結界魔導器の輝きや月明かりが、何も無い部屋には十分な位に明るく照らした。フレンも危険も何も無いだろうと、明かりを探すのを止める。
 部屋は防音加工でも施されているのか、耳に痛い程静かだった。
 今は空席で何も置かれていない騎士団長執務室には見張りすら立たないのは当然で、巡回等で廊下を行き交う足音すら聞こえなかった。
 だからだろう。フレンは扉を叩くノックに驚いた。
 一拍置いて開かれた扉の向こうには、当然廊下と部屋を尋ねに来た人物がいた。外から差し込む光に浮かび上がった相手は、居ない筈の部屋の中に既に居る人物が逆光で黒く塗りつぶされて警戒に身を固める。黒い髪は灰色の様に淡く照らされ、多く垂れた前髪の影が色濃い肌に漆黒の影を落とす。
 居ないと分かってもなかなか抜けぬ癖なのか、姿勢を正し踵を揃えたオレンジ色の隊長服にフレンは敬礼する。
「シュヴァーン隊長」
「その声は…フレン君か」
 緊張を解いたシュヴァーンは部屋の中に入ると扉を閉める。その仕草は洗練され優雅なほどだ。共に行動してだいぶ経つのに憧れに胸が高鳴るのは変わらない。
 シュヴァーンはフレンの敬礼に『畏まらなくて良い』と言いたげにすっと手を挙げると、彼自身がフレンに敬礼した。帝国騎士団隊長主席はその光の具合で黄金に光る鎧を輝かせ、芸術的なまでに整った音で踵を揃え柔らかな布地と硬質な鎧の差を着こなした。闇の中、碧の瞳が日を透かした新緑の様に輝きフレンを見据える。張りつめた気迫に似た気配の圧倒が、壁のようにフレンに当たる。
「騎士団長代行就任、心よりお祝い申し上げる」
「シュヴァーン隊長、止めて下さい」
 自分に対してぎこちないフレンを見て、歴代の帝国騎士団団長としては最年少と言っても良い若さであると思い出す。アレクセイ前団長の計らいあって小隊長抜擢も早かったが、シュヴァーンはフレンの才能は抜きん出ていて相応と感じていた。周囲の人間は若過ぎると言うが、前団長のアレクセイの御前試合での大抜擢を思えば年齢以外は十分な実績がある。フレン本人はユーリのお陰と笑うが、周囲の批判は妬みにしか聞こえなかった。
 眩しい理想と意思を持つ若者を、アレクセイは小隊長に抜擢するのはどんな気持ちだったのか聞く事は叶わない。なにせ、これほどまでの正義感が彼の野望の障害になるのは、シュヴァーンの目からも明らかだ。アレクセイの本来の正義感が共感したのではないかと、歪んでいるだけで間違えさえ気が付けば、アレクセイは元通りになってくれるのではないか。シュヴァーンは有り得ないと思いつつ、期待を淡くも持ってしまう。
 いや。
 シュヴァーンは心の中で首を振ると想いを打ち消す。
「今後の事で報告がある」
 少し感傷的になったやも知れぬ。シュヴァーンは現実に意識を戻すと、目の前の青年を見てやらねばならないとフレンを改めて見る。
「本来なら俺は脱隊をせねばならぬ立場だが、騎士団の統率や運営の為には脱退する時期としてはあまりにも不適切だ。俺の籍はこのまま隊長主席のまま、シュヴァーン隊も存続する事となった。ヨーデル殿下に全て報告した上で了承いただいた。代行の判断を仰ぎたい」
「勿論、私がそうお願いしたかったくらいです。若輩者ではありますが、どうか宜しくお願いします」
 年下でも立場は上。10歳以上の年下にすら背筋を伸ばす毅然とした姿に、フレンはシュヴァーンの生真面目さを見る。
 それでも声は低く威厳に満ちており、立場だけが上であっても端から見ればやはり年上の団長主席の風格はフレンを圧倒していた。それはフレンが柔軟な姿勢や柔らかい表情でいるからだけでなく、シュヴァーンとして騎士団の中で積み重ねて来た徳と実績の重い歴史が醸す存在感であろう。
「それで…俺は引き続き帝都から離れて任務に就く事になった。隊の運営や指揮は引き続きヴィア参謀に一任してある」
 フレンは『あぁ』と吐息に似た息を吐いて微笑んだ。
 シュヴァーンがレイヴンというもう一つの姿を持っているのは、騎士団の誰よりもフレンは知っていると思う。ギルドの総本山ユニオンの首領であったドン・ホワイトホースの右腕にして帝国との交渉役を担っていた男。だらし無く着崩した服装や脂っ気の無い髪を結った男だったが、よくよく見れば帝国騎士団隊長主席に似ていなくもないと思うだろう。黙っていればそうだが、飄々とした似ているだろう人物とは懸け離れた態度に否定した過去の自分を思い出す。それは自分がシュヴァーンを良く知らなかったからであって、今目の前にレイヴンが居たとしたら端々に見える生真面目さにやっぱり同一人物なんだと思うに違いない。
 帝国騎士団は前団長の離反があったとしても統率を取り戻しつつある。
 しかし、ギルドを取り纏めるユニオンは、まだ混乱の直中なのだ。ギルドの実情を知っている故に気が気ではないのだろうし、ヨーデル殿下も他者が困っているのを知りながら周囲の安定を優先するような人物ではない。そして部下を信頼しているからこそ、シュヴァーンは帝都を離れてレイヴンになる事が出来るのだ。
 それは長年隊を率いていたからこそ得た、絶対的な信頼関係。
 フレンが彼と同じ様に帝都を離れても、ちゃんと隊は動いてくれているだろうか? その確信さえあれば、ユーリ達と共に前団長を追う事も出来るのに…。黙り込んだ様に口を噤み、瞳の中の光は迷いに揺れているのをシュヴァーンは見た。少しだけ表情を和ませると、凛とした声でフレンに告げた。
「胸を張れ、フレン・シーフォ。それが君の騎士団団長代行としての最初の仕事だ」
「え……? はっ、はい!」
 声に叱咤されて言葉がなかなか飲み込めなかったフレンは、慌てて姿勢を正す。即座に対応できなかった失態に、耳まで赤くなる。
 まだまだ初々しさを見せる団長代行を見遣り、シュヴァーンは微笑んだ。いずれ『堂々としていろ』という言葉も分かる様になるだろう。緩んだ口元から堪えきれずに微かな笑い声を漏らすと、『失礼』と口元に手を遣って身を翻した。扉に手を掛け、オレンジ色の隊長服と赤いマントがその向こうに音と共に消えていった。
 一人残されたフレンは、その後ろ姿を見送ってふと思う。
 シュヴァーン隊長は何をしにここに来たのだろう? この何も無い団長執務室に何の用事があったのだろうか? 例え用事があったとしても、この何も無い部屋に忘れ物とは考えられぬ。フレンは真面目な表情で考えて暫く後、考えるのを止めて正した姿勢の力を抜いた。
 隊長は用事を退けてまで己を励まして下さった。背筋を伸ばし向かい合った時、込み上げる誇らしさは騎士団に入団したばかりの例えようも無い熱い気持ちを彷彿とさせた。
 フレンが団長執務室の扉に手を掛けた時には、その表情に不安の陰りは全くなかった。