誇り高き我らの旗

 故郷に帰りたいな…。
 ヘリオードの騎士団の詰め所に戻った時、軽く耳に触れた言葉は悲嘆に暮れていたと言っても良い。そっと覗けばキュモール隊の若者が、疲れ切った様子で一人背を丸め座っていた。頭髪はそれなりに整ってはいるが、貴族特有の整髪料の照り返しや香水の香りがしない。そして、貴族は後悔や失敗という言葉が頭に無い能天気な生き物だ。
 平民出身である事は明らか。その事を確信したアシェットは周囲に貴族が居ないのを確認して、若い男の背後に立った。驚いた様子で振り返った男の膝から兜が転がり落ちそうになるのを、槍の穂先で押さえて止める。アシェットは唇に人差し指を立てて片目を瞑った。貴族に見つかれば色々厄介である事は互いに熟知していて、男の目から怯えたような色が拭われて光が灯る。
「お疲れさん」
 アシェットが歯を見せてにかりと笑う。ボサボサの脂っ気の無い焦げ茶色の髪は鈍く、日に焼けた肌に白い歯はとても良く映える。屈託なく笑う笑みは人懐っこく、堅苦しい騎士団には似つかわしくない年齢相応の若者の顔があった。年も変わらない男の横に並ぶと『よっこらせ』っと芝居掛かった態度で座った。
 オレンジの塗装が施された鎧や装具が擦れる音はせず、寛いだ様子の中で槍だけは臨戦態勢であるべき位置に手を添える。へらりと笑って見せておきながら、油断無く座る様子を男はぼんやりと見つめた。任務を遂行し多くの戦いを経験しているだろう事実を垣間みたのに、男には悔しさも嫉妬も無くただ後悔が心を覆った。
「…俺、シュヴァーン隊に入れば良かったな」
 治りかけの傷が項垂れた男の影に隠れた。一つの動作で所々体を引き攣らせる動きは、服の下にあるだろう傷や打撲の跡が痛むんだろう。平民が貴族の隊に放り込まれる悲惨さに、アシェットも目の前の若者の苦悩に深く同情した。
 貴族の隊に平民が全く採用されない事は無い。それでも平民だと罵って虐げて己のプライドを誇示しようとする為だけに採用した、貴族に捧げられた哀れな生け贄のようなものだ。それか汚れ役や汚い仕事を押し付け、仕事を達成すればそれをかすめ取られる為だけに隊に所属している。アシェットはそれをシュヴァーン隊に配属されながら見て、背筋が凍り付いた気持ちになったのを覚えている。
 かといって平民出身者が全員シュヴァーン隊に配属を希望するかと言えば、そうではない。
 帝国騎士団随一の仕事の集中率を誇るシュヴァーン隊の実績は輝かしくもなく、非常に地味で質素で大量だった。帝国騎士団の中には『シュヴァーン隊に配属されれば出世は見込めない』というジンクスがあるのは、帝国1の情報通の参謀は認めているし隊長も否定せず苦笑に留めていた。
 貴族や団長の部隊と比べれば、隊長が帝国騎士団隊長主席である以上の魅力が無い。
 シュヴァーン隊長に憧れる者も多かったが、騎士団に憧れている人間の方が多いのだ。
「何の為に…騎士団に入ったんだろう」
 平民出身が貴族の隊に所属して全部が散々な結果であった訳ではない。平民出身で騎士団のno.2である隊長主席にまで上り詰めたシュヴァーンがいい例だ。
 ましてや、アシェットの上官であるシュヴァーン隊長は、まだ平民出身の騎士が少ない時代に入隊している。ほとんど平民出身で構成されている隊は、シュヴァーン隊が始めてであるとまでされている。そう思えば、今の騎士団のほうが平民に対しての扱いはマシになっているのだ。
 膝を抱えるように呟いた一言に、アシェットは怒りすら湧くのを感じた。
「おいおい…、何て事言うんだよ」
 だが、元来はお人好しのアシェット。その怒りが騎士団を軽蔑するような内容であったからか、男が情けないからなのかは掴みかねていた。それでも怒りを隠せる程は大人びてはいない。アシェットは口調に怒りを滲ませて、男に言い放った。
「俺は騎士団に入ってそんな事考えた事もないぞ」
 シュヴァーン隊はその任務の多量さと煩雑さから、大きな任務でない限り諜報部隊へ報告するだけで次の任務を宛てられる事は良くある事だ。ペットが逃げ出したから探してくれ、夫婦喧嘩を止めてくれ、道中の護衛をしてくれないだろうか? そんな願いも任務に差し支えなければ行っても良い事になっている。参謀曰く『後々依頼として騎士団に上がってくる前に、片付けておいた方が効率が良い』との事で、任務となる前に消化されてしまう雑務は多い。それが仕事の多い隊になっている一つの理由でもあった。
 最初は何でも屋のような事ばかりで、アシェットも騎士団に入団した事を疑問に思った事もあった。
 任務達成の後も、すぐさま別の任務。隊長も見かけた事もないくらい不在が続く。任務に対して評価もなく、両親に騎士団としての仕事を誇って良いのか悩んだこともあった。
 そんな時、アシェットは隊長執務室に呼び出された。
 執務室には当然シュヴァーン隊長は居らず、彼の片腕である参謀のヴィアが出迎えた。決して隊長の椅子に座る事なく、豊満な体格を窮屈そうにオレンジの長衣に押し込んでいる。短く整えた赤とすら思うほど鮮やかな栗色の髪は、目を凝らせば白いものが見える。さばさばとした性格の参謀は、隠し事なんか何一つないような笑顔でアシェットを机の前に招いた。
『先月、幼い兄弟のペットを探して連れ戻して来たそうね』
 そういえば。アシェットは任務にもならない小さい事柄だったので、すっかり忘れてしまっていた。
 ぽかんとした表情で子供達の事を思い出していたアシェットの前に、ヴィアが一通の手紙をひらりと差し出した。ぽっちゃりとした丸い顔をにっこりと微笑ませると、受け取りなさいと言いたげに手紙を振った。
『その子達から感謝の手紙が来てるわよ』
 それは非常につたない文字で『きしさまへ』と書かれていた。本当それしか書かれていないので、アシェット宛なのか受け取った本人すら分からない。封は丁寧に切られており、諜報部が中身を見たのだろう。
 中はとても大きくつたない文字で、こう書かれていた。

 きしさまへ
 このまえは ぼくたちの たいせつな ジョンを さがしてくれて ありがとう。
 きしさまが さがしてくれなかったら ジョンは かえってこれなくて けがをしたり おなかを すかせていたと おもいます。
 そうなったら ぼくたちは とっても かなしかったと おもいます。
 これからは けんかしないで なかよくして ジョンが びっくりして どっかに いかないようにします。
 きしさま ありがとうございます。ほんとうに ありがとう!

 一文字一句食い入るように手紙を見ていたアシェットが顔をあげると、ヴィアが『大変だったのよ』と大げさに言った。手紙は『幸福の市場』で各地を回っていたギルドの人間に幼い兄弟が頼んだものらしく、夕方に騎士団の詰め所に預けられたのが始めだった。受け取ったのは幸いにもシュヴァーン隊の人間で、もし他の隊の人間が受け取っていたら捨てられていたかもしれない。その後は諜報部が報告書を引っくり返して、手紙の差出人を突き止めたそうだ。
 手紙の『きしさま』がアシェットである事を突き止めるのに時間は要らなかったが、手紙をアシェットに渡すのが遅くなってしまったとヴィアは言った。
『シュヴァーンも喜んでたわ。執務中に口元が緩むのを見たのは久々よ』
 アシェットは驚きに目を丸くした。
 帝都に戻る事すら稀な隊長が、こんな雑務の報告まで目に留めてくれているとは思わなかった。確かに微笑ましい結末だったにせよ、厳格なシュヴァーン隊長が口元を緩ませるとは思わなかった。隊長のやさしい人柄を感じて、アシェットは感動で胸がいっぱいになる。
 そんなアシェットにヴィアが笑って言った。
『これからも頑張りなさい。あたし達が、貴方達の事をしっかり見てるからね』
 アシェットは手紙を抱くように持って、大声で返事したのを今でも覚えている。
 あの手紙はアシェットにとって宝物も同じだった。あの手紙を読み返すだけで、騎士団になってよかったと何度も胸に喜びがあふれる。今も帝都の自分の部屋の棚に大切に仕舞い込んであるのだ。
 アシェットは過去の思い出から意識を戻すと、自分を見る男を見つめた。
「確かに騎士団らしい仕事しないと、騎士団に入った甲斐はないかもしれないけど」
 今だって騎士団らしい仕事はしてないと、アシェットは思っている。
「大切なのは、どんな騎士になりたいのか…じゃないかな?」
 その手紙はアシェットに教えてくれたのだ。
 騎士らしくも無い事をしたのに、騎士様と感謝する子供達。人々から感謝される心地よさと、人の為に力を使いたくて騎士団に入った自分の志。いつ忘れてしまったんだろうと、恥ずかしくさえ思った。
 共に力をあわせて協力する騎士団の仲間達。彼らがいなければ自分の力なんてちょっとだと思う。
 そして、自分を見てくれるやさしい視線。
 アシェットは笑って言った。
「俺は後々まで名が残るような功績ある騎士になるより、今生きている目の前の人に感謝される騎士になりたいよ」
 そのあまりに誇りに満ちた口調に、男が目を丸くした。
 ピンクの塗装の鎧の隅で、武者震いなのか拳が震えている。その震える腕をアシェットは己の拳を軽く突いた。
 次に男が漏らしたのは小さくても、笑い声だった。

「全く…部下は上司に似るものなのね」
 その会話を物陰から立ち聞きしていた良い趣味を持つ男は苦笑した。その場所では異様に目立つ紫の裾をそそくさとまとめ、扉を開けて騎士団の詰め所を足早に去っていった。
 吹き込んだ風に視線を上げたアシェットの前に、シュヴァーン隊の朱色の旗が揺れていた。