偽物本物

 アレクセイ・ディノイアは将来を約束された身だった。
 貴族出身の中でもとりわけ高い地位の身内がおり、その威光は帝国騎士団を超え評議会にも強く影響した。名前を聞けば誰もが『あの名門の御曹司』と金属に鎚を打つ様に分かり、嫉妬とも軽蔑ともつかぬ感情が詐称で浮かべた笑みの下に潜む。アレクセイの外見も見事な銀髪と赤い瞳と白い肌で非常に目立った。女性から向けられる瞳はそんな麗しい人間を見る羨望と、アレクセイの持つ名門の威光を手にしようと言う欲望が必ずセットだった。
 持ちかけられる話題には全て裏がある。アレクセイは貴族では珍しく、その陰謀に警戒する姿勢をあからさまにする貴族だった。いや、言葉が悪い。貴族には陰謀を警戒するなどという知恵は無い。全ては貴族である己に害があるか無いか、利益があるのが恩恵があるのかそれはどれほど高いのか。貴族はそれしか無い生き物だ、そんな生き物と同等にされてはアレクセイ・ディノイアに失礼になる。
 人間らしい感情を持った貴族。一般常識を持った珍しい貴族。アレクセイ・ディノイアはそんな男だった。
 平民が聞いたらそんな人間居る筈が無いと嘲り笑う事であり、そんな普通の人間がごく少数であるのが当然の世界でアレクセイは本当に正常な考えを持っていた。不正はいけない事だ、義に反する行為はいけない事だ、他人を搾取して生きて行く事はいけない事だ、貴族が平然としてきた事を疑い拒否する男だった。
 約束された未来は、名門の貴族の威光と尊厳を守る為の行為。アレクセイは心底不満で、反吐すら出た。
 本来なら実力で得るべき立場を、そんな形の無い薄っぺらい信用で得るなどと我慢できなかった。騎士団に入隊してから、彼は貴族の中で得た剣術に更に磨きを掛け血の滲むような修練に励んで、帝国騎士団随一の剣の使い手という評価を得た。アレクセイの前に立って勝利できる騎士はおらず誰をも圧倒し、彼の前に倒れぬ魔物は居ない。
 アレクセイにとって自力で得た『本物』は、今や貴族の揶揄と一族の威光を知らしめる為に利用された結果、現実味の無い噂の様になってしまった。
 白い肌に薄く張り付いた唇が僅かに開き、嘆息に似た溜息を零した。こんなに天気が良いというのに、随分と辛気臭い面をしているんだろう。目の前には若い騎士達が修練している光景が広がっているが、天気の良さが手伝って少々戯れ合いに近くなっている。
 アレクセイが思い出す様に脳裏に浮かんだ己の執務用の机の上には一部隊分の騎士達の資料が積まれていた。先日解体された部隊を存続する部隊が吸収しろと言うお達しだ。隊長が任務で復帰不可能になったとは聞き及んでいないのであれば、貴族の逆鱗に触れたのだろう。なぜ解体に至ったのかを問えないのが、アレクセイが貴族の生き方をしているのだと思い知らされる。問えば自分も貴族の世界から追放されるのだ。そんな事を恐れてなどいなのいに、なぜ問えぬ。アレクセイは悔しさに若くして刻んだ眉間の皺を深くする。
 その表情のまま視線をぶつけて、修練している若い男と視線が合った。
 光で茶色にすら見える黒髪の隙間に、鮮やかな碧がきらびやかに輝く。厳しい表情であるのは自他共に認めており、己が顰めっ面で睨んでいるのに驚いてその若者は驚きの感情を瞳に上らせた。その感情は叱られた人間が見せるようなものだ。
 いや、君を睨んだ訳じゃない。そう弁明したかったが、それすらも今のアレクセイには億劫だった。
 見れば驚きに似た恐怖の感情を見せた若者は、貴族らしい整髪料に濡れた整った髪型でもなく、貴族らしい皮肉が何処かに見える表情でもない。騎士団ではとても珍しい素朴で真っ直ぐな気質が見えた。ここ近年に採用され始めた平民出身の騎士であるのだろうが、平民出身の騎士は遂行の難しい任務を言い渡され死亡する事が多く、アレクセイですら見つけるのは難しい。
 高い音が響いて、先程の若者の手から修練用の剣が飛んで宙を描く。アレクセイの前に根を張っていた巨木に引っかかり、いくつもの枝を切り落として静止してしまったようだ。葉の隙間から剣が光を弾くのか、木漏れ日とは違う光が見える。
 その様子に若者が声を上げる。『全く何やってるんだよ』そんな他の騎士の呆れ声を聞きながら、彼は木に体を向けて髪を掻いて笑う。それほど身長は高くなく筋肉も隆々ではない彼は、全体的に細い体をとんとんと弾ませると一気に駆け出し木に登った。まるで垂直の壁を登るようなものだったが、木の足掛かりを全力の速度の中で見る動体視力は大したものだ。アレクセイが舌を巻く間に若者は剣を見つけたらしく、葉の中の光が移動して鋭い光を投げつけて来た。
 大きく枝が撓ったと思った瞬間、目の前に若者が飛び降りて来た。
 若者がアレクセイを見上げ、気まずそうに視線を外したが意を決してかもう一度視線を合わせて来た。
「あ、アレクセイ隊長」
 銀髪に赤い瞳。容姿端麗で厳しい隊長の他に類を見ない容姿は、他部隊の騎士も容易に見分けられ己の存在を言い当てる。
 若者はちょんちょんと彼自身の頭のてっぺんを突いた。無数の葉がくっついている髪は癖のある髪で、若者が突く指先で揺れては元通りの位置に戻って来る。
「葉っぱが…頭に付いてます」
 アレクセイは不快な気分が湧いて頭にを指先で払う。更に険しくなった表情に若者が『すみませんでした!』と大声で謝る。それは貴族に対する恐怖ではなく、先程目が合った時に増幅された私自身への恐怖なのだろう。
 私自身…。
 アレクセイはぼんやりとその言葉を反芻した。
「シュヴァーン!」
「あ…はい!今戻ります! 隊長、失礼しました!」
 弾ける様に駆け出す若者の名に聞き覚えが合った。
 シュヴァーン・オルトレインはお人好しの見本みたいな男だ。そんな言葉を貴族から聞く、騎士団の中ではなかなかの有名人だった筈だ。
 頼みは断らない程お人好しではなかったが、少しでも面倒ならば避ける貴族が仕事を放り出そうとすれば真面目な彼はそれを拾ってしまう。若いながらも毅然とした態度で己に与えられた職務を全うしろと言った直後には、目の前で職務が放棄されてしまいおろおろと動揺しながらも仕方が無いと仕事を引き受ける。少しでも不安そうに彼が思えば、本人に気が付かれない様に援助までしてしまう。その陰ながらの協力を貴族に良い様に利用され、気づかぬのは本人だけという場面も良くある。
 しかも、若者誰もが高い理想や野望を持っているかといえばそうではなく、シュヴァーンも当然そうだった。同年代の気の合う若者と一緒に勤務が終われば飲み会に向かい、友人の恋話を冷やかしながら聞いて、上司の悪口と修練の厳しさを小節を付けて切々と唄う。それを言われた上司は聞かなかった振りをして、翌日には先輩に殴られた痛みに呻きながら整列している。
 全く、極普通の騎士団の新人。いや、少し愚かと見下されてしまうだろう。
 そんなシュヴァーンが他よりも秀でているものがあった。騎士団においては最も必要とされる武術の技術で、彼はその分野において非常に器用で不器用だった。平民出身で帝都の騎士団に入団する前は、ちょっとした小遣い稼ぎと様々な仕事をしていた。彼は様々な武器が使えたのは、入団前の様々な経験と本人の器用さとしている。しかし、実態は貴族の同僚の修練に付き合わされ、自分の修練そっちのけになった結果でもあった。それは口が裂けても上官に言えなかったのだろう。
 どの武器を使わせても並以上に立ち回り、獲物が変わっても直ぐに対応し、距離や状況に合わせて武器を選ぶと聞く。
 きっと、本物の実力だ。平民だからこそ飾りなど付かない噂と、目の前の立ち振る舞いにアレクセイは確信に近い印象を持った。
 眩しい日だまりの中で汗水垂らして修練する姿に、日陰の中寒々しい空気を感じながらアレクセイは呟いた。
「器用な子だな」
 彼は『本物』の力で上手く騎士団の中で生き残って行くだろう。平民だからお人好しだからと侮っている貴族を、その『本物』の力で薙ぎ払い言い退けてしまうだろう。アレクセイが出来ないと思っている正攻法で、シュヴァーンという若者は生きて行く。
 アレクセイは歩き出して、ふと己の手を見た。
 何もかもを疑問視し、貴族としての名を背負って騎士団を生きて行く自分はなんと不器用なのだろう。アレクセイは自嘲するような笑みを浮かべた。
「私も『本物』を手にする時が来るのだろうか?」
 どうやって。
 アレクセイの歩いている通路には屋根が掛かっていて、日差しは酷く遠くにあった。