東へ飛ぶ鴉

 昼と夜は二羽の鳥が交代で飛んで巡っていたという。
 昼は真っ白い白鳥が飛ぶ時間で、翼から輝く光が大地に降り注ぎ昼になる。夜には丸くなって月になって寝てしまう。
 夜は漆黒の翼の鴉が飛ぶのだが、大きな翼のその影が大地を覆い夜となる。昔の人々は眠る事をしないで働く事が出来て高度な文明を築いたが、それを神様は許さなかった。鴉は神様の命令で白鳥が飛んでいる時間に大地に降りて、人々の影や物陰を一層暗くした。見えないものを見落として人々は様々な失敗や発見を逃して疲れ果て、夜にはぐっすりと眠る様になった。しかし、夜に誰も遊んでくれなくなった鴉は寂しくなって夜毎泣き明かした。涙は星になり、眠る白鳥の横に寄り添うものだからいつも真ん丸かった月は欠ける様になったという。
 鳥の名前は確かにあったが知る者など殆ど居ないだろう。神話程知られている訳でもなく、娯楽の為の昔話などに人々は興味は無かった。そんな世界だったから。
 その神話の話を借りるなら、ダングレストは白鳥の通らない場所なのだろう。光の屈折の関係で夕暮れの茜色か夜空しか訪れぬ場所には、石畳や建物の影は酷く暗く鴉が居座っているのやも知れぬ。ダングレストの人々はそんな昔話など知らなかったが、物陰は危険で気を研ぎ澄ませていた為夜は誰もが熟睡した。
 茜色の空に世界が赤く染め上げられている中、建物の入り口の前に少年が一人座っている。誰もが気にも留めずに通り抜けるというのに、その人波の一人が少年に気が付いて足を止めた。少年に気が付いて足を止める人間は、良からぬ思いを秘めた人間か良心的な人間のどちらかだが、少年はそれに警戒など抱かぬ程まだまだ幼かった。
 少年に濃い影が落ちた。
「少年。どうした?」
 落ち着いていて刺が無く、少年に優しく声をかける男の声だった。外套を羽織っているからか、少年に声を掛ける為に屈んだその身は翼を広げた大鳥ように少年に映った。肌の色も黒く、髪も赤い照り返しを受けているが漆黒の様に黒々としている。真っ黒い男を見上げて、少年は素直に答えた。
「じいちゃんを待ってるの」
 少年が背を預けていた建物を見上げると、男も建物を見上げた。そこは酒場だ。酒場の開店時間には少々早い気がするが、既に多くの客を迎えて繁盛している賑わいが聞こえる。酒場と大衆食堂を兼ねている場所も少なくもないし、その類いなのだろうと男は納得した。大通りに面している場所であるが少年が一人で待つ場所には心許ないし、かといって酒場の中に連れて行くのは楽しみに水を注す。少年の親の元に届けるのも筋違いだし、赤の他人がする事でもない。様々な思惑が一瞬のうちに流れていった。
 男は所謂暇人だったから少年の隣に座った。
 影から抜き出た様に赤く色付いた男を、少年は首を傾げて見上げた。
「おじさん?」
「おじさんって年齢じゃないんだけどなぁ…」
 男は非常に残念そうに顔を顰めた。まだ20代前半を思わせる若さを持つ男だったが、相手が片手程度の年齢相手では仕方が無いとがっくりと肩を落とすに留めた。
 たっぷりとした外套からは重そうな剣が覗いたが、それは何処の町の武器屋でも見かけるような簡素でありふれた剣だった。微かにダングレストの何処にも無い香りが、外套が広がった時に少年の鼻先を掠めた。少年の慕う祖父が遠くから帰って来た時にそんな匂いがした事があったと、少年は男を再び見上げた。
「おじさんは何処から来たの?」
 男があっけらかんと少年の前方を指差す。東の方角だったが、それを男は説明したりはしなかった。
 少年が食い入る様に『あっち』を見ていた視線を戻すと、男はさも楽しそうに笑って言った。
「もうちょっとしたら、あっちに行かなくてはいけないんだ」
 男が垣間見せた童心に、少年にとって男は不思議で仕方が無い存在になっていた。男の一つの仕草だけでも不思議で不思議で、少年は堪らず聞いた。
「あっちには何があるの?」
「あっちには…」
 昼があるんだよ。
 少年が首を傾げて男を見上げた。
 男は笑いながら話す。少年が見た事の無い大きな大きな海と言う水溜まりがあって、そこに家よりも大きい船が走っているんだ。ほら見てご覧。空に浮かぶ結界魔導器の光。あれに包まれた町がいくつもあって、お城には王様がいて沢山の騎士がいて、こことは全く違う町並みなんだ。森があって、草原があって、川があって、滝も流れてる。魔物はおっかないけど、腕と剣と頼れる仲間がいれば大丈夫。
 …そして、真っ青な昼があるんだよ。
 男がそこまで話すと、ふと顔を上げた。今まで屈託ない笑みで話していた表情とは違って、真剣になっていた。横顔は少年にとっておじさんではもう無く、少年の慕う祖父よりも年上が発するような息を飲むようで少年には理解が難しい気配を放っていた。そこにいたおじさんは、今まで隣で話していたおじさんなのか。声を掛けてもいいんだろうか。少年はうんうん頭の中に火花を散らせて考えて、再び男を見上げた。
「おじさん…?」
 少年が声をかけると、男はにっこり笑って少年の頭を撫でた。立ち上がって外套や装束を軽く直すと、再び真っ黒な影になって少年の上に落ちる。
 少年は目の前に夜が来たかと思った。男の身につける衣類の金具は影の中星のように輝いたのだ。男の瞳は碧で、男の子は見た事の無い星の色にどきどきと吐息を詰めて見上げた。影の中で男は屈み、少年の耳元にとても重要な秘密を囁く様に言った。
「鴉が鳴いたからそろそろ行くよ」
 男は笑ってさっさと歩き出した。『からすがないたらかーえろ』と調子外れな歌を口ずさみ、別れの言葉も無く『あっち』の方角に向かってあっという間に小さくなっていく。もう少年の手よりも小さくなっていて、人波に呑まれそうになっていて、追いかけようかどうしようかと腰を浮かせた時だった。
 背後の入り口が軋みながら開いてくっ付いていた鈴が高らかに鳴った。背後に彩りと喧噪が溢れ出し、男の姿が更に遠くなる。もう手が届かない、そう思った時、少年の望んだ声が大きな掌と共に頭に乗った。
「ハリー、どうしたこんな所で?」
「じいちゃん!」
 ハリーはさらさらの金髪を撫で回す祖父の大きな手を押し上げながら、祖父の大きな体に抱きついた。
 祖父は細い目を更に細めて細っこい孫を受け止める。こんなに小さく片手で持ち上げるのも容易い体が発する、どんと走る衝撃の甘さに祖父になると色々と変わるもんだと聞いていた半信半疑の事柄全てに納得してしまう。祖父は周囲の屈強な人間が一目置く優秀な人物だった。そんな男の見せる祖父としての顔に『だらしがねぇ』と笑って隻眼の男が取り巻きを引き連れて遠ざかって行く。義手代わりの鍵爪をひらひらと降り、ハリーの祖父を一目見る。
 にやりと笑い『面目ねぇ』と口だけ動かす姿を認めれば、隻眼の男は鼻で笑うとさっさと背を向けてしまった。
 喧しい男達が去って行くと、祖父と孫の周囲は街行く人間の足音が響き静謐にすら感じられる程になった。祖父は改めて孫の前に膝をついて視線の高さを合わすと、少年一人ではまだまだ危ない町中で一人待っていた初孫を見た。肝が据わっているを通り越して無謀だ。無邪気な瞳を前にして祖父は一つ溜息をつく。
「まさか一人で待っていやがったのか?」
「おじさんと一緒だったんだけど、鴉が鳴いたから行っちゃった」
 おじさん?
 祖父の問いに孫は得意になって答えた。あの何でも知っている祖父に分からない事があるなんて…! 孫は嬉しさのあまり饒舌に男の事を話した。
 真っ黒い男。世界を知っている男。星を秘めていて碧の星も持っている男。鴉の鳴き声で『あっち』へ行った男。少年は自分の覚えている事をひっくり返して全て祖父に伝えた。
「そいつは、きっとレーヴァンだな」
 そういえば…と父祖は昔を懐かしんで呟いた。
 海賊の中ではレーヴァンは黄昏の幻に惑わされる事なかれと、自然の教訓を表す意味であったと聞いた。それの元の話を祖父の女友達は『渡り鴉など砂浜の星を探すより大変なのじゃ』と茶化しながら他愛も無い世間話の様に話した事がある。
「昔はレーヴァンという鴉が飛ぶと夜になると言われていたんだとよ。悪戯好きのレーヴァンは夕焼けの頃合いに人々の前に現れて、他愛も無い雑談をしたり洋服を何処かに隠したりして、高い鳴き声と共に東に帰って行くんだ。そうして東から夜がくる。レーヴァンが飛んで来るんだとさ」
 孫はレーヴァンの名前を言おうと唇を必死に動かしている。その様子に祖父は立ち上がって笑った。
「レイヴンでもいいんじゃねぇかな。そう呼ぶ所もあるそうだ」
 れいぶん…レイヴん……レイブン
「レイヴン…!」
 孫が名前をしっかりと発語できるのを見届けると、祖父はその大きな手で孫の背を押した。
 ダングレストはレイヴンの飛び立った後なのか星を抱き月を彼方に臨む夜の空の下にあった。少年の目はあの男の闇の中にあった一対の碧の星を探そうと頑張ったが、転んでしまって祖父に笑われた。膝が痛いけど、泣かない。これもあのレイヴンのおじさんの悪戯なんだ。少年はあの真っ黒い男を思い出して唇を尖らした。
 人々が灯す明かりが二人を温かく向かえる。明日も。明後日も。鴉が飛ぶ限り。