西へ飛ぶ鴉

 好奇心は猫をも殺す、そんな言葉を知っていますか?
 そう低く囁く声は冷気を帯びているかの様に冷たく、地面に零れ落ちるように広がらずに消える。それで良い。周囲の人間に聞かれない様に潜めた声であるから、すぐに消えてもらわなくては困るのだ。
 イエガーは目の前の黒髪の男を睨んだが、貴族でも薄ら寒さに震えて後退るのに動じもしない。それどころか楽しげに瞳を和ませて、色黒の肌を裂く様に口元が笑みの形を描いて開く。鎧を纏っていないので隊の色が判別できないが、同年齢の同じ隊の人間なら自分が知らない訳が無い。イエガーは自分の苛立ちから青い前髪を鬱陶しく感じながら、他の部隊の男を睨んだ。
 偶然にも二つの小隊が違う任務であるが、同じ街に居合わせる事になった。イエガーの部隊の小隊長と、相手の部隊の小隊長が親しげに話していたが鎧の基調色は異なり違う隊であるのが分かった。相手の部隊は任務終了後だったらしく、装具も汚れ傷ついている者もおり疲労感が滲んでいたが、表情は明るく和気あいあいとイエガーの属する隊の人間と打ち明けていた。
 あまり人付き合いが得意ではないイエガーは、裏口近くの部屋で黙々と本を読んでいた。1部隊でも五月蝿いのにその2倍。更に報告が終わるまでが任務であり帰都の途中でありながら、もしくはこれから任務に赴くだろう立場で、隊を外れようとする馬鹿者の足音が聞こえるときたものだ。例え上官でも口答えするイエガーが扉を開けて鉢合わせた相手は、驚きを絵に書いたような表情で同年代の青年である。その時のイエガーの意苛立ちと言ったら火と油とボムを同時に投げ込まれたかのようだった。
 イエガーの顔はここ数年の中で最も怖いものになっていた。
 黒髪の男は人懐っこく笑いながら困った様に眉根を寄せて、苦笑いの顔の前にぱぁんと勢い良く手を合わせた。顔半分を覆う程に落ちていた相手の前髪が、風圧でフワリと浮いた。
「いや、本当に頼むよ。今夜だけは見逃してくれよ、な?」
「君の小隊の隊長が困る筈です」
「それを言われちゃうと、俺、本当に困っちゃうよ」
 なんて大胆な奴なんだろう。男の言葉にイエガーは、怒りに滾る感情の中に唖然と言う感情の冷風が吹き込んだのを感じた。
 勿論、任務中の騎士が街に立ち寄って息抜きするという事は全くない訳ではない。頻度で言えば日常茶飯事であろう。騎士の大半は貴族であるのだから、隊長格の人間にいくらかの金銭を握らせて目を瞑ってもらう。その方法を入隊の時には手取り足取り先輩の貴族に言われたものだが、イエガーは実践した事が無い。彼にとっては学ぶ為の本と学んだ事を記した手帳と、古代遺跡から出土したガラクタのような魔導器が一つあれば尚良いが無くてもそれで十分だった。自分の武器を手入れして勉学に興ずる時間があれば、好奇心や鬱憤を晴らす為の気晴らしなど必要なかったのだ。
 困った困ったとうんうん唸る男は、賄賂も無しに隊を抜け出そうというのだ。発見されれば発見されたらで、任務中の負傷ですと報告する手間が増える程度に肋骨数本折られる事だろう。その後も小隊内では非常にやり難くなる。
「君、もしかして平民なんですか?」
 即座に金にものを言わせようとしない。そんなケチな感覚は貴族にはない。イエガーか辿り着いた仮説に男は表情を輝かせ大げさに頷いた。
「そうそう。もしかして、お前も?」
「そんな訳が無いでしょう」
 男の表情から視線を明後日の方向に向けながら、イエガーは溜息と一緒に否定の言葉を告げる。
 騎士の小隊長となれば部下の脱走一つ気が付けぬ訳が無い。だとすれば『所詮平民のする事』と見下され嘲られているのだろう。それすら気が付けぬ愚直な男なのか、それともそれすらも利用した抜け目無い男なのか…イエガーは前者を選んだ。しかし、その事を指摘してもこのような性格では喉元過ぎれば熱さを忘れるか、許してくれてあり難いと感じる程度に違いない。
 するとイエガーの視界の外、明かりの届かない廊下の闇の中で男が動いた。闇の中に黒髪が溶け込むものだから、闇が蠢いた様に見える。
 男は半歩イエガーに歩み寄って、明後日の方向を向いたままの顎を見上げた。
「お前も外に行かないのか? 飯も美味そうだし、何より楽しそうだぞ?」
 布を擦る音が聞こえる。シュヴァーンの下げられた手が外套の布を押し除けて再び持ち上がった。今度は片手、左手だ。
「俺、シュヴァーン」
 シュヴァーンが何を思ってか得意げに手を差し出して来た。
 無論、握手を求める為だった。シュヴァーンの所属する小隊には同年代の人間がいない。正しくは『居た』であり、入隊前に任務復帰不可能になって脱退した後で歳の最も近い先輩も8つ程上だろう。シュヴァーンはこの歳の変わらない同年代の青年に出会えた事を、純粋に喜んでいた。冷淡な性格かと思えば、貴族らしい突っ撥ねた態度が無く言葉にも応じてくれる律儀さがある。仲良くなれそうだ。直感がそう言っていたのだ。
 差し出されていた手を黙って見ていたイエガーから、いつまでも反応が返って来ないものだからシュヴァーンは白けた空気に笑みを僅かに引き攣らせる。ぎこちない動きで手を元の場所に戻すと、今度こそシュヴァーンはお手上げになってしまった。
 シュヴァーンも真面目な男で、イエガーが『行って良い』と言うまでは街に勝手に繰り出そうという気にはならなかったのだ。
 静寂は耳に痛い。
 シュヴァーンの外への興味が木の葉が擦れるような気配となって空間に染みる。何の変哲の無い白塗りの壁を叩いて、窓越しに迫る夜の下の街灯の灯火を地中に埋もれる宝石の様に興味ある輝きにさせる。まだ見ぬ世界、そんなに良いモノなのか? 目の前の真っ黒い男を、イエガーは睨みつけた。
「『レイヴン』って名前にした方が良いですよ」
「へ? なんでだよ?」
 イエガーは唇だけ動かしたつもりだったが、喉は震え僅かながらに声になってシュヴァーンの耳に届いてしまった。面倒な事だ。迂闊な事をしたとイエガーは緩慢な動きながらも、鋭い視線を先程居た部屋の扉に向け手をノブに掛けた。シュヴァーンの困惑した声が背中を叩いても、イエガーは気にも掛けない。
 扉が開かれイエガーは元いた場所に戻ると、腰を乱暴に椅子に落として本を開いた。
 シュヴァーン。博学なイエガーはその綴りを直ぐに脳裏に書いて驚いた。白鳥の綴りに良く似ている。こんな黒髪で肌の色が黒い男に白鳥に近い綴りの名前なんて、親はどのような思惑で名を授けたのか皆目見当付かない。
 それどころか人々に悪戯を仕掛け誘惑する行動を、レイヴンそのものだと思った。
 白鳥と対を成す夜の運び手である寂しがりやで悪戯好きの黒い鴉。今は知る人が限られる昔話であり、イエガーは考古学を好む嗜好故に知っている話でもある。夜は騎士団を抜け出して遊びに興じるとは、まさにその通りではないか。朝には騎士として戻って来る白鳥、そう思えばシュヴァーンの名前もなるほどと唸る。イエガーは古代の悪戯に思わず好奇心が疼き感情が荒ぶるのを押さえるので必死だった。それに身を任せてしまったら、何をしてしまうのか見当すら付かないので不安すら抱いていた。
 微かに震えるイエガーを見てシュヴァーンは戸惑ったが、意を決して言った。戸惑いなど微塵も感じさせないよう、明るく口調を彩って…。

『お前の名前、聞いてないぞ?」

 グラスの中で氷が乾いた音を立てて割れた。照明が暗過ぎると思う店内は、夜目の利く者には安堵すら湧く落ち着いた雰囲気に包まれている。木の質感は艶消しを施されたか塗料を塗り忘れたのか柔らかく温かく、近隣の店から流れるブラスバンドの音楽が風に乗って流れて来る。店主の酒を注ぐ音が響き、薄暗い寒くも温かくもない空気に柔らかく広がって鋭敏になった嗅覚をくすぐる。それなりの酒を上物に変える魔法を施したような店だった。
 声を掛けられるまでの刹那に蘇った過去が、少しだけ酔いと共に残る。何処にも記されていないものの、白鳥も鴉も最終的には神を裏切るとされている。何故ならば人々は神が禁じようとした徹夜をする事ができ、神が余さず照らそうとした世界に昼の来ない場所があるからだ。悪酔いだ。らしくない。思考を今に戻す。
 少なくともあの時は名乗らなかったと、ラーギィは微笑みの下で思った。
 そして向かいに座ったレイヴンと名乗る男に杯を勧めた。