紙飛行機の舞う空

 真っ青な雲一つない空を見上げていて、空気の中に微睡む様にゆったりと白い物が横切った。
 エステリーゼはそれを見つけて小さく声を上げると、食い入る様に目で追う。桜の花弁を載せたような薄紅色の整った爪を奇麗に口元に運び、その小さく空いた口元を上品に隠す。首がゆったりと巡り、セーターの繊維に桜色の細い髪がサラサラと引っかかり次々と落ちて行く。
 彼女が見つめているのは、紙飛行機だった。奇麗に折られた紙飛行機は厚紙で折られているのか、決して揺らぐ事無く安定した軌道を描いてそよ風に乗っている。誰もが作れる紙飛行機とは違って滞空時間が長く飛ぶ様は、優雅と言っても差し支えない。実際、エステリーゼはその紙飛行機がとても上手に飛んでいるので感動すらしていた。
 もう少しで紙飛行機が着陸します。そんな時、突然強風が吹いて強く目を閉じてしまう。頬にちくちくと砂が当たる。
 風が唐突に吹いたと思えば止むのも唐突で、風は間もなく通り過ぎた。急いで目を開いて飛行機の落下地点を見遣れば、そこには対象が紙だから当然飛ばされてしまったようで何もない。視線を素早く巡らしても、探していた白い紙飛行機は見つからなかった。
「どうかしたの? エステル?」
 声でエステリーゼは誰だか分かる。振り返るとそこには転校してだいぶ経った友人がいた。
 明るいオレンジ色にすら見える茶色い髪に、鋭い双眸が物語る通りリタは気がとても強い。多数の論文を発表し、世界中から認められる最年少の科学者として注目を受けている。そんな誉れある科学者なのに、誇らしさは微塵も無く苛立ちに似た感情が良く吹き出る。なぜ転校という運びになったのかは知らないが、友人達に囲まれて不器用に微笑むのを時折見かければ彼女が更なる転校を望む事は無いだろうとエステリーゼは思う。
 手を前に上品に重ねて、他校の制服を纏うリタに向き合う。
「紙飛行機が飛んでいたので見ていたのです」
「紙飛行機?」
 あの、紙折って飛ばすあれ?
 リタは心底信じられない呆れを顔に張り付かせ、腰に手を当ててやれやれと首を振った。老人に達するような経験者すら相手取るリタにしてみれば、紙飛行機など子供の遊びではないか、そう思わざる得ないのだ。それを見透かした様に、エステリーゼは微笑んだ。
「とても上手に飛んでいたものですから」
「まぁね。紙であっても『飛行機』だもの。ちゃんと計算して折れば良く飛ぶわ」
 その笑顔にリタは渋々と頷いた。
 風の影響、空気の摩擦、ありとあらゆる事象を計算するのは航空力学と大差ない。むしろ紙という低コスト、これでもかという軽量化、風のみで浮かせる故にエンジンという力技が利かない点では極めれば航空力学どころか宇宙科学にも影響だって出せる。だが、大人や知識人が『子供の遊び』と軽視する紙飛行機だからなかなか顧みられないのだろう。そう思うと、リタは紙飛行機も馬鹿に出来ないものだと溜息と一緒に呆れた思いを吐き出した。
 顔を上げればそこにエステリーゼはいない。
 落ち着き無いかの様にふらりと行ってしまうのはいつもの事。リタは落ち着いて探すと、探されている本人は少し離れた茂みの草に引っかかっている紙飛行機を取り上げている。嬉々とした様子で持って来た紙飛行機を受け取れば、なるほど、素人が折ったような形ではないと一見して分かる。両手に収まる程の大きさで紙のくせに要所の比重が計算されていて、空中の重心を考慮しているのが分かる。折り目の付根を見れば、鉛筆なのだろう微かな線が見え隠れしている。
 こんな計算が弾き出せる人間が、この学園にいただろうか? それとも『良く飛ぶ紙飛行機を折る本』でもあるのだろうか?
 考えに耽りだしたリタに、エステリーゼが昔を懐かしむ様に言った。
「昔、この紙飛行機よりも良く飛ぶのを作った人がいたんですよ」
 しかし、目の前の紙飛行機を前に空気抵抗等の計算をし出して言葉が届きそうな様子のないリタに、エステリーゼは微笑んでその横に並んで空を見上げた。
 あの日もこんな風に日差しが温かくて雲一つないとても奇麗な空だった。そこへ舞い上げる様に放った紙飛行機は天空へ一直線に駆け上がり、円を描いて地上を目指してゆっくりと飛んでいた。いつまで経っても着陸しない紙飛行機にエステリーゼは瞳を輝かせた。どうやって作るのか聞くと、相手は口元に人差し指を当てて『秘密ですよ』と笑った。
 今は当主亡き財閥の令嬢に関われる人間はそう多くない。
 エステリーゼにとって彼は数少ない遊んでくれる人だった。手品の様に科学の神秘を見せてくれる彼は、世界中の何もかもに影響を与えた学者だった。今は持病の心臓病の悪化から滅多に表舞台に立つ事も無く、論文や書籍は10年前から新しいものは何一つ発表されていない。それでも、その論文や書籍は今も指標として学者達の前にあると聞く。
 黒い癖毛を丹念に梳き解した毛髪は真っ直ぐ落ちていたけれど、軽い動作で羽の様に軽く舞うのを覚えている。白衣の人々の中では取り分け肌が色黒く、白衣だけではなくハンカチにすらアイロンを掛ける身だしなみなのに無精髭が良く生えていた。一度だけそれを指摘した時、彼は困った様に微笑んでとても不思議に思ったものだ。とても温和で優しい人だった事は良く覚えている。
 エステリーゼは芝生に落ちた紙飛行機に駆け寄った。小さい両手からはみ出る大きさの紙飛行機を持って投げたがあまり良く飛ばなかった。悔しさにムスッとした顔になったのを覚えている。再び芝生に落ちた紙飛行機を手に目の前に片膝を付いた彼は、小さく微笑んで幼いエステリーゼを見上げた。
 『私は、少し遠い所へ行きます』そう唇が動く。声は上手く再生されないが、確かにそう言ったのを覚えている。
 その時のエステリーゼは言葉の意味が分からなかった。でも、今では別れの言葉だったのだろうと理解できる。
 エステリーゼもあの日から、彼に会っていない。自分も幼くて記憶の中の彼の姿が曖昧であるのを自覚している。名前も…調べれば分かるだろうけれど良く覚えていない。
 再び空を見上げて、黒い遮光カーテンの翻るのが目に留まった。真っ青な空と白い建物の壁に、異様に目立ちばさばさと重い布が風に叩かれている。
 すると、そこから白い紙飛行機が真っ直ぐ空へ向かって飛んで行くのが見えた。紙飛行機は放たれた矢のように何処までも飛んで行く。ぐんぐん、飛び立つ鳥の様にその距離を伸ばす。エステリーゼは目を真ん丸くして、隣でぶつぶつと計算を続けていた友人の首根っこを掴んだ。
「リタ!」
「な、なによ!?」
 普段は慌てたり声を荒げたりしないエステリーゼの剣幕に、いつもは構想を遮られれば手が出るリタも驚きにエステリーゼの顔を見る。エステリーゼはあっちあっちと、自分の顔を見るリタの顔を紙飛行機の方角へ向けようと必死に指を指す。
 リタがようやく紙飛行機が飛んで行った方角を見れば、紙飛行機の姿はどこにもない。
 更には紙飛行機を放った窓もぴったりと閉じられ、いつの間にかカーテンが立てる騒音も消えている。
 証拠も何も残っていない方角をぐるっと見たリタは、エステリーゼの顔を見る。エステリーゼもこれでは自分が嘘つきのようでは無いかと納得できない顔で、リタの顔を見る。互いに無言で顔を見合わせる空間は、痛い程の沈黙で満たされていた。互いにぐるぐると思い巡らす顔は複雑で、リタは口を開けば叱責に似た言葉を発しそうなのを必死で堪えていた。
 すると、エステリーゼが意を決した表情になった。
 居ても立ってもいられない。そんな思いに溢れているのか、リタの手を取ると引っ張り出した。
「な、な、なんなのよ、エステル!?」
「確かめに行きましょう!」
 もしかしたらあの紙飛行機が飛び出した場所にその証拠があるかもしれない。
 エステリーゼの発想は正しく、嫌に生活感に満ちた準備室には無造作に紙飛行機の設計図を走り書いたものが転がっている。定規に鉛筆、設計図の所々にある計算式、電源の付きっぱなしのノートパソコンに映し出されたシミュレーション、作りかけだったり完成した紙飛行機はその証拠としては十分なものだ。
 ただし証拠が十分でも、その紙飛行機を作った人物に納得いかなくなるだろう。
 風に広がった遮光カーテンを纏めているのは、この学校では胡散臭いで有名な物理学の教師だからだ。ようやくカーテンを纏めてやれやれと首を回して一息つけば、毛髪がぼさぼさと広がりだらし無くよれた白衣がズボンに纏わり付く。ビーカーでお湯を沸騰させ珈琲を入れていた男は、廊下からこちらに向かって響いて来る足音に何事かと顔を上げた。
 子供達の手によって扉が開いた時、僅かに生まれた微風にも関わらず、ふわりと紙飛行機が笑う様に浮かぶだろう。
 彼が、そう設計したのだから。