晴れすぎた空の下で

 空は美しい晴天で、雲は線を幾重にも引いたような形を空の片隅に広げている。
 そんな空の下にいるフレンは、強く温かい日差しの中で目の前の石碑を見つめていた。石碑は風雨に晒された廃墟の石材の趣きを宿し、多くの花々に埋もれる様にそこにある。石碑の奥に視線を少しやれば、帝都ザーフィアスを見上げる事が出来る。帝都から南西の方角にある石碑からは、貴族から下町に至るまでの人々の営みを宿す建物を余さず見る事が出来る。結界魔導器の守護範囲を超えた場所にある為、滅多に人の訪れぬ場であるそこは10年前まで殉職した騎士の墓であった。
 昔は殉職した者の遺体を戦地から持ち帰る事などできず、この騎士の墓で遺体が無くも弔うのが常だった。殉職した後はこの場で再び相見える事すら誓い合っている程、騎士達にとっては馴染み深い場所だったそうだ。雄々しい馬の彫像の下に掘られた伝説にまで遡るような過去の騎士を弔った墓は、今では様々な時代に死した騎士達の辿り着く場所の様な場所になった。
 しかし過去の人魔戦争の際の多くの戦死者を最後に、この墓の存在は騎士達から忘れられつつあった。
 現騎士団長のアレクセイと、隊長主席のシュヴァーンは騎士団の歴史の中で取り分け強く殉職に否定的な意識を持っていたからだ。特に人魔戦争経験者のシュヴァーンは生還を命令する程で、自己犠牲から来る殉職を快くは思っておらずむしろ嫌ってすらいた。多くの犠牲を払った戦争故に、その後の指導者はその犠牲の痛みを誰よりも痛く感じていたのだろう。
 この場所を知る為には長く騎士団に務めているほか無い。騎士団に在籍する中で偶然にも、先輩が密かに後輩に伝えてその存在は残っている。フレンもそのようにして、この場所を知ったのだった。
 フレンはまだ心の中が空っぽで、この身に叩き付けるような強風が胸をも貫いて通り過ぎて行くのを感じた。風は冷たくて筋肉に凍みて、骨を容赦なく冷たく堅くなった空気で叩き、心の中に僅かでも湧こうとする温かい感情を吹き消した。
 片膝を付いて腕に抱えた花束を置く際に、包む紙が乾いた音を立てる。石碑に柔らかく触れた花弁が、無機質な石の上で鮮やかに咲き誇った。
 あぁ、やはり亡くなってしまわれたのだ。
 このように墓に花を添える行為は正しく墓参りで、もしかしたら帰ってくるかも知れないという期待を自分で握りつぶしているのだとフレンは思う。胸の奥から嘔気の様に後悔の感情が沸き上がって来る。吹き出す様に鮮明に思い出される記憶の苦さに舌が灼け、痛みを伴う不甲斐なさが頭を締め付ける。どうにか堪えようと、フレンは歯を食いしばり胸を押さえた。
 どれくらいそうしていたかフレンにも分からなくなってきた時、背後から誰かが近づいて来る気配を感じた。柔らかい草の生い茂る場所故に足音は聞き取れなかったが、甲冑だろう金属音が擦れる音が聞こえる。自分の気配を消すつもりはないのだろうが、熟練した者が発する覇気のような雰囲気が気配を圧倒していた。
 この場に来るのだから騎士に違いないとフレンは思ったが、まだ見習いで騎士になったばかりでは近づいて来た騎士が誰だかも分からないだろう。それでも礼儀正しいフレンは見知らぬ騎士であっても挨拶をしたかったが、燻って少しの刺激で燃え上がりそうな感情に顔すら上げるのも難しかった。
 騎士の足音はフレンの斜め後ろにて止んだ。直ぐ傍に来たというのに近づいて来た騎士はフレンに声掛け一つ寄越さない。
 それ故にだろう。この石碑の周辺に吹き渡る風が優しく草を愛撫して行く音が響き、背後の騎士の労るような沈黙がフレンの心を鎮めて行くのを感じた。騎士の気配は優しく、無言のままにフレンの感情が落ち着くのを待っているかの様にそこに居た。
 暫くして騎士が動くのを感じた。
 土を軽く掻く音が耳に触る。視線を向けると、そこには鞘の先が土を盛っているのが映った。
 肥沃な土が小さく盛られた土を見ながら、フレンはこの花畑の造り主ではないかと思った。碧の絨毯や柔らかい彩り豊かな花はどれも店先に並ぶものよりも小振りだったが、遠目からでも石碑の回りには花畑がある事を認めさせるに十分だった。この場所を教えてくれた先輩ですら、花の種を持って行くよう勧められた記憶は無い。
 ようやく乾きつつあった蒼い瞳に、騎士の爪先を覆う装具が見えた。金色に見える金属の色だったが、使い込まれているのか小さい傷とそれを巧く補修している跡が見えた。ここまで来るのに土で汚れている箇所を覗けば、しっかりと磨かれておりフレンの顔が映り込んでいた。
「泣いているのか?」
 感情の無い低い声が降り注いだ。
 その声が騎士のものだと分かっていたが、労るような沈黙が放っていた優しさには不釣り合い過ぎる言葉だった。
「後悔に涙など流さない、そんな最善を尽くせ」
 まるで傷口に塩でも塗り込まれるような激痛に、堪らずフレンは顔を上げた。
 そんな事は分かっています。口を開けばそう言ってしまいそうな感情が、上官には決して口答えなどさせないフレンを飲み込もうとしていた。
 そうでなくてもフレンの胸中には、後悔の中で幾度も反芻された自分の非力さを呪う思いでいっぱいだった。なぜこの時こう出来なかったのか、なぜあの時そうしなかったのか、そんな考えを数えきれない程繰り返しその度に自分を嫌悪した。そんな事を他人に言われなくても、誰よりも自分が分かっている。あの、最後の表情を思い返す度に、なぜあの人はあんなに強かったのだと、届かない強さへの憧れに思考が焼き切れる程焦がれた。
 心の片隅に生まれた僅かな苛立ちは、油に火を投げ込んだかのようにパッと瞬く間に広がった。
 顔を上げて騎士を睨んだフレンが最初に見たのは、暗闇に一際輝く一つだけの碧だった。最初は逆光であったのかと錯覚したが、その騎士は髪が黒く肌も他の騎士達と比べて色黒かった。真っ青な空の下では、彼本来の色を更に暗く見せた。顔半分を覆う前髪に片方を隠されていたが、その碧の瞳は息を飲む程美しく、そして辛そうだった。
 あまり見覚えの無い朱色の装いは、シュヴァーン隊のもの。外回りの任務の多い隊であり、彼はその隊の隊長である事にフレンは気が付けなかった。
「涙で命を潤す事は出来ない」
 騎士はそう言って少しだけ足下の花々に目を向けた。
 その言葉はまるで自分に言い聞かすようだった。そう、フレンには聞こえてならなかった。
 重みある響きだと、フレンは言葉に自分の後悔の何もかもが覆われてしまうのを感じた。垣間みた目の前の騎士の後悔の闇の深さは、フレンすら触れるのも恐ろしく感じる程に暗く深い淵の一端だと思う程であった。その濃さと深さすら乗り越えようとする目の前の騎士に、フレンは圧倒された。畏怖すら感じる程だった。
 悲しんでいては前に進まない、留まる事をあの人が望んでいるとは思わない。前に進め、強くなれと目映いばかりの笑顔で自分をあの人は鼓舞するだろう。一人でも多くの人を救い、お前の高い理想に近づけと親友は無言のままに望んでいるだろう。違う道を歩む事になったとて、自分が彼の将来が素晴らしい事を望むように彼もそう願っているのだ。
 分かっている。
 分かっていた。
「あ…あの…!」
 意識を現実に戻し再び騎士を見遣った時、騎士はすでにフレンに背を向けて帝都へ歩き出そうとしていた。
 騎士はフレンの言葉に振り返りもしなかった。
「その答え、俺より先に報告するべき者がいるだろう?」
 フレンは言葉に息を飲む。何もかも分かっているという驚きよりも、そのような言葉が出て来るとすら想像すら出来なかった。
 歩み去ろうとする騎士に深々と頭を下げ、フレンは空を見上げた。どこまでも青く広い空を見上げて、フレンは大きく息を吸った。苦しくなる程吸い込んで、彼は叫んだ。後悔も苦しみも感謝も誓いも全部、吐き出してしまう程に大きく想いをありったけに詰めて…。
「ありがとうございました!ナイレン隊長!」 
 フレンの天に届けよと響き渡る声に、帝都へ歩を進めていた騎士も碧の瞳を和ませ空を見上げた。
 晴れすぎたこの空なら、涙も乾き憂いも後悔もどうでも良くしてくれるだろう。どこまでも、面倒見の良い男だな。そう思えば、すまなかったと表情を硬くした。
 天は誓いの声に応え、やがて恵みの雨として民に降り注ぐだろう。この乾いた平和の影に潜む汚れを、洗い流してくれるだろう。自分もいずれ退く時が来る。真っ直ぐな青年の瞳に、騎士は自嘲気味な苦笑を浮かべた。
 奴は強くなる。誰もを守る程に強くなる。
 晴れすぎた空がそう言った気がした。