境界線の溝の深さ

 ヘリオード。それが、この新しく作られる事になる都市の名前。
 そこは簡単な小屋がアスピオからの協力者の宿舎になっていて、護衛の騎士の詰め所や土木に連なる職種の宿舎や倉庫がある程度で村からもほど遠い。それでもその地は都市になる事を約束された地だった。結界魔導器が発見され、魔核は死んでおらず、安定するまでの調整は必要であれど広範囲に結界が展開される事が判明した。都市になる公式に必要な数字は整い、後はその計算が答えに辿り着くまで直走らなくてはならない。
 今現在、シュヴァーン隊は一時的に本営をこちらに敷いている。
 恐らく帝国騎士団の任務の中では現在トップクラスの危険の度合いと、予測不可能な状況下であるだろう。隊長シュヴァーン、副官であり参謀であるヴィアを始め、シュヴァーン隊の集会でも稀に見る多くの小隊が集結していた。
 この長閑な空の下でありながら結界魔導器はまだまだ稼働の域に達しておらず、継続的な魔物からの防衛を強いられている。魔物もそれなりの数を掃討して襲撃の機会はだいぶ減ったものの、魔物の縄張りに足を踏み込んでそこを人の住処に作り替えるなど危険極まり無い。何時安定するとも知れぬ魔導器を守りながら、終わり無い防戦を続けるのは神経をすり減らすものだ。
 ヴィアは質素なテーブルに広げた書類や報告書を検分していると、扉をノックする音が響く。
「参謀」
 声を掛けて来たのはヴィア直属の情報部隊の人間ではなく、シュヴァーン直属になる遊撃隊の騎士だ。彼女に知らぬ隊員は居ない。ヴィアが隊長のシュヴァーンを含め隊員全員を我が子同然の扱いをしていたのは周知の事実だった。瞳が愛おしそうに細められる事も、見送る口元が寂しそうに歪む事も、その理由を知る者は極僅かだったが隊員は隊長と並び参謀を尊敬していた。
 ヴィアは笑い皺の横のえくぼをより深く刻んで扉に立った部下を見る。
「なぁに?」
「幸福の市場の方が御出でです」
 騎士の横に若い女性が並んだ。フワリと薔薇の匂いがヴィアの鼻先を掠めた。
 ギルドと帝国は犬猿の仲であったが、このシュヴァーン隊の管轄だけは少しだけ違う。
 元々帝国は貴族主義が強い風潮であったが故に、それを嫌ったギルドとの仲は拒否とすら言える程の嫌悪に満ちていた。しかし、平民が本格採用され半数以上を占めるシュヴァーン隊は貴族主義を始めとした帝国の色が薄かった。隊長であるシュヴァーンも柔軟な思考の持ち主であったし、ヴィアは騎士団在籍年数で言えば相当なもので色んな小細工も得意だった。ギルドの訴えの窓口になるのは専ら彼等であり、時にはその言葉に応じてすら見せた。
 だが、それは互いに利益あってこそ。ギルドと帝国は好敵手。油断すれば寝首を掻き、謀を見抜けねば突き落とされる。
 客人であるギルドの女性もそれを十二分に心得ていた。5大ギルドと称されたうちの一つ、商いの王と呼ばれた幸福の市場の幹部である。ギルドの人間ではなかなかお目にかかれない聡明で裏も見透かそうとする視線を受けて、ヴィアは嬉しそうに向かえた。赤毛に眼鏡を掛け、白いシャツにロングジャケットを着た女性を見つけヴィア慇懃に頭まで下げてみせる。表情の変化は若干意地悪そうな笑みに留め、その笑みも芝居掛かった挨拶の影に隠してみせる。
「いらっしゃい、メアリー」
 ヴィアがメアリーと呼んだ相手、メアリー・カウフマンは表情を引き締め一礼する。
 招き入れられたカウフマンは部屋の中を見て表情に出さないが驚いた。そこは質素極まり無い空間で、騎士達を取り纏める偉い人物が居るような空間には到底思えなかった。アスピオの魔導師の滞在する宿舎の方がまだマシだ。商売人が見る目の前のテーブルなど、粗雑な床板の余りを継ぎ足したような物だ。部屋の何処からか隙間風でも入るのか、室内は外気とそう変わりない温度だった。急拵えとはいえ劣悪すぎる環境にカウフマンは絶句した。
「幸福の市場はいつも情報早いわねぇ」
 カウフマンの様子など気にも留めず、ヴィアは愉快そうに笑った。
 ふらふらと質素な室内と散らかった書類を纏めながら歩くと、部屋の隅で落としていた珈琲を注ぐ。待つ時間も感じさせずヴィアが珈琲の入ったカップを二つ乗せたお盆と、書類の束を持って再びテーブルに付いた。
 書類はカウフマンにとっては見慣れた出店許可証だ。何も言うまでもなく己の用事を見透かされている事、そしてそれを直ぐ出せる状態にしておいた事から来る事まで予想されていたのだ。帝国とギルドの窓口になってくれている隊の参謀は、帝国への根回しも完璧で審査期間も無い。信頼を置いてくれていると思うよりも、気味悪さや罠を疑ってしまう程の手管の鮮やかさだった。
 流石、帝国騎士団長よりも信頼が厚いとされる騎士団隊長主席の片腕である。
 ギルドならば喉から手が出る程に欲しい逸材だ。感服と警戒を内に秘め、カウフマンは許可証を懐に納めて素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「良いのよ」
 ひらりと手を振ると、オレンジの隊服が薄暗い空間に鮮やかに映える。
 カウフマンは出された珈琲を形だけでも啜ると、目の前の彼女が入れたにしては美味しくないと眉根を寄せる。商人であるカウフマンがそう思えば、脳裏では次々と珈琲豆の銘柄が浮かび味や香りから殆どの高級な銘柄の名前が否定されて言えていく。結局残ったのは、低ランクの安い珈琲豆。以前彼女が出してくれた珈琲は良い豆を使っていたのに、どうしてなのだろう? カウフマンは少し疑問に思い、部屋の中を横目で見回した。
 帝都の下町という市民よりも低い地位の人々の住む場所があるとされるが、ここはそれ以下だ。平民出身で構成されている隊であっても、ここは人の住む為の空間ではない。カウフマンがそう結論するのに時間はいらなかった。
 その様子にヴィアは飲もうとしたカップを置いた。
「商人魂でも疼く?」
 言葉は想像以上に冷たかった。残念だけど、お遊びには付き合っていられないの。そんな意味合いが口調の裏にべっとりとくっ付いていた。
 ヴィアにしては珍しい口調であったという認識はあったし状況も状況だと分かっていたが、カウフマンの心は嫌が応にもざわついた。こちらは遊びではない。生きる為に、豊かである為に、幸福であるようにというギルドの理念の元でここに居る。それを足蹴にするような物言いに黙っていられる程カウフマンは淑やかでも優しくもなかった。
 それを誰と重ねたのか、ヴィアは小さく笑った。口元が優しく綻び、目元が細められる。
「今は駄目よ、メアリー。結界魔導器がちゃんと動くまでは、余計なものにお金を裂く事は出来ない」
 余計なものですって…!? カウフマンは大きく息を吸い込んで吐き出そうとした言葉を、ヴィアの大きな手で遮られた。
 驚きに言葉を飲み下したカウフマンはヴィアを見た。
 ヴィアは拒絶に似た思いを目の前の女性に思いっきり叩き付ける。子供達の生命を脅かす行為を、あたしは一切認めない。怒りであろうが拒絶であろうがソレが表情として浮かび、殺気にまで上り詰めた激情は突風の様にカウフマンに吹きかかり突き抜け、顔に掛かった掌の冷たさが迸りたい言葉を尽く押し返し喉を圧迫して窒息させる。それはヴィアが滅多に見せない騎士としての、戦場を駆け巡った魔導師としての気迫だった。ブランクがあるとはいえ至近距離で放たれた戦士の気迫は、武術の嗜みすら持たぬ人間を気絶させるものだがカウフマンはどうにか耐えた。
 突風の様に一瞬だったそれが甘い微風の様に薙ぐと、手は静かに離れて行った。
 ぷはっと息を吐いたカウフマンの息が落ち着う頃合いを見計らい、ヴィアはからかう様に言った。
「ルブランに手紙一枚くらい匿名で届けてあげるわよ? そろそろ…」
 カウフマンの反応は早く、礼を失する事など気にせず席を立った。
「結構です」
 早々に去って行く背中を、小さく手を振って見送った。こうなる事を見通しての発言だったが、全く、型に嵌めたかの様に毎度同じ反応で良く続くものだと呆れもする。ちょっと嫌な事を突かれたり、無理難題をせがまれそうになると言う、カウフマン返しの秘技だ。ダシに使われている正義感の塊には申し訳なく思ったが、バレる心配は無いのでありがたく使わせて頂いている。
 静かになった室内で背を伸ばし、溜息と一緒に背を丸める。
「…溝が深過ぎるわね」
 神妙に呟くと、外を見遣る。場所を選べば赤く色付く様子が昼でも見える空がそこにある。そんな空が、ダングレストに近いという事を嫌が応にも認識させる。
「こんな近くに境界線が出来ちゃって、どうしようかしらねぇ?」
 境界線とは勿論、ギルドと帝国の間にある線の事だ。
 この都市が建設予定になる前は、帝国領はダングレストから遠いカプワ港だった。その二つの都市の間となる境界線の幅は思った以上に広かったし、その幅に立ちふさがる壁は魔物や環境も相まって厚く互いの組織は物理的な隔たりに干渉が難しかった。勿論、帝国が行ったダングレスト制圧戦、帝国騎士団が払った人魔戦争での犠牲で不干渉が賢い選択と選ばれていた。特に帝国騎士団は人魔戦争直後は皇帝を守る為の親衛隊を解体してまで、不足した人材を補う必要がある程の弱体ぶりだった。
 魔導器が使い物になっても、町としてある程度形にならなければシュヴァーン隊が帝都に帰る事は難しいだろう。同時にギルドも騎士が撤退するならいざ知らず、自分達の犠牲を払っても都市建設に意欲的になる事もない。滞在する騎士もシュヴァーン隊なら、大きな揉め事は招かなければ起きはしない。ギルドと騎士団が目を光らせつつ様子を見続ける時間がそれなりに与えられるだろう。
 だけれど、何時までもそう出来るかといえば、答えは『いいえ』だ。
 いつかはドン・ホワイトホース率いるギルドと戦う事になるかもしれないと思うと、気が重くて仕方が無かった。
 ヴィアはシュヴァーンの正直な報告を非難したが、シュヴァーンは苦笑して『なんとかなるさ』と答えるだけだった。我々が盾になり、最初の犠牲にさせられるだろうに暢気な事だ。
 貴族の部隊が形だけの守護で良くなってしゃしゃり出て来るまでに、この境界線、どうにかしなきゃね。ヴィアは安豆の珈琲を啜り眉間に皺を寄せた。
「幸福の市場…か」
 ヴィアは残った珈琲を一気に飲み干した。
「生きていなければ幸福なんて感じられない。あたしがどれだけの死者を見送って来たか…メアリー、貴方には分からないわ」
 世の中、守られて生きて行く人間というのが居る。それを抱えて守って来たのが帝国だった。ギルドの人間の様に誰もが強く逞しく生きて行ける訳が無く、どこか脆い人々を守って死んで逝った騎士達を見送って来た。好き勝手生きて、好き勝手死んで行く人間の理想などヴィアは知った事ではなかった。
「いけないわね」
 シュヴァーンに叱られるわ。ヴィアはやれやれと怒りを仕舞い込んで、仕事の書類を額に押し付けた。
 帝国とギルドの距離が近づいた。
 人々の感覚で早過ぎた接近だったが、人々の心はいつも通りの距離を保っている。