歩み寄る事の難しさ

 ダングレストは結界魔導器にて守られているとはいえ、周辺は深い森や砂漠に覆われている。そこに潜む魔物は凶暴なものもある。ここに来るギルドは武闘派ばかりではないし、商業を扱うギルドも護衛として武闘派のギルドを雇うが実力あるかは金次第。『魔狩りの剣』が魔物を狩る事が専門とはいえ、治安維持の為の魔物掃討の依頼を毎回引き受けてくれる訳も無い。ダングレスト周囲の治安は必然的に『天を射る矢』が担う事になっていた。
 定期的に行われる周辺の魔物の掃討を終えて来たばかりで、戻って来て直ぐさま杯を上げたい気持ちだった。気の早い連中は出迎えの町の住民達に英雄譚を語り、馴染みの酒場で祝杯をあげている。ドンもいつもならとっくのとうに『天を射る重星』へ向かっていただろう。それなのに『ちょっと用事があるから』と挨拶もそこそこに引き上げて行った。
 腑に落ちない感覚がある。勘が外れた事が無い事は彼自身が良く分かっていたからこそ、酒が入ってその感覚がぼやけてしまうのが危険だと感じていた。
 掃討作戦は今までに無い大成功を納めた。多い時は十数名の人間が死んでしまっている事もあったくらいだが、今回は死者はゼロ。掃討終了も早かった。流石のドンでも最多人数を誇るギルド全員をフォローする事など出来ないし、個々の技量が上がったと思いたかったがそんな事は恐らくない。何かがあるのだ。その何かを、知っておく必要がドンにはあった。
 絨毯の上を歩く足の裏の柔らかさを厚く積もった木の葉かしっとりとした苔に例え、暗がりはそのまま闇に、柱は森に並び立つ木々に見立てる。己の殺気を外に出さず、ただ警戒心を胸から背中の皮膚一枚下にまで満たせる。嫌が応にも心臓はがなり立てる様に粗く脈打ち出し、息が粗くなる。視野が狭まり闇が更に広くその裾野を広げて覆う。
 感覚が捉え出した森の情景に、戦いの音が耳の裏で弾かれた様に響き始めた。記憶が現実を飲み込もうとしている。自分が認識しなくとも『見ていた』部分まで思い出せれば見える様になる。人間は見ていたものを忘れはしない。認識しないだけである。ドンは周囲の環境を思い出し、その時の事を認識しようと記憶を必死に手繰る。
 誰かが誰かにかける声が、その誰かが魔物を打ち倒す為の気合いを高らかに放っていたのを思い出す。
 いい調子だ。ドンは更に歩を進める。
 すると何処からか矢の掠める音が聞こえた。弓矢では生まれる事の無い金属を擦り合わせたかのような、独特な矢の軌道を走り抜ける音。こんな音を耳にするのはどれくらい久々だろうと思ってしまう程で、一瞬どのような弓が生み出す音なのか理解できなかった。歩みを止め集中すると、再度矢が高い音を響かせて通り抜けて行った。
 あまりの密度にドンは自分の長い白髪が数本散った様に感じられる。この攻撃に掛かる気配、『天を射る矢』の人間のものではない。
 ゆっくりと振り返った。足を踏み替えて真後ろに向くと、そこには見覚えの無い弓を構えた男が木の上から戦場を見渡している。あの男が俺が感じた腑に落ちない原因か…。ドンはじっと男を見つめた。誰なのか思い出せない。だが、既視感を感じてならなかった。
 男がこちらを向いた。闇に溶けてしまうようだと思ったが、その男は黒髪で浅黒い肌の男だ。片方だけ見える瞳は鮮やかな碧。足下まで届くのだろう厚い外套の下に、長い何かが僅かな光を受けてちらりと光る。男が僅かに笑った。白い歯が三日月の様に細く目映く光る。
「隊長が昔教えてくれた事がある。白い巨漢と機嫌の悪い女房には近づくな…とね」
 ぱっと茜色が飛び込んで来た。
 光にちりちりと痛む目を細め、窓から見えるダングレストの夕日と男を認める。僅かに開いた窓から夜風が流れ込み始めた。自分が集中して引き出した記憶の場所と同じ位置に、真っ黒い男が立っている。まるで古い友人が話してくれたレーヴァンのようだ。今の発言を真実と捉えるなら、なるほど、確かにレーヴァンに相応しい悪戯心だ。
「こそこそ動き回っていたのはテメェか?」
 ドン・ホワイトホースが問うと、真っ黒いレーヴァンは一つだけ見える碧の瞳を瞬かせた。
「俺の他に居るとしたら、そいつは相当の手練だな」
 抑揚の欠いた生真面目極まり無い口調だ。
 先程『隊長』と言っていたのだから目の前の男は騎士に違いない。その隊長と自分は面識がそれなりにあるのか、それともその隊長はダングレスト制圧戦に参加した事のある古くから居る騎士なのだろう。鋭い視線を向けつつ、ドンは油断無く思考を巡らせていた。
 真っ黒い男は体を外套の内に隠し、服の金具やベルトに括り付けた短刀を星の様にちらつかせている。時折身じろぎすると、長剣が流星の軌跡の様に光を上から下に流す。男の髪も肌も黒いので、なぜ片方なのか良く分からないが碧の瞳は一つしか見えない。外套から少しだけ外に出した左手には、剣に変形するという変形弓が握られている。変形という利点で二つの武器の特性を持つが、耐久性は使い手の技量によって雲泥の差と言わしめる程に変わる。変形機関に関わる部分が非常に弱いため、受け止める動作や切る際の角度には細心の注意が必要だ。弓として用いるのも、剣として用いるにも、熟練した技量が必要である。実際に数あるギルドで使い手を探したとしても、お目にかかる事は簡単には出来ない。
 ドンは騎士団の事にはあまり詳しくはない。団長がアレクセイという若者である程度だ。今はそれが悔しく思う。
 目の前の男の実力は相当のものだ。髪を染め鎧を脱いでいても、不得手な武器を敵陣で持つ事などする事は無い。特徴的な武器が扱える騎士も限られ特徴も挙げれば、少し調べるだけで男がどのような地位に居てどんな名前の騎士かも簡単に分かるだろう。だが、問題はそこではない。問題とするべきは、騎士団はそれほどまでに優秀な人材を確保し手元に置いているという事実だ。
 ダングレストの近くに帝国は新しい都市を造ろうとしている。
 再び相見える事になるだろう宿敵は、着々と力を取り戻し自分にその力の一端を見せているのだ。宿敵の復活の喜びと戦慄が背筋を駆け上った。
「何故、ギルドに味方した?」
 ただの偵察ならば、目の前の男が矢を放つ理由は無い。死者一人でなかった掃討作戦の成功は、彼の陰ながらの助太刀があったからだとドンは思った。
 男は初めて表情に感情を出した。それは見間違えようも無く、驚きだった。
「帝国の法から外れていても、命は命。死ぬのを黙って見ているのは、騎士として恥ずべき行為だ」
 一つ呼吸を置いて男は神妙な口調で続けた。
「最強のギルドと聞いていたが、良く言えば獅子奮迅、悪く言えば猪突猛進。もう少し状況を見渡せる人材が居なければ実力ある者でも命を散らす。ギルドは仲間を家族と見なすと聞いているから、逆に問いたい。本意ではないだろうに、何故そのような戦い方をする?」
 逆に問われるとは思わなかったと、ドンは内心舌を巻く。
 この男は本当に優秀な男だと、ドン・ホワイトホースは認めざる得なかった。魔物の掃討に参加した人数は決して少なくはないだろうに、そのギルドに現れる戦い方の方向性を看破している。その上で彼は状況を見渡し、時に魔物を射殺し、時にギルドの人間を誘導して応援に向かわせるなりして確信するまでに至ったのだろう。騎士ならば利益など得ないのに、見殺しには出来ないと法律を捨てた人間を命として救うと言って退ける。
 帝国も捨てたもんじゃ無くなって来たってか。ドンは困った様に顎を擦ってみせた。
「奴らは俺を信じ過ぎているんだ」
 ダングレスト最強のギルドと言えば、誰もが『天を射る矢』を挙げるだろう。人員もギルド史上最多人数であったし、ギルドの英雄ドン・ホワイトホースが首領である組織だった。帝国騎士団が行ったダングレスト制圧時には、反撃の機会を窺うギルドを纏め上げて騎士団を追い返した過去は誇り高くギルドに属する人々の胸に宿っている。その前から頭角を現し実力あるギルドを率いていたが、騎士団と互角に渡り合った実力は生きながらにドン・ホワイトホースを伝説のようなものにした。
 だが、ドンは人間だ。切られれば怪我をするし、いつかは死ぬ。
 しかしギルドの人間にはそれを正面から見る人間は居なかった。ダングレストの住人も数あるギルドの誰もが、ドン・ホワイトホースに依存して来る。血気盛んで協調性が無いの者の集まりをユニオンとして纏められるのも、偉大なる首領として君臨するドンの存在あってこそ。盲信に近かった。危険と思いつつ、手っ取り早いとドン自らがそうなると分かりつつ続けて来た事は、ユニオンもギルドも自立しない今という結果を向かえている。
 ドンは初めて口にしたのだろう憂いの一端に、どうしてそこまで目の前の騎士に話してしまったのか逆に不思議だった。
 質問されたからだ。しかし、答え方はもっとあった筈だとも思った。
 ふむ…。黒い男は黙り込んだ。
 沈黙は少し長く感じる程だったが、男は視線を上げてドンを見た。
「シュヴァーン隊はギルドと諍いを起こすつもりは無い。まだ、時間はあるだろう」
 生真面目な男だ。なんと騎士らしい。ドンは笑った。
 シュヴァーン隊、そんな名前の隊が居た事すら知らなかった。隊の方向性を判断し宣言するのだから、目の前の男はその隊の幹部か隊長でもやっているのだろう。いや、きっと隊長だ。部下が勝手に判断する事は騎士団として許されるものではない。
 しかし、それを差し引いても『まだ、時間がある』とは丁寧な事だ。恐らく、目の前の隊長は帝都の皇帝か団長の命令が無ければ、ギルドと戦うつもり無くのらりくらりと諍いを避けて行くつもりなのだろう。戦えば互いに尋常ではない被害が出る事を分かりきっているのだ。だからこその偵察で、自分の目で見た事を信じる気質はギルドに寄っているだろう。
 騎士団なんかに勿体ねぇ男だ。ドンは黒い騎士を見上げた。
「世話になっちまったな、シュヴァーン。いつか、礼に酒でも奢らせてくれや」
「タダより高い物は無い。言葉だけ、頂く」
 では、失礼。そう呟けば僅かに開いた窓が揺らぎ、シュヴァーンは飛び立つ鴉の如く去って行った。
 帝国の騎士とこんなに親しげに話した事は無かったと、ドンは彼が去った後の余韻の爽やかさに驚いた。誠実で真面目な気質に、端々に見える思いやり、そして先を見る聡明さ。話した内容など決して親しげだとは思えなかったが、相手の雰囲気は親しみやすさを持つ柔らかさがあった。あいつとなら上手くやれそうな気がする。しかし、歩み寄るのは難しいに違いない。
 それにしても…と、ドンは唸った。
「確かに機嫌の悪いカミさんに近づくのは得策じゃねぇなぁ」
 騎士共も人間。大した格言じゃねぇか。
 ドン・ホワイトホースは笑った。久々に心の底から。