空に誘う鴉

 ハリーはいつもの様にダングレストの大通りを歩いていた。目指すはドンお気に入りの酒場の一つ『天を射る重星』に今日入荷する予定のお酒である。
 もう少しで二桁に届く齢のハリーだが、彼が住んでいる場所はユニオン本部に近いドンの自宅。ユニオンの幹部でさえ出入りする事が珍しい場所に住む少年は、あの偉大なるドン・ホワイトホースの唯一の身内である。祖父としてのドンもまた偉大であったが、まだユニオンの仕事を実感する事の出来ないハリーにとってドンは祖父だった。そんなハリーの祖父が好きな酒の銘柄を買って来いと言われたのは、いつも言う事が急の祖父らしくほんの少し前の事。
 ハリーは見慣れた夕暮れのような色合いの昼間の空の下、石畳の上を軽やかに進む。
 ダングレストの子供の殆どがこれが昼間の空だと思っている。ハリーも青空というのを見た事は無いが、ダングレストの外の世界では昼は青空である事は知っていた。何時聞いたのか、誰から教えてもらったか覚えていないが、それを知った時周囲の友人からは嘘つき呼ばわりされたのは覚えている。
 今でもたまに青空の話をすれば、反応は様々だが馬鹿にされる。
 同年代のガキは笑いながら『馬鹿じゃないの』と嘲笑う。
 年上の大人達は『ドンに聞いたのか?』と、流石は偉大なる祖父を持つと違うなと揶揄される。
 どちらも相当気に入らなかった。両親と死別したハリーには相談できる身内は祖父しかいなかったが、小さく芽生えた反抗心は祖父に相談させる気持ちすら手折っていた。それでも祖父に頼られるのは嬉しい。ハリーは久々に、焦燥感から来る苛立ちが晴れているのを心地よく感じていた。
 目的の酒場の前に辿り着き、そっと中をのぞく。いつもと変わらぬ、ダングレストの雑踏とは違う賑やかさを持つ空間がそこにあった。
 テーブルにはそれぞれ親しい人間が大声で語らい、無造作に置かれた武器防具の類いは使い込まれているのがハリーにも分かる。飛び交う注文のオーダーを雑談が容赦なく遮る事も良くある事。子供一人飛び込んでも誰も気に留めやしない。『天を射る重星』の常連達の視線をくぐり抜け、いつも賄い食を分けてくれるウェイターの男に軽く挨拶しながら、ハリーはカウンターのマスターの前に辿り着いた。カウンターにぺたりと両掌をくっ付けて力を込め、木製のスツールによじ上る。初老のマスターも小さい客人に愛想良く白髪の髭を蓄えた口元を緩めた。
「いらっしゃい、ハリー。今日は何用だい?」
「じいさんに、お酒を買って来るよう頼まれて来たんだ」
 続ける様に、ハリーは銘柄をマスターに告げる。
 幼い頃からハリーを知るマスターは、いつの間にかハリーが祖父であるドンの事を『じいちゃん』から『じいさん』と呼ぶ様になった事に気が付いた一人でもある。子供が大人になりつつある過程の変化と思えば良いが、いま一つ不安が拭えないとハリーを気遣っていた。そんなマスターはハリーから言われた銘柄の酒瓶を探して『すまん』と向き直った。
「たった今、最後の酒瓶が売れた所だったんだ」
 あの客が買って行ったんだよ。と入り口を指差すと、出口にはダングレストの赤い空を抜き取って真っ黒にしたような、大きな黒い影があった。
 ハリーは椅子を蹴って駆け出した。背後でマスターの静止の声と椅子が倒れる音が、周囲の客の笑い声に薙ぎ払われて届かない。ハリーは何故かその黒い大きな影が気になって仕方が無かった。それは勘である。どちらかと言えば慎重な考えと行動をするハリーだが、己の勘だけはどんなに無謀だろうが従う方だった。
 扉を開けて、視界いっぱいに広がった茜色の空と建物の黒々とした影に目を痛める。ぐらりと傾いで踏み外しそうになった小さい段差を飛び降りると、まだ安定しない視界の中で無数の黒い人影から先程の酒瓶を買った人物を捜す。痛い目と情報の足りなさ過ぎる影の形だったが、ハリーは勘に従って走り出した。東の方へ。
 黒い影と赤い日向が目紛しい勢いで前から後ろに流れて行く。
 酒場のカウンターと入り口程度離れた位置からのスタートだったというのに、実は相手の行く先を見誤ったかとハリーは心の隅に不安が浮かび始めた。全速力の駆け足が石畳を蹴る音が遅く感じ、もっと早くもっと速くと呼吸を荒げて先を急ぐ。このまま先へ走れば良いのか、それとも引き返そうか吐く息と吸う息の感覚並みに目紛しくハリーは迷う。それでも引き返しても追いつかないならこのまま追おうと歯を食いしばる。
 ハリーが居た、と内心思う。追いかけていた相手も、何事かと振り返れば碧の瞳がハリーを見下ろして来た。
「少年。どうした?」
 驚きを滲ませながらも、旅人にしては刺の無い落ち着いた低い声。振り返りフワリと広がった外套は、赤い日向の中で翼を広げ畳んだ鴉の様に黒く大きく影を落とした。ボサボサの髪を後ろに緩く結っていても、顔半分に多めに落ちた前髪に碧の瞳の一つが見え隠れする。色黒い肌にくっきりと刻んだえくぼの横に、真っ白い歯が三日月の形をしている。
 どこかで見た。そんな思いに体をぎくりと強張らせたハリーは、男の前で立ち止まってずるずると視線を下ろして行く。
 いきなりなんなんだい、そう言いたげな男はハリーが釘付けになっている酒瓶の形に膨らんだ麻袋へ目をやった。厚い外套の影に隠れているが異様に膨らんでいるそれは隠しようも無く、赤い日向の光にゴツゴツと自己主張するかの様にはみ出ている。男が疲労の見え始めた部下達へ労いの為に買い込んだ酒であるのだが、あまりの量にかなり異常に人々の目に映るだろう。
 碧の瞳の男は黙ってハリーを睨みつけていたが、梃子でも動きそうも無く立ちはだかる様子に小さく嘆息した。
「本当に欲し物であれば、確実に手に入れるよう根回しするんだね…。例えば、予約するとか……な」
 そう言うが早く、男は『ほら』と麻袋から取り出した酒瓶を差し出した。ハリーが受け取らないのを見ると、『これか?』『これかな?』と面白いくらいに麻袋から様々な酒瓶が出て来る。路地裏の片隅ですっかり露天の様に広がった酒瓶の一つを、ようやくハリーは手に取った。文字を目で追うと、祖父が頼んだ酒で間違いないとホッとした表情を見せる。年相応の顔を男が優しく見ていたが、ハリーが瓶から視線を戻す前に顔をそらす。
 かちゃかちゃと音を立てて、それでも慎重に酒瓶を麻袋に仕舞い始めた。それでも動かないハリーに、男はわざとらしく明るく言った。
「じゃあね。少年」
 多数の硝子瓶がぶつかる派手な音を立てて男は麻袋を背負い直す。男の服装はゆったりした衣だったが、腕を上げた事により外套の影に大きく日向が射し込んだ。彼の腰回りには短刀や長剣、そして変形弓が括り付けられていた。手練の戦士でも必要以上に武器を携帯しないのはハリーだとて知っている。つまり、目の前の男は今見ている武器全てを扱えるという事なのだ。
 祖父であるドン・ホワイトホースでさえ手にするのは長刀一本だけだ。
「おっさん」
 ハリーは瓶を持ちながら碧の瞳の男を見上げた。やはり何処かで見た記憶がある。必死に記憶を手繰って目の前に来たと思って掴もうとしても、それは風にひらひらと舞う羽の様に手から逃げてしまう。
 男は顔を苦い物を食べてしまったかの様に歪めると、『…なんだ?』とようやく聞き取れる声で返事をした。
「強いのか?」
「まぁ、それなりに強いかな」
 男は曖昧に笑った。
 しかし内心は子供相手と構い過ぎただろうかと、冷や汗をかく。彼は騎士団の中でも屈指の実力を持つ隊長で、人に指導すらする立場で『それなり』などと言う話ではなかった。それでも彼の頭の中には自分の強さ云々よりも、ダングレストの子供に騎士団の人間だと勘付かれたのかという事の方が大事だった。武器の全ては街の武器を扱う場所で手に入る物を揃えたが、変形弓だけはなかなか店先で見つけられず騎士団から持ち出した物だ。紋章は入っていないが、『魂の鉄槌』の人間が見れば帝国騎士団に卸された品だと分かってしまう。
 先程のおっさんという言葉に、否定できなくなった年齢になったという凹みも手伝いマイナス思考になってはいると分かっている。しかし、返事次第では最悪口止めも必要になる。
 子供相手なら誤摩化しが利くだろう。だが、最低ギルドの人間に知られる前に逃げる時間だけは稼ぐ必要がある。しかし、騎士団に属しているというだけで、何故こんなにも逃亡者か罪人の様にこそこそとする必要があるのだろうか…。それでもギルドと関わる事は今は極力避けるべきで……
「青空ってあるのか?」
「…は?」
 男は考えを遮って放たれた少年の言葉に目を丸くした。
 見下ろせば真剣過ぎて顔を真っ赤にした少年の顔がある。昔、この子に似た幼い子供に青い空の話をした時とても喜ばれたのを思い出し、ダングレストの子供は確かに青い空など知らないのだろうと納得する。赤い日差しの中、男はハリーの前にしゃがみ込んで同じ視線の高さに合わせる。
「あるよ」
 麻袋を持っていない手で、ぽんと頭に触れる。
 その手はゴツゴツとした手で、剣を持つ場所に出来る場所以外にも沢山の胼胝があって掌全体が厚く祖父の手の様に思えた。そして、腕に絡み付いた外套の影が日向を黒く塗りつぶす。
「とても奇麗だから、大きくなったら見に行くと良いよ」
 にっこりと微笑まれ、ハリーは恥ずかしさに真っ赤になって駆け出してしまった。あんな表情で青空を肯定された事は無かった。大きくなったら見に行けなんて、そこまで言ってくれる人などいなかった。あの真っ黒い男のハリーが青空の下に立てると信じきっている様子には、何とも言えない思いに胸がいっぱいにさせられる。
 いつか見るに決まっている。俺はドン・ホワイトホースの孫だ。父親も母親もりっぱなギルドの人間だ。高鳴る鼓動も五月蝿いくらいで、光が焼き付いてよく見えない目の向こうに青空の下に居る自分を描く。現実的な考えが簡単にできる訳が無いとがなり立てるのに、男の向けた笑顔が空想と期待を否応無しに膨らませた。もう太陽よりも大きかった。
 夕焼けの頃合いに悪戯する鴉。今回の悪戯は最悪以外何物でもない。説明なんてどうしろというのだ。ハリーは家路を目指しながら、男の正体が分かった気がした。
 祖父が昔話してくれた、レーヴァン。レイヴン。
 きっと今頃、青空の下で真っ黒い影が笑っているに違いない。
 事の顛末を知った祖父に大笑いされたハリーは、男を心の底から恨んだ。