これからも

 突如降り出した土砂降りの雨が窓硝子を執拗に激しく叩いている。
 外へ買い出しに行った殆どの仲間は、何処かで雨宿りして雨が少しでも止むのを見計らって帰って来るだろう。フレンは目の前で変形弓の整備を鼻歌まじりでしている同室のレイヴンを見る。それでもフレン自身も鎧の清掃で篭手の部分を分解しようとしているので、あまりよそ見など出来ない。
 小さい工具箱から次々と工具を取り出して、全て分解して変形弓の細部まで清掃整備する人間など騎士団でも見た事がない。分解された弓は奇麗に並べられ、ベッドの上には変形弓の形に分解された部品が置かれている。流石に分解した部品を混ぜる事は出来ないのだろうと、大雑把なレイヴンでは見せない行動はやはりシュヴァーン隊長なのだと思った。
 背中を丸め顔を部品に精一杯近づけて目を細め集中している様子が少し和らいだのを見計らい、フレンは声を掛ける。
「シュ…レイヴンさん、工具貸して頂けますか?」
「フレンちゃん、舌噛むからいい加減慣れなさいね」
 はいはい、どうぞ。そう言って差し出されたのはレイヴンの使っている工具箱ではなく、彼の荷物から新たに取り出された小さい工具箱。大人の両掌に収まる程度の大きさでありながら、中は帝国騎士団の詰め所に置かれているような鎧の分解に必要な工具が収まっている。所謂遠征用の工具小箱だ。騎士の鎧は重装備で守備力が高いが、こまめに分解清掃まで行わないと任務に支障を来す。特に指先まで覆う篭手は、一日一回でも欠かせば関節部分に堪った埃や水分で詰まったり錆びたりして動かせなくなるのだ。
 うっかり工具を忘れて来たフレンは、こうして毎日の様にレイヴンもとい帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインに工具を借りては整備をしている。早く自分用の工具を取り寄せるなりして迷惑を掛けぬ様にしなければならないのだが、嫌な顔一つせず工具を貸してくれるのに甘えてしまっている。
 フレンにはこのような日が来るなど想像もできなかったし、それを許してくれているのを心地よく感じる。噂違わぬ存在に、騎士達が好いていた理由を実感していた。
 互いに無言のまま整備している室内は、かちゃかちゃと金属が触れるような音が続く。時折強い風が吹く音と、強く窓を打つ大粒の雨の音が響いた。それがどれほど長く続いたという頃合いだったろう。廊下を進む軽やかな足取りが、彼等の部屋の前で止まった。フレンが顔を上げると同時にレイヴンの声が静寂に浸されていた部屋を打った。
「入んなさい」
 ノックも無しに開いた扉の向こうで、雨水を滴らす外套を脇に抱えた青年が立っている。明るい榛色の髪と深い同色の瞳を持った青年はフレンよりも年下で、無邪気に笑いながら室内に入り音も立てず扉を閉めてから軽く頭を下げた。レイヴンはにこにこと青年を迎えると、ベッドの上に並べた変形弓の部品達の上に紫の外套をふわりと掛けて立ち上がる。部屋に備え付けられていたタオルを手渡すと、レイヴン自身がドアノブに手を掛ける。
「珈琲入れてあげるから、体拭いておきなさいね」
「はーい!ありがとうございまーす!」
 宿屋の台所を借りるつもりなのだろう。レイヴンはいつもの軽い足取りと鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。青年もにこにこと見送る。
 レイヴンの客人らしき青年と二人きりになり、ユニオンの関係者だろうかとフレンは青年を見る。すると青年はフレンに体を向け姿勢を正し、右腕を水平にし胸に当てる騎士団特有の敬礼をする。先程まで張り付いていた無邪気な笑みは消えて、生真面目な青年の顔がそこにあった。若干潜められていたが聞き取りやすい声で言う。
「フレン代行、お務めご苦労様です」
「君、もしかしてシュヴァーン隊の騎士なのか?」
 青年は騎士団の鎧を着ていない。旅人として良く見かけるようなありふれた服装と、剣と鞭とカロル程ではないが大きい鞄を腰に下げている。ましてやシュヴァーン隊のイメージカラーであるオレンジの色彩の物は何一つ身に付けていない。しかし訓練された敬礼や所作は紛れもなく騎士団の人間である。それを裏付けるように、フレンの問いにはっきりとした口調で青年は返した。
「シュヴァーン隊、情報伝達部隊『流星』のレテンと申します」
 なるほど。フレンは一瞬にして事情を把握した。
 シュヴァーン隊は外回りの部隊が非常に多い事で有名で、隊長であるシュヴァーンですら帝都になかなか帰還する事はない。その為独自に情報収集と伝達と解析を行う星に準えた部隊を擁し、その隊長は参謀であるヴィアが担っている。情報を扱う部隊の騎士は一般市民と変わらぬ格好をして人々の中に溶け込み、情報を集め、伝え、任務中の騎士達の報告を代行するなどするそうだ。騎士団では存在するらしいが見た者など皆無とすら言われている部隊で、シュヴァーン隊の特異性を隊長と同じく引き立てる存在となっていた。
 挨拶もそこそこに『失礼』とレテンと名乗った青年は外套を壁に掛け、濡れている顔や足をタオルで拭う。騎士団団長代行とはいえ、レテンの直属の上司はシュヴァーンなのだ。隊長命令は絶対だったし、フレンも土砂降りの雨の中やって来た相手にそれを咎めたりはしない。
 程なくしてレイヴンが3人分の珈琲と珈琲を入れたポットをお盆に乗せて戻って来た。砂糖やミルクの入った小瓶も、人数分の匙も忘れない。お茶受けは様々なクッキーが乗った皿だったが、甘いのが苦手なレイヴン用にユーリ曰く全く甘くないジンジャークッキーが少しだけ乗っている。レイヴンは『少し息抜きしようよ、フレンちゃん』とにこにこと手招きして、フレンをテーブルに付かせた。
 シュヴァーンの部下は無邪気な笑顔を張り付けて荷物の中から皮張りの箱を取り出す。赤い魔核の光る魔導器の上に手を翳し術式が浮かぶと、ぱかんと箱が開く。実はシュヴァーン隊が作り出した機密文書運搬用の箱で、強引に開けようとすると魔導器が反応して箱の内部を焼き尽くす構造になっている。珈琲がそれぞれの前に置かれた時には、書類の束と筆記用具一式がレイヴンの前に揃えて置かれていた。
「宜しくお願いします」
 ヴィアの機嫌でも悪いのだろう。ルブランが指揮している筈の遊撃隊の運営についての指示も含まれて、今までの定期報告の量を考えれば多いくらいだ。
 そんな事を思いつつレイヴンが珈琲を一口啜ると、書類を一枚手に取った。
 書類の内容は全て暗号化されていて、フレンには何が書かれているのか皆目見当もつかなかった。ただ、レイヴンがその暗号文を読む速度は速く、ぱらぱらと書類を捲り、時折暗号文と同じ形式の文章で書き加える文字は美しく早い。承認として書き込まれる名前は全てシュヴァーン・オルトレインであり、碧の冷静な眼差しとその仕事の手早さにフレンは息を飲んだ。承認と修正を書き加えた書類は次々と重ねられ、レイヴンは最後の一枚を手に取って嬉しそうに目を細めた。短く書き込みを入れると、顔を上げてフレンを見る。
「ほい、フレンちゃんも見な」
 にやりとレイヴンがする笑顔を浮かべると、その最後の一枚をひらりとフレンへ手渡す。
 一瞬の逡巡の後受け取った書類は、暗号化されていない人事報告書。シュヴァーン隊に所属する女騎士と、フレン隊に所属する騎士が婚約する旨が書かれていた。余白の部分には誰が描いたのか花嫁花婿の似顔絵と、多くの書き込みがある。結婚おめでとうという祝辞から、先に結婚しやがって羨ましいじゃねぇかちくしょうという野次まで様々だが、二人の結婚を祝福する想いに溢れている。
 結婚式の日程は調整中と一言だけ書かれていて、早く決めろと誰かが書き込んでいる。
 フレンが報告書を読んでいる間に、レイヴンは楽しそうにレテンに話しかけていた。
「あっちの調整はソディアちゃんかしら? こっちの調整はベテラン配置して、ソディアちゃんにもお仕事の仕方伝えてあげるのね」
「そうしてるんですけど、なかなか上手く行かないようで…」
 レテンが少し申し訳なさそうに声のトーンを落として言う。それを見て、レイヴンは苦笑した。あのガチガチにお堅い女騎士に、任務とはあまり関係ない事柄を頼みやらせるのは少々酷な事なのかもしれない。それでも、騎士団とはいえ人の集まりというものは、任務や高い理想だけではどうにもならぬもの。極普通の営みの中の幸せが必ず必要になるものだ。
 いつかは分からないが、悪い子ではないのだ。理解するだろう。レイヴンは小さく笑って、目の前で何かを言いたくて仕方なさそうな団長代行を見る。
「フレンちゃん。自分が率先して仕事しようとすんのは良い事だけど、部下を信用して仕事任せられる様に育ててあげるのも上官のお仕事よ」
 真っ青な青空のような瞳が見開かれる。やはり、彼自身が乗り出そうとした事を見抜かれた事に驚いたのだろう。表情に簡単に出て、まだまだ若い子ね。
 それでも、こう自分が言えるのは良い事だとレイヴンは思った。アレクセイは何でも自分でやっていて、あまり部下に仕事をさせない男だったからだ。畑違いな事や自分ではどうにも出来ない事柄をシュヴァーンに任す事は度々あったが、それでも自分の手の届く範囲の事は全て彼自身が抱え込んで仕事をしていた。大変な事で他人に任せられぬ事が多かったのは事実だが、それら全てを処理してしまう程優秀な人であったのは事実だが、それでもと心の何処かでは思ってしまう。
 逆に、ドン・ホワイトホースは何でも他人に任す男だったが、決定権は全てドンが持っていた。ドンが決定権を譲渡するに足る存在が、信頼する極僅かな幹部でありレイヴンだったに過ぎない。
 どちらの方法でも、どんな思惑があったにしても、どちらの組織も今は火の車だ。
 『頑張んなさい』と斜に座るシュヴァーンの部下に言いながら、レイヴンは少し冷めてしまった珈琲を啜った。
「シュヴァーン隊長」
 レテンは書類を片付けながら、碧の瞳の男が自分達の隊長であるのを確認して言う。
 今は名前を変えて、姿を変えて、生きる場所も異なる人としてそこに居ても、探す面影は一声名前で呼べば浮かんで来る。聞いていない振りをしてそっぽを向いていても、聞き耳を立てて己の言葉を待っている。演じる事も容易く、無視だって簡単にできるのにしない不器用さは相変わらずだ。
「ちゃんと、来て下さいね」
「シュヴァーンが部下の冠婚葬祭に欠席した事は、今までなかったつもりなんだけどね」
「嘘ばっかり」
 レテンの鋭い言葉に、明後日の方向を見ながら聞いていたレイヴンが只管困った様に笑う。
 レイヴンとして忙しかったのもあったが、シュヴァーンが忙しかったのは隊の誰もが知っていた。隊長は冠婚葬祭の場には姿を現す事は稀極まり無かったが、それでも祝福の言葉や追悼の意を記した手紙は欠かさなかったし、どれだけ遅れても彼等の前に現れて挨拶を述べた。他の隊長にはない優しさに溢れる隊長を悪く言う人間など、シュヴァーン隊には誰もいなかった。それでも最高の瞬間に祝って欲しかった。それでも最後に見送って欲しかった。シュヴァーン隊長に言わなくとも、その思いは誰もが密かに秘めていた。
 部下の姿をもっと見て欲しい。それはシュヴァーン隊隊員全員の小さい我が儘だった。
 困った様に笑うシュヴァーンから、レテンはフレンに向き直り頭を下げる。
「フレン代行、レイヴンさんの事宜しくお願いしますね」
「そんなにおっさんは頼り無いかなぁ」
 レイヴンはジンジャークッキーを頬張る。レテンはそれを見ながら呆れ顔で続けた。
「シュヴァーン隊長に比べたら、面倒だとは思いますよ。代行にお世話になってる身なんですから、あんまり苛めちゃ駄目ですよ?」
「失礼しちゃう!」
 唇を尖らせふいっと顔を横へ背ける。フレン代行を巻き込む事が計算され仕組まれていたのだと、ようやく気が付いたのだろう。
 レテンは無邪気な笑みを張り付けて『失礼しました』と頭を下げる。
 隊長、もう隠す事は無いですよね。今、目の前に居る隊長が本当のシュヴァーン・オルトレインなんですよね。
 だから、これからも宜しくお願いしますよ。