たぶん 鬼ごっこ

 吐く息も吸う息もタイミングを逃して何度も胃に飲み込んでしまっているようで、苦しくて胸が押しつぶされそうだ。
 久々の全速力に全身の筋肉が悲鳴を上げる。その速度は速く、町並みは風に拭き流されている様に過ぎ去って行く。彼の背後に追っ手の姿がなかった。
 しかし、止まる事は出来ない。なぜか男は人数最多ギルド一同に追われている身なのだ。
 理由は走りながら考える。ダングレストへ向かう際に、ボロボロになっていた何処かのギルドの人間らしき奴を拾って宿屋に放り込んだりした。色んな店のツケが堪ったりもして、天を射る重星ではタダ働きまでして来た。幸福の市場に商品交渉してかなり値切った。この前相談に乗ったお嬢さんは、とあるギルドの幹部の愛人だったとか、奥様だったとか。迷子の子供を街の大通りまで案内してあげた。なんだ、特に追われる理由もないではないか。
 しかし、追われているのなら逃げておくに限る。
 男は自分の身の軽さと、いざという時の火事場の馬鹿力を信じて歯を食いしばった。
 懇意にしている酒の卸売り問屋の倉庫の裏口の前を通る道だ。知らず知らずのうちに知っている道を選んでしまったのだろう。このまま進んでしまうと見通しの良い道に出てしまい、容易に進路が推察されてしまう。男は進路をどうするか直ぐさま思考を巡らす。弾き出された進路へ足を向けようとした時、男からは親指程度の大きさに見える倉庫の扉が開いているのが見えた。中から買い物の為に顔見知りになった酒屋の店主の顔が覗き、手がひょいひょいと手招いている。男は速度を落とさず飛び上がり、身をわざと低くしてくれた店主の真上の扉の枠に足を掛けて制動を掛ける。全速力の勢いが足に掛かり、バランスが勢いに引かれてしまうのをどうにか堪える。
 く…っと息を詰めたのと、店主が扉を閉めたのはほぼ同時。
 扉に押される形で、男は倉庫の扉の内側に崩れ落ちた。数回深呼吸する間に一枚板を隔てた向こう側を、何人もの人間が通り過ぎて行く音が響く。音が全部通り過ぎたのを聞いて、男はようやく緊張を解いた。横たわった体の力を抜き目を閉じる。いつもは冷えがちな体が燃えるように熱く、想像以上にキツい連続した運動を強いられているのだと感じる。
 ぜいぜいと粗い呼吸が落ち着かない男に、にやにやと笑っていた倉庫の主は言う。
「レイヴン、天を射る矢と楽しんでるじゃないか」
 男が名乗ったつもりもないのだが、真っ黒な男は鴉のようでいつの間にか誰かが彼をレイヴンと呼び始めた。男も訂正するつもりも無いのか、レイヴンと呼べば返事をする。
「どう見れば、そう見えちゃうのかな!」
 片手を挙げて挨拶代わり。店主が言った一言に、レイヴンは必死に言い放つ。
 まあまあ、落ち着けや。店主はそう言って、ひょひょいと酒瓶をレイヴンに差し出した。ぱちくりと瞬く碧の瞳の前にラベルを見せる様に傾ける。
「ほれ、水分補給」
「酒で水分補給させないでくれよ」
 レイヴンはへらりと笑って酒瓶を受け取った。とぷんと滑る様に重い液体が瓶の中で泳ぐ様に比重を変えるので、レイヴンは思わず両手で持ち直して見直す。酒好きが見ればなかなか味が良い事で評判のある銘柄で、手に入れるには骨の折れる代物である。懐の財布をひっくり返して全部渡しても足りそうにないが、とりあえず金袋の中身を裏返して有り金全部店主の掌にぶちまける。
 いつもなら渋々ツケにしておいてやろうという、店主の顔が気味が悪い程爽やかだ。レイヴンは嫌な予感に背筋が冷える。
「残りは要らないぜ。この前の菓子は本当に美味かったからな」
 あのスフレかと錯覚するような口の中でとろけるようなスポンジに、蜂蜜香るクリームのミルクの濃厚さは意外にあっさり。素材の味が相殺されずに融合し、甘過ぎない為どのお茶でも良く合う。幸福の市場に聞いてもそんなロールケーキ聞いた事も無いとくれば、お前さんの知り合いの手作りだろう? 店は何処なんだ? いやぁ、本当に美味しかった。あんなロールケーキ食ったの初めてだよ。そんでだなぁ……。
 目の前で一方的に話す内容に、なんの事かとレイヴンは首を傾げたが何の事は無い。ちょっとお裾分けをしただけだ。
 しかし、目の前で少し前に自分自身が作ったロールケーキの話をされると、どうにも味見の為にも少し舐めた甘いクリームやスポンジの味を思い出す。何気に好評で作って欲しいと希望が絶えない。聞き流してはいるが、特に甘い物好きのあの御方が俺にも作って欲しいとうんたらかんたら言っている声が聴覚の片隅に引っかかた気がした。
 甘い物が苦手なレイヴンは喉から競り上がってきそうな甘い香りに、さっと立ち上がって店主の言葉を遮った。
「そらよかった。気が向いたらまたお裾分けに来るよ。休ましてくれて、ありがとさん」
「あ、おい…!」
 店主が言葉を続けようとしたのを無視し、がちゃんと重い扉を開いて閉める。ふぅ…とレイヴンは赤い空を見上げ溜息をつく。まだまだ夜が来るのも先のようだが、夕焼けに似た世界の影は濃く黒い外套も上手く馴染んでくれる筈だ。
 レイヴンはゆったりとした足取りで街の出口へ向かう。
 一時的に酒屋の倉庫に匿ってもらえたのは本当に幸いであった。追跡していたギルドの人々は追うべき相手を見失い、ダングレスト中に散ってしまった。レイヴンが追跡されるので恐ろしかったのは面での追跡。面が崩れ点になった今、追っ手を避けて街を行くのは簡単な事であった。縫う様に裏路地を行き、時折気配に身を潜めて、顔なじみに軽く挨拶して今回の騒動をからかわれる。なぜか話題はロールケーキの事が多い。気分も持ち直して来て、足取りが軽くなって来た。
 すると周囲の物音に集中していたレイヴンは、五月蝿いくらいに鳴く猫の声を聞いた。
 にゃーお。にゃーお。にゃーーーお。
 これでは集中力が削がれる。一体なんなんだろう? レイヴンは猫の鳴く方角へ向かった。しかし、数歩歩くと鳴き声の元を通り過ぎてしまうようで、ぐるっと周囲を見回す。極普通のダングレストの裏路地は建物の隙間が狭く、真上から日差しが入り込まず影が濃い。さらに遠くの明るい日差しに目を焼かれて、真夜中よりも暗い。視覚が役に立たないとなれば聴覚に頼るしかない。そろそろと手を鳴き声へ伸ばす。
 指先が柔らかい物に触れた。撫でる様に手を動かせば猫は不満そうに鳴く。ふむ。レイヴンはその猫を抱き上げてみた。
 黒く汚れた生まれて間もないのか、小さ過ぎる子猫だ。小さい口を大きく開き、胡麻のような牙を見せてにゃーおと鳴く。目はまだ開かないのか、衰弱して開かないのか何色の瞳かは見えない。
「……………………」
 その掌に伝わる体温を感じながら、レイヴンの脳内には一瞬にして多くの事が流れて行った。その一端を記すなら、この猫を拾って帰るべきだろうか。しかし、食い物の面倒とかどうしてやれるだろう。皆に面倒をかけるなら拾って行くべきではない。しかしこの後拾ってくれる人間が現れようか?この裏路地は人通りは少なく、研ぎ澄ました己の聴覚が認識する程か細い鳴き声を発する。親もなく他の人間が気が付かないのであれば、野良犬か夜の寒気に殺されてしまうだろう。
 あぁ、この猫、どうしよう。レイヴンの頭の中はいつの間にか、それでいっぱいになってしまった。
「居たぞ!」
 鋭い声が横っ腹を突き刺す。レイヴンが鋭く横を見れば、ギルドの人間らしき人物がこちらに向かって走って来る。反対の方角も一気にざわついた気配に湧き立つ。
「しょうもないな!」
 黒い壁を蹴り、僅かに浮かんだ体を伸ばし雨除けの小さい突起に手を掛ける。重力が体を掴んで来ないうちに壁を爪先で蹴り付け、狭い裏路地を形成する向かい合った建物の壁を目指して身を躍らせる。窓の僅かな突起を、転落防止の柵を、壁の僅かな突起を、暗闇の中から少しの光に浮かび上がった物を優れた動体視力で認め、次々に足掛けにし足場にする。重力から解放されたかのような動きは、瞬く間に二つの壁を交互に飛び交って屋根に到達する。
 屋根に上り、レイヴンは小さく唇を噛む。こうなったら、なりふり構わず全速力で街の外を目指そう。
 猫を落とさぬよう懐に押し込むと、レイヴンは屋根を力一杯に蹴った。両手はどんな事にもすぐに対応できるよう振ったりもせず、広がる外套をそのままに次々と屋根に飛び移る。その姿はまさに翼を広げ飛ぶ鴉のようだ。遠くは緩やかに角度を変え、近くは激流に流されているかのような勢いでダングレストの町並みを飛び抜ける。一つ大きな屋根を飛び越えると、目指していたダングレストの出口の一つ、川に掛かる大きな石橋が目の前に広がった。
 ゴールだ! そう笑顔に頬が緩みそうになったレイヴンは、その頬の筋肉を引き攣らせなくてはならなかった。
 目の前に広がる川は紅の空を反射して、宝石を散りばめたかの様に波は輝く。橋は深紅に熱されて、黒く落ちる影のアクセントは憎らしい程に美しい。橋を行く人々の流れは止まっているかの様に緩やかで長閑な風景そのままだ。対岸の遥か向こうの空からここまでかけて描かれる、自然の色彩のグラデーションの素晴らしさに普段ならのんびりと眺めていたいくらいだ。
 石橋のど真ん中で仁王立ちする、白い装束の巨体が居なければ。
 その笑みは不敵極まり無く、白髪を背中に無造作に投げすらりと長刀を抜き放つ。きらりと光るその刀身に赤い光は映り込めず、青白くさえ見える。
 圧倒的な気迫が、強烈な向かい風になりレイヴンに吹き付ける。並の人間なら足を凍り付かせ身動きさえ封じるそれだが、レイヴンもにやりと笑みを浮かべて速度さえ落とさない。足音も立たぬような疾走が、巨漢に影が触れようかという所でキュっと高い音を初めて響かせた。そこで通行人達は黒い風が人の形をしていると初めて気が付いた。
 横薙ぎに白刃の軌跡が描かれると、石畳の上に転がっていた石が高い音を立てて弾かれる。剣圧に砂埃が舞うが、そこに黒い影は無い。
「おぉっと」
 ドン・ホワイトホースは嬉しくて仕方ない様に笑った。振り抜き様遠心力を利用して振り返り伸ばした指が、僅かに残った外套の端を捕まえる。
 グンと引かれる感覚に、レイヴンはまさかと目を丸くした。獲物を持っている側に進路を向けて飛び越え逃げ仰せるかと誰もが思ったが、ドンの身体能力の高さにそれは叶わなかった。刃を抜く暇がない。外套の留め金で窒息しないよう、咄嗟に首の前に手を差し入れる。
「挨拶くらいしていかねぇか、レーヴァン!」
 外套ごと投げられ、体が重力の及ばぬ所へ一時的に泳がされる。滞空している間に追撃を仕掛けようと迫る巨体に向けて、レイヴンは変形弓を取り出して矢を射る。バックステップの進路も予測した射撃を、ドンは弓矢を掴み鋭く投げ返す。放った反動を利用して弓を変形し刃に変え、レイヴンの目の前で高い音と衝撃が爆ぜた。
 思った以上に、強いじゃねぇか。
 想像通り、強敵だ。
 互いにそう思った。ドンは笑みを浮かべ、レイヴンは苦笑いに歪めた唇の上で真剣なまなざしを向ける。橋の端まで投げられて、ようやく足が地面に付く。まだ投げられた勢いは残り、ぐらりと足が揺らぎ頭が川側に持って行かれそうになる。しかし戦い慣れたレイヴンなら、その揺らぎすら利用して次なる動作に移行する筈だった。
 懐に収まっていたそれが、急激な動作に不快そうに身じろぎする。
 にゃーお。
 猫が顔を出す。世界の意地悪に引っ張られ、その小さな体が川へ向かって飛んで行く!
「…!」
 レイヴンは跳んだ。ドンの方へではなく、猫の方へ。
 猫を掌に優しく納めると、橋を振り返る。ドン・ホワイトホースとレイヴンの視線がかち合った。
 その瞳がこれからどうするかを告げていると、ドンは感じる。
 その瞳が自分の言いたい事を理解している目だと、レイヴンは思う。
 レイヴンは猫を放り投げる。微妙な力加減に、精一杯受け取って欲しいと願いを込める。
 ドン・ホワイトホース目掛けて投げられた猫は、ゆっくりと美しい半円を描いて薄暗くなった空を猫が舞う。レイヴンが見れたのはそこまで。一瞬にして橋が飛び出すように競り上がり、ぐぐもった音を響かせて体を冷たい水が包み込んだ。
 私が今までの経験の中で最も危険だと思う物が二つある。
 遠ざかる深紅の水面を見ながら、昔世話になった隊長の声が響く。根っから貴族の隊長は己の弱点など漏らす事など無かったが、独白の様に隣に居た若者に一度だけ語りかけた。
 それは白い巨漢と機嫌の悪い女房だ。
 接近は失敗と同じ。接触は身を滅ぼす。これらを確認した暁には全力で回避に徹するのだ。
 理解したかね? シュヴァーン。
 思わず返事をしようとして、口から泡が溢れた。