心に火を付ける

 フレンは外へ出て星を見上げていた。ノードポリカに吹き付ける潮風に乗ってか、雲は多めで流れが早い。星を隠しまた現し、時に月明かりを空かして現れる乳白色の色合いは虹彩を滲ませる。頃合いは深夜であり街灯以外で灯るのは漁に出ている漁船の明かり。空の深い黒が漏れて流れた漆黒の海の上にも人の灯す光が煌めき、空のうえに浮いていたらこのように見えるのではないかとフレンは思う。
 気が紛れたと思えば胸中に影が過る。なんと言う感情なのかはっきり言い表せなかったが、これではいけないと右手を剣に添える。
 騎士団前団長アレクセイ・ディノイア。歴代団長では最高の剣術の使い手と称される実力と、魔導器から魔法など多岐に至る知識。一度だけ手合わせした時の圧倒的な力の差。今でもそれを越える程の敵に遭遇した事は無い事から、強大な敵となるだろうと思っている。
 それなのに己に迷いでもあるのだろう。剣が重い。手に馴染まない。これでは勝てるどころか、仲間が危険に晒されるかもしれない。彼の実力を知る者は己を除けば一人だけ。そう考えれば迷いを消そうと焦りが募り、それが更に感情に影を投げかけて広げるのだ。フレンは右手首を左手で強く握りしめた。
 ザウデ不落宮周辺の天候は厚い雷雲に包まれている。パティ予報は落雷注意。バウルで突撃しても人間は危ないのじゃ…、との事。だが、明日は出発するだろう。それまでには…。
 目映いばかりの金髪を暗闇に浸し、青空のような真っ青な瞳は陰るばかり。いつも優しげに微笑んでいるか爽やかに笑う口元は苦悩に噛み締められていた。しかし、そんな騎士団団長代行の顔を見る事が出来るのは、広い海と広い空にあるものばかりだ。
 仲間に不要な心配をさせたくない配慮であっても、背中が見えるのでは意味が無い。
「あらま、寝ないの?」
 こんこんこん。板の上叩く靴底の音が、しっかりとした足取りの間隔で近づいて来る。
 まだ聞き慣れないレイヴンの声であるのが分かった。フレンが振り返ればその通り、ギルドユニオンの幹部であるレイヴンがボサボサの髪を掻き回して大きく欠伸をする。レイヴンはギルドユニオンとしても今回の騒動を黙認する訳にもいかないと、今は亡き『天を射る矢』首領の遺志を引き継いでの参戦となっている。
 しかし、その正体は帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインその人だ。前団長の懐刀と言われたその人が参戦する胸中は計り知れない。
 深夜であり当然眠っていたのだろう。大きめのサイズの服はだらし無い皺を刻み、ブーツも足を引っ掛けただけで留めては居らずぶかぶかしている。酷く眠そうで瞑っていた瞳を細く開けば、心配そうにフレンを見る碧色が覗く。
 フレンは小さく頭を下げる。
「…すみません」
 顔をなかなか上げないフレンを見て、レイヴンは小さく溜息を漏らす。フレンには見えなかったが、一瞬現れた表情はシュヴァーンの顔だった。
 ひょこひょこと戯ける様にフレンの横に歩み寄って、先程まで見ていたのだろう夜空を見上げる。掛ける言葉は特になく、無言のままレイヴンはフレンの傍らに立っていた。月の前をいくつもの雲が通り過ぎて行った頃合いになって、レイヴンはぽつりと呟いた。
「青年は聞きたくないって断られたけど、フレンちゃんには聞いてもらおうかしら」
 いつものレイヴンがするような底抜けに明るい口調ではない。
 低い声を紡ぐ真剣な想いが、黒い空気に静かに溶けて行く。シュヴァーン隊長は口数が少ない事で有名だったが、レイヴンもまた余計な事が多く混ざって真意を垣間みるのが大変な人物だ。フレンは耳を傾ける。
「アレクセイは凄い努力家で頑張り屋さんなのよ。評議会はアレクセイをどんなに憎らしく思ったか、想像もできないわ」
 レイヴンは知っている。
 皇帝陛下が崩御されあらゆる権力を手に入れた評議会が、平民を搾取し自分達が利益を得るばかりにしようとした野望に正面から立ち向かったアレクセイの事。それは騎士団内部よりも、外側から見た方がよく見えたものだった。日に日に水面下の調停が容易いものとなる水中の温度の上昇は、アレクセイの力だと思っている。ラゴウやキュモールのような人物が今の時代までしぶとく存在はするが、それでもその行動は崩御された直後に比べれば赤子の様に他愛無いレベルになっていた。それは騎士団というよりもアレクセイが、強力な抑止力になっているからに他ならない。
 騎士団の改革も怠らない。平民を登用し、騎士団の力を着実に取り戻し、実力は身分を越えて重要視される事を当たり前とした。それは騎士団内部から見なければ分からず、書類や数値では分からない空気の様に見えぬものだったがとても重要なものだった。
 勿論、レイヴンならシュヴァーンの功績も少なからずあると分かる。しかし、シュヴァーンは己の功績を認める事はしない性格で、その面に限れば非常に頑固だった。だからレイヴンとして遠くから認識しておけば良いと思っている。
 レイヴンは大変な時代だったのね…と思い返して空に微笑んだ。
「目指したのは当たり前の正しい行いが出来る事…ただそれだけ。でも、その当たり前はとても遠いのよ。十年追いかけたって…まだ遥かにあるの」
 シュヴァーンもあの熱意には根負けしたものだ。その当時を思い出しレイヴンは笑う。
 包帯が取れてもまだまだ病み上がりのシュヴァーンに、アレクセイは隊長主席になるよう命じてきた。それは人魔戦争を生き残った功績や彼の人徳の高さ故の人選であったが、当時のシュヴァーンは功績を認められる事に拒絶的な反応すらする強い後悔の念を持っていた。そんな男に首を縦に振らせて隊長主席にさせたそれは、新しい団長の熱意と掲げた目標だった。
「皆アレクセイが狂った様に言うけど…おっさんはそう思わないわ。根っ子は青年と同じ」
 フレンは親友の事が話題に上がり、思わずレイヴンを見た。彼はいつの間にか微笑み、悲しそうな色を宿す瞳でフレンを見る。
「目の前で人が死ぬのに法が整うまで…って見殺しにできる?」
 かつて親友が己に投げかけた言葉と同じ内容に、フレンは瞳を見開いた。
 しかしそこには返事に窮する己に冷たく背を向けた親友は居らず、代わりに己の感じる苦い感情を静かに酌むレイヴンがいる。
 レイヴンはフレンの胸中を理解している様に瞳を和ませた。それは過去にどれだけ法の不備に悔しい思いをし、生命が散る不条理に嘆いたか分からぬような理解の良さだった。フレンには悲しくさえ映る。
「アレクセイは頭がいい。法を整うまでの途方も無い時間が必要なのを知っていて、どうにかその時間を短縮し自分の生命あるうちに法が整うチャンスを用意したかった。その為の、謀反。アレクセイは後の世に大悪人と罵られても、騎士の名を除名され名誉を否定され穢されても、正義を未来に齎したいのよ」
 頭を殴られたかのような衝撃に、フレンは頭がグラグラした。
 自分の尊敬した団長の謀反を信じられないと思いながらも、悪事は許さないというフレンの信念の元に進んで今ここに居る。しかし、レイヴンの言葉はアレクセイが悪事と分かった上で、後の正義の為に突き進んでいるというのだ。己の目指す正義の為に、アレクセイは己の生命と同価値のあらゆるもの全てを掛けてそこにいるのだ。
 引き返すなど叶わない。やり直す事など出来ない。目的を達しても、待つのは自身の破滅だけ。
 己の事を誰よりも理解している部下すらも捨てた。レイヴンの言葉を聞いた後なら、それは同罪を負わせたくないアレクセイの優しさに思える。
 どれほどの覚悟を重ねれば出来るのか…フレンには想像もできなかった。
 愕然とするフレンを見て、レイヴンは彼の剣に視線を移した。柄を強く握り白くなっている手に、浅黒い手をそっと添える。
「フレンちゃん、アレクセイを打ち倒しなさい」
 フレンの瞳をレイヴンは真っ向から見た。
 願う様に紡いだ言葉は歌う様に響く。
「未来を担う騎士が正しき行いをする事…それは皆の願いなのよ。その願い、裏切っちゃ駄目よ」
 『アレクセイに証明してやってくれ。貴方の理想が叶ったのだと…』
 そこで真面目だった顔を、茶目っ気たっぷりの笑顔にウインクまでしてレイヴンは続けた。
「誓えちゃう? フレンちゃん?」
 ぽかんと口すら開けてフレンはレイヴンの顔を見る。
 いつの間にか剣を握りしめる手は熱を帯び、小刻みに震えていたの元凶は武者震いにとって変わられる。添えられている手は、最早今にでもアレクセイに挑みそうになる闘志を抑えるようだった。激励は決して大げさではなく諭す様に静かなのに、心に炎が灯される。その炎はきっと燃え尽きる事なく騎士達の支えとなる。シュヴァーンはそうして、今まで何人もの騎士を勇気づけて来たのだ。レイヴンである今でも。
 フレンが満面の笑みを浮かべる。情熱に燃える青い瞳と赤み差した頬には、一刻前の悩みなど欠片も無い。
 闘志と希望に輝く顔に満足そうにレイヴンは表情を緩め、フレンの言葉を待つ。一秒も必要は無かった。
「…はい!」
「よしよし、若者は元気が一番よ!」
 快活に笑うレイヴンに、フレンも照れくさそうに笑った。暫くして宿に戻った時、レイヴンは驚愕の事実を知る事となる。その為にホットミルクやら入れてやったりするのだが、焼け石に水。今度は興奮し過ぎて眠れないのを、リタに呆れられる翌朝をありありと思い描く。
 空を流れる雲はいつの間にか無くなり満天の星空が広がっている。明日は快晴だ。レイヴンは風を感じながらそう思う。
 パティ予報は二度寝に最高の朝日の温かさ、そんな明日がやって来る。