碗の内側

 10年前まで騎士団では定期的に『闘茶』と呼ばれる催しがあった。
 本来は有名な茶の生産地で行われていた茶の味を飲み分けて銘柄等を当てる競い遊びである。内容も細かく見れば様々であるが、騎士団では少しだけ趣旨が異なる。
 騎士団創立時から多くの貴族が居たので、その趣味は趣き溢れたもの。その最たるものが喫茶に関する事だった。騎士団で最も上質な茶の供する者を競うのが騎士団流の『闘茶』であり、その優勝者には皇帝陛下を招いた喫茶の席にて陛下の御前にて茶を供する事となっていた。それぞれの隊が己の隊の名誉の為に、騎士個人は皇帝陛下の御前に与れる栄誉の為にその実力を競う。どの任務よりも優先される重要事項であり、その真剣さは戦闘宛らであった。
 オルニオンの長閑な空気の中で、ドレイク・ドロップワートは新しい時代の流れに目を細めていた。
 新たな皇帝の誕生、若き騎士団の熱意、ギルドの協力、これから生まれるだろう新しい世界。あの城の中で本を読むばかりであった姫君の成長と、将来を期待せざる得ない器の大きな若者の出会いは、ドレイクを幾度と唸らせ再会を楽しみにさせたものだ。後を任せたアレクセイの事は残念に思ったが、彼が貫いた正義の形が実を結んだ今をドレイクは無駄とは思わなかった。多くの争いが、多くの人々の死が、そして激動の渦に呑まれ消えて行った幾多の悲劇が、一つの区切りを向かえようとしているのだとドレイクの騎士としての勘は告げていた。
 そう思えば長かったものだ。ドレイクは今までの旅を反芻する。暫くして活気に満ちた賑わいを割って、知った声がドレイクの思考を軽く叩いた。
「騎士様、騎士様」
 人懐っこい戯けるような口調が、軽快な足取りと共に近づいて来る。振り返れば紫の上着を羽織ったギルドユニオンの幹部、レイヴンが盆を持って歩み寄って来る。
 見慣れたギルドの者達はともかく、人懐っこい年上らしからぬ行動に怪訝な顔をする騎士も多かったがドレイクがレイヴンに会うのは初めてではない。誰であっても厳格な態度を崩さないドレイクの様子に、普通の人間どころか騎士でさえ気圧されてしまうがレイヴンは愛想良く笑う。厳格な騎士団顧問官と軽薄なユニオン幹部の組み合わせに、周囲の目があれば逆に心配しただろう。
「いい陽気ですし、一服でもしましょうや」
 いやぁ、もう、ハリーったらドン並に人使いが荒くなってしょうがないわ。皆に茶ぁいれてやれなんて言うんですよぉ? メアリー社長まで良いお茶っ葉ここぞとばかりに出して来ちゃって、もう、おっさんお茶入れざる得ないじゃない。騎士様で最後になっちゃってすみませんねぇ。大工ギルドの頭領や、忙しそうな騎士様方に配って遅くなっちゃいましたよ。あ。でも、とびきり良いの用意しましたよ。
 レイヴンは騎士団の鏡であるドレイクを前にしても、相変わらず調子が良い口調で話す。
 それでもドレイクは嫌悪感を滲ませはしなかった。ギルドの若頭が茶を入れろと言ったのは事実かもしれないし、茶葉を用意したのも本当の事であろう。しかし、それがオルニオンにいる全員に入れろとは言わなかった筈だ。レイヴンは未来の為に話す者達だけでなく、今汗水流して働いている者達全員に配ったのだ。労いの意味もあるが、それは人としての気遣いであった。
 温かい日差しを受けて芝生に腰を下ろし、立てたばかりの新しい壁に寄りかかり、最初は茶の感想であったものが出身の話になり他愛無い会話になって弾んで行く。ギルドと騎士達が互いに同じ茶を飲み、休憩する場からは談笑が聞かれる。その光景は微笑ましく形に残らぬ財産のように輝かしい。
 それこそが人の上に立って尚、人々から慕われる好ましいレイヴンの本質でもあった。彼を部下に一度持てばその偉大さを痛感するだろう。だからこそ、彼の上に立つ者が改革に勤しめたと言っても良い。
 どうぞどうぞと勧められるままに、ドレイクは芝生に埋もれるようにある岩に腰掛ける。目の前に一人用の小さい盆が寄れば、黒塗りの蓋の乗った茶碗とお茶請けのバターサンドが二つ用意されている。バターサンドは手掴かみで食べれるように、糖分や塩分を補給する意味でも用意されているのだろう。バターが諄くないように、中にはレーズンかオレンジが混ぜ込まれているようでそれぞれに果実が見える。
 喫茶の事柄に関してはそれなりにうるさいドレイクが、フム、と見定めるように見てから言う。
「頂こう」
 蓋付きの茶器は丸みを帯びた有り触れたもの。黒い釉薬はしっとりと手に吸い付き、温かい温度がじんわりと指に伝う。
 同じ釉薬の掛けられた蓋を外すと、しっとりと濡れて光を反射する器の中身は蜜柑の白い花一つ。ただしそこから沸き上がる様に、濃厚な茶の香りがドレイクの鼻先を撫でて通る。茶の香りに寄り添う様に甘酸っぱい柑橘系の香りがする。蜜柑の花が表す通り、その柑橘の香りは蜜柑に違いない。ここに来る道中、蜜柑が花を咲かせていたのをドレイクはふと思い出す。
 『一服しますか?』そんな事を言いながら空の碗を渡すとは…。
 ドレイクは呆れながらも笑ってしまった。
 かつてそんな茶を供した若者が居たからだ。最後の『闘茶』の優勝者シュヴァーン・オルトレインである。
「あの冷静で皮肉屋のトールが、陛下の御前で激怒したな」
「あらら。皇帝陛下ってお偉い人なんでしょ? 大丈夫だったんですか?」
 レイヴンはあからさまに身震いして、怯えがちに肩を竦めてドレイクを見上げる。しかし、瞳だけは楽しそうに細められている。
 よくもまぁ、誰よりも知っているくせに抜け抜けと聞くものだ。ドレイクも笑いながらレイヴンの言葉に答えた。
「陛下は情に厚い方だ。無礼を許し、賛美の言葉まで賜って下さったものだ」
 あの時の陛下の手放しの賛辞を、その場に居た誰もが不思議に思ったものだが今なら分かる。ドレイクは目の前の空の碗から胸一杯に吸って僅かに香るのみとなった茶の香りに、喉元を過ぎる上質な茶の味を思う。それは今までに呑んだ事など無い甘美で豊潤な味わいを感じさせるのだ。
 嗅覚で楽しむその茶の豊かさに、ドレイクが昔を懐かしむ。
 そして遠くに友人の声を聞く。なりふり構わぬあの罵声。長い付き合いなのに、初めて見た彼の生気に溢れた感情を。
 トール・ド・ヴィアはドレイクの同期であり、ある意味誰よりも貴族らしい貴族だった。感情を荒立てる事は滅多に無く、合理主義を武器に毒舌で多くの上官を打ち負かしていた。唯一の欠点を述べるなら奥方に勝てない事くらいだが、内容はのろけもいい加減にしろという程の幸せな家庭である。頭脳明晰な男である彼が皇帝陛下の御前で声を荒げるような激情を見たのは、後にも先にもそれだけだ。
 ドレイクは再び碗に視線を戻す。空なのが今はとても恨めしく思えば、横から浅黒い手が急須を持って茶を注いだ。白い花がくるくると回る。
「レイヴン」
「何でしょう?」
 足下の芝生に腰掛けたレイヴンは自分の分のお茶を啜ろうとして、芝居がかった声で聞き返す。碧の瞳の鮮やかさを見下ろして、ドレイクは言った。
「ようやく、お前も碗の中身を満たせるようになったのだな」
 レイヴンが意味を掴みかねたかのように眉を寄せる。
「違うかね? レイヴン・オルトレイン?」
 畳み掛けるようにドレイクが続ける。名を呼ばれて…では当然ないのだが、レイヴンはもごもごと口籠った。
 シュヴァーンもレイヴンも献身の意志が強過ぎて、己の事を顧みない性質が強かった。ドレイクはそれを空の碗に例えたのだ。
 碗の中身を満たす。それの意味する事を理解できぬ程シュヴァーンは鈍感ではなかったし、レイヴンは態度に隠してはいるが切れ者である。シュヴァーンを取り巻く騎士達の活気に満ちた表情を見れば、レイヴンを取り巻くギルドの人間達の親しげな態度を見れば、その器を満たすものが如何なるものかを想像するのは容易い。そして彼の名前。何処かで、レイヴンとシュヴァーンを隔てているものが氷解しているのだ。ドレイクはそう思う。
 世界に添って生きて来た男だからこそ、世界の変容に彼自身も変化の兆しが見えているのだ。
「全く…騎士様ってのは意地悪ね」
 レイヴンは照れたように笑った。すると何処からかレイヴンの名を呼ぶ声が聞こえ、彼は一つ頭を下げて声の方角へ向かう。その紫の背中の向こうには騎士もギルドも関係なく混じる集団が居て、なにやら話し合っている。犬猿の仲と言われていた両者の姿はそこには無い。
 ドレイクが一口啜ったお茶は香りの通り美味かった。