深夜の船

 枯れ葉を砕く音と擦れる音が混ざり合った音がレイヴンの意識を叩く。
 しかし刺すような殺意や敵意はそこにはなく、生き物の鳴き声が聞こえる。深夜の動物達や魔物は人間に襲う時は鳴いたりせず、妙な静けさが纏わり付くがそれが無い。
 仲間が立てた音に違いない、それでもレイヴンは重い瞼を上げる。しっかりと休息して体力を回復させなければ若者達に迷惑を掛けてしまうのだが、それでも仲間の状態に変化があるのでは…と確かめなければ気が済まない自分の性分の変わらなさは呆れを通り越して諦めている。二呼吸する間に出来てしまうのであれば、そうして安心してしまえば良いのだ。
 レイヴンは眠気に重い体を捻って起こし、背を向けていた焚火の向こう側を見遣る。若者達が寝息を立てている音は聞こえないものの、規則正しい呼吸で胸が上下している。苦しげな様子や眠れそうに無い様子は見受けられない。周囲の殺意に最も敏感なラピードも、黒衣の青年の脇で丸くなっているのを見ると敵襲は無いだろうと再確認する。そして、自分も寝ようと睡魔にキスしようとして思い留まる。
 レイヴンはもう一度、碧の瞳を糸のように細くだか開けて仲間達を見る。全員眠っていないだろうか? 上半身を僅かに起こして周囲を見るレイヴンに、いくら独りで考えに頭が一杯で気が付けませんでしたなら困った話になる。一人一人に視線を投げて、全員が眠っているようにしか見えない。レイヴンは溜息をついた。
 見張りは交代制とはいえ、深夜を女子供が不寝番をする事は殆ど無い。しかし、殆ど無くとも全くない訳ではない。不寝番が苦手な者が当番になったのだろう。
 今回の当番は誰だ? そうだカロルが当番だ。
 視線をカロルに向ければ、こくりこくりと船を漕いでいる。若き『凛々の明星』の首領は根から元気なのかといえばそうではない事は、ユニオンの情報網でも聞きかじっている。色んなギルドを転々とした少年の話は、ユニオンではなかなかに有名だったりする。己のギルドを持って気が張っているのだろう。戦闘も積極的に前線へ出ているし、使い慣れているとはいえ全力で扱う必要がある武器が相棒だ。レイヴンのように技量で補う所を、全て少年は力技で押し通しているのは見た通りのまんま。威力はあるが、体力の消耗が激しいのだって簡単に分かる。
 本当なら休ませてやりたい所だが、人の上に立つ事を選んだのなら少年と言えど甘えさせる事は出来ない。
 レイヴンはのそりと起き上がる。
 埃っぽい髪が顔や肩にバサバサと落ちて来て、結び目の跡を癖として強く残す髪型は別人のようだ。紫の羽織を肩に引っ掛けて、脇に置いていた荷物の中を軽く漁る。小さい金属製の鍋と水筒、カップ、茶葉の入った瓶をひょいひょいと腕に放り込む。物音も空耳と疑うような小さな音で目的の物を抱えれば、レイヴンは足音一つ立てずに焚火の傍に腰を下ろした。
 一人分のお湯を沸かすのが精々の大きさの鍋に水を注ぐと、熱を伝えやすい金属の内側はあっという間に泡がこびりつく。沸騰を待っている間に、茶葉を入れている瓶の内側に丸めていた清潔な薄い布を広げる。一人分の茶葉を入れてくるっと包んだ口を紐で結わけば、即席のティーパックの完成だ。沸騰したお湯と一緒にカップに入れれば、少しの時間でお茶が出来る事だろう。ついでにもう一つ作っておこう。色と香りがお湯に移り行き、ラピードがそっと眠そうに目を開けてまた閉じる。
 そろそろ良いかしら。レイヴンは即席ティーパックを外す。布を広げて使ってしまった茶葉を棄てて、布を軽く絞って水気も捨てる。
 いつもは丹念にセットしている髪型も、交代前に寝た時に崩れてしまっていて少し珍しい。少年らしい丸みを帯びた無防備な寝顔に、レイヴンはまだ寝かしてやりたいなぁ…と苦笑した。
 カップを片手にレイヴンはゆっくりとカロルに歩み寄った。
 船を漕ぐどころか、夢という海の底に沈んでしまったカロル号を揺する。
「少年」
 ゆさゆさ。起きそうに無いな。レイヴンは少し手に力を入れる。
「カロル」
 小さく呻いて意識が浮上して来たのだろう。そう思えば、覚醒は一瞬だった。自分が不寝番だと思ったカロルは眠ってしまった事への驚きと焦りに、体にバネでも仕掛けたかと思う勢いで顔を上げた。体に掛けていた毛布がずり落ちる。そして目の前の焚火の光を遮るように大きく聳える黒い影に、びくりと硬直する。赤い光に微かに浮かんだ紫の衣の裾を見つけ、滅多に下りていない髪型のレイヴンだと気が付くと、ようやく体の緊張を解いた。
 それでも不寝番でありながら眠ってしまった失敗にパニックになった思考が落ち着いたかと言えば、いいえである。
 『ごめん、レイヴン!』そう勢い良く言いそうになった口元に、人差し指がずいっと寄る。
「まだ、皆寝てるわよ」
「ご、ごめん…」
 萎れるように申し訳なさそうにカロルは謝る。レイヴンは苦笑しながら手に持ったカップをカロルに渡す。熱湯のお茶の温度はカップの外側にも伝わっていて、受け取ったカロルはあちちと慌てて毛布で包む。
 よっこいせ、とおっさん臭い掛け声でレイヴンがカロルの横に腰を下ろす。
 熱と格闘しながらカロルがレイヴンの入れてくれたお茶を啜った。お茶は濃いめに出されたもので、熱さのせいで嫌にならない程度の渋みと苦みが香りとともに広がる。驚きと焦りが落ち着いて頭を擡げそうになった眠気を、静かに抑えてくれる。
 カロルがそっと隣のレイヴンを盗み見る。
 怒りなど微塵も見せず、静かに焚火の炎を見ている横顔はいつもの表情豊かなレイヴンとは全く印象が異なる。年相応の豊かさを穏やかさの影に滲み、苦労が口元や目元の真剣な部分に苦しそうに浮かんでは消える。ちらちらと赤い光が癖の強い髪の波に移り、碧の瞳が紅葉のように色付く。その表情が笑った。
「おっさんも不寝番に慣れない時は、よぉく船漕いだもんよ。それをすっごくおっかない先輩に見つかってねぇ…」
 いつもの感情に富んだ口調でありながら、声のトーンはかなり抑えめである。今が深夜で仲間が寝ているからだ。
 そうでなくともレイヴンにとってその過去は背筋の凍る感覚を背中に貼付けたままである。時間が経って笑い話にようやくなったが、まだまだ苦みが強い思い出である。
 しかし、カロルはレイヴンが昔の事に触れる話をするのは意外に思えた。成り行きやドンの命令で行動を共にする事になったとしても、未だに彼の出身や過去や立場を全く知らないのだ。出身地は結界魔導器が寿命でなくなっているかもしれない、両親だってレイヴンの年齢を考えれば他界していてもおかしくはない。家族だって今の暮らしでは疎遠にならざる得ない。ユニオンは全てのギルドに対して中立でなくてはならず、レイヴンが仕事の中身を打ち明ける事は掟に反するので絶対にしないだろう。それでも、過去に触れればそれなりに話をはぐらかす。避けているのだと誰もが分かっていた。
 饒舌で多弁な男だが、きっと昔は嫌な事がいっぱいあったんだ。カロルはそう自分に納得させていた。
「怒られたの?」
 相槌を打てばレイヴンが人懐っこく笑って首を横に小さく振った。
「カップ寄越して黙ぁってどっか行っちゃったわ。翌日一番に言われた事は『茶を入れろ』だったかしらね」
「優しい人なんだね」
 カロルの言葉にレイヴンは困ったように笑って頭を掻いた。普段は結っていてあまり変化のないその髪は、乱れに乱れてぐちゃぐちゃになっている。
「…口が悪くて嫌みばっかり言って無言で怒りぶつけて来る怖い人だけど、結局良い人だったわね」
 焚火の炎を見つめて溜息のように零れた言葉は、照れくさそうで温かい。カロルはレイヴンの過去もそんなに悪いものばかりじゃないんだと思った。そう思えば、レイヴンには聞きたい事ばかりだ。どんなギルドに居たのか、ドンとはどんな風に出会ったのか、後から後から湧いて来るようだ。仕事に触れて困らない程度の過去なら聞いても大丈夫かも…! カロルはぱっと表情を明るくする。
 しかし、レイヴンは狡い大人で少年よりも一枚も二枚も上手である。
 口を開くと同時に、浅黒い大きな手が頭を乱暴に撫でた。
「会話は万能薬よ、少年。眠気も憂鬱も吹っ飛んだでしょ?」
 ぐしゃぐしゃになって前に落ちて来た髪の向こうに、立ち上がったレイヴンの姿がある。片手を上げて、にやりと笑う。
「じゃ、少年。おやすみ」
 足音も立てず寝床にしていた場所に戻り、ごろんと焚火から背を向けて横になる。自分は不寝番だった。カロルは思い出す。
 夜空は変わらず深い闇色に星の光を散らしている。仲間達の寝息と遠くから聞こえる獣達の声が耳に届く。とても静かで、とても孤独。それでも、手に持ったカップはまだ熱いくらいの熱を帯びて、湯気がカロルの顔目掛けて沸き上がる。何故かその温かいカップが、孤独感と眠気からカロルから守っているような気がする。
 レイヴンは良く分からない人だ。
 いい加減で、胡散臭くて、皆信用なんかしていない。それでも過去に触れてでも慰めてくれた所を見ると、結局は優しい人なのかもしれない。彼が相手では探ろうと察知されれば羽を掴むようにするりと逃げられてしまうだろう。優しい人なら、それは損な事だ。考えれば考える程もどかしく、別の事を想っても夜の闇は目の前に納得できない思いを押し戻して来る。
 焚火から少し離れた所に茶葉を納めた瓶と鍋と水筒、瓶の上には小さい布袋がある。長い影とほのかな茶の香りをカロルに投げかける。
 変なの。変だよ。カロルは不満そうに顔を歪めた。
「夜…長いなぁ」
 カロルの言葉に同意するように薪が爆ぜた。