言の葉 裏

 新たな隊長が任命されるとの事だ。
 そこで一番に名が挙がるのはファイナス・シーフォである。人事の話題が上がれば『ついにファイナスが隊長か?』と毎度囁かれる。
 そんな彼が出世出来ない騎士として有名だった。シーフォ家は平民に近い低い立場の貴族であったが、ファイナスは実力に秀で学もある。ドレイク現騎士団長の第一小隊の隊長を堅実に務めて来た実績もあり、団長からの信頼も厚く正義感に満ちあふれた立派な騎士である。
 事実は事実だが、人々の口から出る言葉には必ず裏がある。
 今の帝国騎士団は貴族意識の強い人間がとても生き難い場所になっていた。団長のドレイク・ドロップワートは帝国に忠義を尽くす尽忠報国騎士であり、己の欲望等微塵も持ち合わせていない帝国の剣を人の身に移したような人物である。彼と並んで隊長を務めるトール・ド・ヴィアは、帝国内の腐敗に対しては任務への支障の根源と嫌悪している。ドレイクの忠誠心の眩しさの下では不正は賄賂は上手く行き渡らず、ここぞという時にトールが真横に居て摘発はしないが嫌味を利かせた毒舌を吐く。二人は全く違う方法で帝国の貴族意識からくる不正や汚職を抑制していたのだ。
 実はファイナスは帝国の汚職や不正に疎く、彼が隊長格に昇進すれば裏での行動がやりやすくなると考える人間が多く居たのだ。嬉しく無い期待である。
 しかし、今回も彼が昇進する事は無い。今回昇進するアレクセイ・ディノイアの家柄と人柄から、己の利益に貪欲な貴族共の嘆く声が今から聞こえそうだ。このまま不正や汚職が潰されてしまえば可愛いが、まさに黒いゴキブリのような生命力を持つのだから憎たらしいほかあるまい。トールは煙管を形ばかりに銜えて、管の中に残った僅かな香りを吸う。
「ここまで腐敗した精神が根付くと、いっそ爽快な思いだ。ドレイク、手腕が足りんな」
 トールの口調は苛立たしさを助長するような響きであるものの、内容は小気味良い程の腐敗への批判である。トール程露骨に批判を言って似合う騎士は探してもいない。
「隊長主席の席に就けと説いても聞かぬ、お前に言われたくは無いな」
「私が主席になっておれば、お主の頭は随分昔に胴体と別れているだろう。この世の生に未練がないのであるならば、喜んで主席になるぞ?」
 自信と皮肉たっぷりに言い放つ言葉だが、ドレイクは生真面目な顔に怒りすら滲ませない。
 この二人は騎士団の同期であり、同じ戦線を潜り抜けた戦友でもあった。トールの戦術は今でも帝国で最も卓越したものであり、多くの戦場の騎士達に優勢と勝利を齎したのだ。口先だけではない実力でありながら、彼は帝国騎士団no.2である隊長主席の座には就かず各地を忙しなく遊撃して回っている。
 誰が見ても仲が良さそうな関係には見えなかったが、立場もあってか共に行動する事は多い。今回もトールが帰都した直後の口頭報告で訪れているのだ。
「アレクセイは何と返答したのかね?」
 アレクセイが隊長になるという事は入団当時からの確定事項である。時期は定かではないものの、よほどの無能でない限りディノイア家の威光は相当の地位に押し上げるものだ。
 昇進を断る理由はない。トールが問うた内容を、長い付き合いからドレイクは正確に捉えていた。
「家名を用いぬそうだ」
 ドレイクの言葉にトールは冷たい笑みだけ浮かべる。
 名門中の名門の貴族が、家名を使わないとはどんな波紋を呼ぶのかこの瞬間からとても待ち遠しい。ディノイア家の当主は、怒り心頭で髪を燃やしながら騎士団に怒鳴り込んで来るだろう。評議会で貴族は家名を隊名に用いるよう義務づける法律でも作るかもしれない。全く下らない限りだ。それを血相変えて真剣に実行しようとするのだから滑稽に見えて仕方が無い。ありありと思い描かれる予想に、トールは内心楽しさが込み上げて来るのを感じていた。
 煙管に煙草と火を入れて、胸一杯に煙を吸い込む。吐いた煙が消える事、彼はようやく口を開いた。
「ドレイク。私の隊でも平民を小隊長に昇進させるぞ。精々、消火活動に勤しめ。いや、お主の言葉で言うなら協調性が損なわれないよう全力を尽くせ…と言うべきかね?」
 そこでドレイクが表情に驚きを滲ませた。
「平民を小隊長に…。お前が熱心に育てていたシュヴァーンか?」
 トールの性格から判り辛いものがあったが、シュヴァーン・オルトレインという名の若者への期待は相当大きいとドレイクは思っている。
 彼は才能ある者なら平民であろうと貴族であろうと機会を平等に用意し、帝国と皇帝の為なら貴族全員を敵に回す事も厭わない。それは全て彼自身が帝国の為に敷いた戦術の成功の為であり、敗北を喫するのを嫌い、弱み一つ見せたがらぬ貴族らしさは追随を許さない。尊大で不遜であるが、帝国の為という理を根底にしている。
 だが元々面倒見が良いのであるが、ドレイクは決して指摘しない。一度痛い目を見ているからだ。
 ドレイクの問いにトールは小さく頷いた。
「奴は聡いし勘が良い。上手く生き抜くだろう」
 平民の騎士団入団もまだ多く認められていないというのに、その平民を小隊長に起用するなど殆ど聞いた事が無かった。前例は全くない訳ではない。しかし貴族意識の強い帝国内で平民の昇進というものは稀極まり無く、反対意見と抵抗は大きく実現はまだ片手の指の数も実を結んでいないという。ただでさえ平民出身というだけで危険な任務や最前線へ送り込まれ、殉職する者も後を絶たない為、昇進する程まで生きていられる者が少なかった。
「私は欲に帝国を傾けんとする貴族を重用する帝国の体制に驚きを隠せぬ」
 そこでトールは真剣な表情に影を落とした。
「だからこそファイナスを隊長に出来ぬのは、本当に哀れとしか言い様が無いのだ」
 良いように利用され、貴族の欲望に殺されてしまうだろう。利用できぬなら、貴族の欲望は彼の正義を殺そうとするだろう。立場が低いくせに、正義感は人一倍強い。魔物や敵に対する実力に秀でているが、味方だと信じている貴族達の狡猾さを擦り抜けられる実力は無い。彼は帝国内に敵がいないと思っている。それが危険だった。
 しかし、彼が生き続ければ、彼の子供の代に昇進の悲願を果たしてやれるとは思っている。トールはそう思い、罪悪感を感じる。
 煙草とスパイスを利かせた煙が全て外に吸い出されてしまう頃には、ドレイクも渋そうな顔をして頷いた。
 事実は事実だが、人々の口から出る言葉には必ず裏があるのだ。
 ファイナス・シーフォの婚約前に決まりかけていた昇進話を破棄したのは、他でもないトール・ド・ヴィアだった。彼が結婚前夜の晩餐に招かれた時に偶然花嫁の手料理を口にしたのが、ファイナス出世を大きく遠ざけた最大の要因である。今でもファイナス自身は原因不明で体調を良く崩す。決まって帝都に滞在している間に…だ。帝都に留まる隊長職や親衛隊職を与えられぬ本当の理由を二人は墓まで持って行くつもりだった。
「お前程同情が似合わぬ男は居らんな」
 煙そうにドレイクが言うと、トールはもくもくと煙を噴かしながら意地悪く口の端を持ち上げた。
「今更何を言う。煙草を吸わんお主を前に、私が態々控える訳がなかろう」
 何故仲が良いのだろうと疑問に互いに思う。同期でもこんなに性格が違うのに、派手な喧嘩ひとつしたことがない。
 トールの悪態に、ドレイクは苦笑しながら窓を開けに立ち上がった。