人を殺す掟

 巨星が墜ち、その横に居た星の輝きを人々は頼りにし始めた。
 人々が頼ろうとした星は、巨星の遺言通り罪人を殺しに空を巡る。それでも人々はその星を頼ろうとしていた。
 レイヴンはドン・ホワイトホースの最も信頼する側近であり、『天を射る矢』のギルド員達からの信頼もドンに次いで厚かった。そんなレイヴンはギルドユニオンという連合組織の幹部であり、その組織の中では最も重要で難しい部署に当たる帝国との調停を行う者の筆頭にあった。一部のギルド員はレイヴンを『ユニオンの盾』と呼んだ。
 レイヴンを『天を射る矢』のギルドのno.2と思う人間は想像以上に多かったが、実はレイヴンはどのギルドにも属していない。その様に見られるのは、ドンがユニオンを含んだギルドと言う組織全体に及ぼす影響力の多大さを物語っていた。
 過去のユニオンは五大ギルドが共同で運営する組織であり、それぞれの組織から人員を出して動いていた。当然、自分の所属するギルドに有利なように良い仕事を斡旋したりという贔屓があった。ユニオンの平等さを欠いた行為が隠しきれなくなって来た時、レイヴンが現れた。彼は最終的に数年の時間を掛けてユニオンを完全に中立な組織にし、その業務はどのギルドにも属さぬ者が担う事となった。ギルドの力量を知った上で仕事を斡旋しギルドの損失を抑え、全てのギルドから寄せられる情報は円滑に仕事を達成する力となり、帝国との関係は水面下の調停で良好な状態へ導いて行った。それは誰もが賞賛する大改革だった。
 その余波を受けてか、ユニオンの形状はギルドに似た形に変わって行った。それはレイヴンが変えていったユニオンが、全てのギルドの代弁者に足る存在に名実共になったという事であった。
 帝国との交渉と調停。
 帝国次期皇帝候補エステリーゼの監視。
 ユニオンに属していない『戦士の殿堂』との接触。
 『戦士の殿堂』と『天を射る矢』を陥れたイエガーという存在への制裁。
 そのどれもが一つのギルドでは達成できぬ困難な依頼、ギルド全体を代表するべき大きな責任を伴う任務であった。末端のギルドに任せ、責任を逃れる事はギルド全体の信頼を地の底にまで落とす事になる。特にドンの仇討ちになるイエガーへの制裁は、全てのギルドの代表としてユニオンに託されて不公平を極限まで無くした選択でもあった。レイヴンという男の剽軽に装った肩にかかる重圧というものは、全てのギルドの命運そのものであった。
 そんなレイヴンにもう一つの顔がある事は、ギルドの人間誰一人知らなかった。
 ドン・ホワイトホースなら知っているかもしれないと思ったが、確実に知っているのは昔騎士に属していたイエガーくらいだ。ダングレストで情報屋の隠れ蓑の中で任務を遂行するレテンの耳には、レイヴンのもう一つの顔を連想する言葉を聞いた事が無い。
 もう一つの顔がダングレストで表に出て来る事は無い。一カ所だけを除けば。
 そこはダングレストではありふれた作りの建物で、外付けの階段を通って複数の住居へ繋がっている集合住宅の一室だ。外壁の煉瓦が朽ちかけている古い集合住宅は今は部屋数の半分も埋まってはいないそうだ。レテンはダングレストでは良く見かけるような服装で通い慣れたレイヴンの隠れ家の扉の前に立つ。
「お入んなさい」
 ノックをする前に声を掛けられれば、彼の主はそこに居る。レテンは伸ばしそうになった背筋をどうにか留め、気を引き締めた。
 扉の向こうにいるのは、レイヴンであってレイヴンではない。帝国騎士団隊長主席シュヴァーン・オルトレインだ。
 音を立てずに扉を開けて閉める。ダングレストの赤い日差しが長く射し込んでいて、極普通のありふれた家庭にあるだろう家具が浮かび上がっていた。あまり使われていないベッドに対し、いくつもの袋に入った珈琲豆、珈琲ミルにサイフォンやプランジャーポッド、カップと珈琲に関する物がやけに充実した台所。床には日持ちする食料の瓶詰めや、水や酒が無造作に置かれている。服がはみ出た衣類棚の横には様々な武器が立て置かれていて、その空間では少しだけ異質に見えた。少し大きめなテーブルと椅子は木目が美しいが、家具屋を探せば直ぐ見つかる物だ。
 紫の羽織を肩に掛け、いつも結っている髪を無造作に下ろしているレイヴンがにっこりと笑ってレテンを向かえた。
「お務めご苦労さん」
 明るい労いの言葉にレテンは背筋を伸ばした。敬礼はしてはならない。隊長服を纏っていない状態の彼に対する態度は、参謀から情報部隊へ徹底して伝わっていたからだ。
 簡潔に現状を報告する。『戦士の殿堂』がノードポリカへ帰還したとか、ドンの死後直後の状況などレイヴンが把握している内容には触れない。騎士に死傷者はいないとか、保護した人物は無事に自宅へ戻られたとか、各部隊が再び任務へ戻った事を伝える。レイヴンが短く詳細を聞きたがる事を手早く口頭で伝えても、数分も要らぬ報告である。それでも、全ての状態を把握した人間では勤まらない事で、目の前の人物が本当に隊全体の事を知り尽くしているのだと痛感する。
 一通り報告を受けたレイヴンが、思い出したようにレテンを見た。
「そういえば帝都は何かあったの? ちょっと前に出した調停の回答がまだ示されないんだけど?」
 砕けた口調であったが、中身は底知れぬ程深く暗い。レテンは榛色の瞳を驚いたかのように僅かに見開き、びくりと驚きに思考が止まりそうになる。レイヴンは帝国とギルドの調停役である。ギルドに対し最も穏健派シュヴァーン隊を窓口にしていても、騎士団の内情や評議会の事にも精通している。
 誰が聞いているか分からない帝都外での報告に対し、最重要事項の直接的な口外は許されていない。レテンは情報と思考を纏めるのに時間が掛かった。
「現在ヴィア参謀指揮下で任務が遂行されています」
 ようやく告げた内容に、今度はレイヴンが一言ずつ短く詳細を促す。
 圧倒的に足りないパズルのピースをテーブルの上に乱雑に広げるような質問と回答を繰り返す。状況を全て把握しているレテンですら、その破片のような報告で帝国の内情等分かるものかと思ったが、レイヴンは納得したように深々と頷いた。
「ヴィアには悪い事をしたわね。俺が謝ってたって伝えておいて」
 実はアレクセイ団長を始めとし、団長の隊と親衛隊が続々と機密任務に帝都から出払ってしまっているのだ。騎士団としての任務を平常通り行っている隊が、実質シュヴァーン隊ただ一つという状況である。圧倒的人手不足にヴィアは眉間に皺を寄せながら必要最低限をなんとか遂行しているのだ。同時に情報部隊の精鋭も帝国の内情を探るよう参謀から指示があったとか。レテンも薄々何か大きなことが起きて、今回のドン・ホワイトホースの死もその一つに過ぎないと感じていた。
 今までもこのような簡潔過ぎる報告でもしっかりと伝わっていた。レテンは感動すらしてしまう。
「了解しました」
 レテンは立ち上がり、懐から一枚の封書を取り出した。
 どうぞ、お受け取り下さい。そう差し出された封書は宛名も差出人も書かれていない。その為だろう。中身も暗号化されておらず、誰が読んでも内容が分からない事が奇麗な文字で書かれていた。レイヴンは見慣れた文字からレテンから言われなくてもヴィアからの手紙だと分かった。

 貴方は貴方。どんな名前でも構わない。私達の大切な人。
 だから無理をせず、貴方の本当に欲しい結末を手に入れなさい。
 貴方の未来に、悔いが無いよう祈っている。

 読み終えて、レイヴンは困ったように笑った。
「あの人が尻に敷かれる訳だ。敵わないなぁ」
 レイヴンの言葉と表情にレテンは流石参謀と感心していた。手紙に何が書かれているかは知らない。しかし、シュヴァーン隊の隊員の言葉を代弁した物であるのは分かる。冷静沈着なシュヴァーン隊長がぎゃふんと言う程に痛烈な一撃…ではなく一文が書き込まれているのだろう。
 しかしレイヴンの言葉を聞いて、かの参謀の旦那がどのような人物であったかは当然レテンは知らない。あの参謀が尻に敷けない男がいるならお目にかかりたいくらいだと思う。口は裂けても言えないから思うだけだ。
 珍しくレイヴンが見せたシュヴァーンの顔に、レテンは思わず声をかけた。
「シュヴァーン隊長」
「その名前、ここで呼んじゃ駄目でしょ」
 即答という程の速度で返されると、大真面目に自身を見つめて来る若者にレイヴンは向き直った。彼の部下は命令に忠実だったが、何を思ってかその命令に背く事も時折見られた。それは彼等の隊長であるシュヴァーン隊長への崇拝にまで上り詰めた尊敬が成せる業であるのだが、当の本人達も尊敬を一身に受ける隊長も欠片も気が付く事は無い。
「ギルドの法に殺されないで下さい」
 人を殺す事をしなかった騎士が人を殺す掟に従い、彼はこれから人を殺すのだ。しかも相手は旧知の親友で戦線を共に潜り抜けた同志で、巨星を墜とした張本人である。
 ギルドの法はそれを認めたが、帝国の法は殺人を認めない。どんな重罪人であっても法の下で裁かれる罪を、ギルドは殺人でもって償わせるのだ。全く異なった法律を行き来する目の前の男は、どちらの法に従うにしろ対極の法律と討つべき相手に心引き裂かれる思いなのだ。選択次第では、本当に殺されてしまうだろう。
 レイヴンは何も答えなかった。ただ、困ったように微笑んでいる。
 消えぬ事の無い願いを示し続ける手紙を、彼等は願うように見つめていた。